7.おばかな『男の娘』
「だってあなた、どう見ても間違いなく、女の子じゃありませんか」
そう言って、「彼女」の瞳を捉える。
比喩でも、見た目だけの話でもない。
「彼女」が男であるはずがないという確信が、岡田にはあった。
それは言葉では言い表すことの出来ない感覚的なものだったが、感性のみで生きているに等しい岡田が、政樹の言葉よりも自分自身の感覚を信じることは当然だった。
「宮崎護」という人間の、見た目も、声も、立ち居振る舞いも、雰囲気も、すべて。
ごくごく普通の女の子。
岡田にこは確信していた。「彼女」は身も心も、まごうことなき女の子なのだと。
そもそも片田舎の、未だ前時代的な価値観が根強く残るこの面白みのない公立高校が、そして中学校が、小学校が、心が女の子だからといって、男子生徒を一般の女子生徒と同じように取り扱うなどという柔軟な対応をするわけがないのである。
故に、答えは一つ。
「うん」
護は岡田の視線から逃れようともせず――そしてその言葉を否定することもなく、ただ瞳を細めて微笑んだ。
「そうだよ。だってぼく、最初から身も心も女の子だもの」
「な、…………」
岡田は思わず息を飲む。
目の前の「彼女」は相変わらずの笑顔で、じっと岡田を見据えている。
「……昔話をしようか」
やさしげな口調で語りだすが、その目の奥はひどく冷静で、どこか自嘲の色を滲ませていた。
「むかしむかしあるところに、とってもお馬鹿な女の子がいたんだ。何の取り柄もない、少し身体が弱いくらいが特徴の、つまらない女の子」
「か、回想シーンですね!? スチルが残るのですね!?」
「女の子は、三歳になる歳に、運命的な出会いをした。初めてその男の子に会ったとき、女の子は思ったんだ」
「おおお! 甘酸っぱい! 甘酸っぱい初恋なのですね!?」
「この人が、欲しいって」
「おお……え?」
岡田がフリーズした。
そして、勢いよく二度見。
「ほっ……うぇえ!?」
「最初は友達として仲良くするだけで満足だった。でも、幼稚園に通って、男の子にほかの友達が出来て、それじゃダメだって分かったんだ。ただ病弱な幼なじみ、それだけじゃ、男の子をつなぎ止められないって。そして今のままでは、男の子がやがて自分から離れて行ってしまうって」
「どんな幼稚園児ですか!?」
「だから女の子は、嘘をついた。ない脳みそを捻って、一世一大の大嘘を。それが、今の『ぼく』。男だと嘘をついて、なんとか帳尻を合わせて今まで生きてきた、おばかな『男の娘』」
護は、自分の隣で眠る「男の子」を、愛おしげに見遣る。
その瞳には純粋な愛情だけが満ちている。
それなのに、どこか恐ろしくもあった。
気圧され、岡田は僅かに後ずさる。
「そんな、嘘が、通じるわけ、」
「うん。ぼくもそう思ったよ。『そんなの無茶だ、いつか絶対にバレる』って」
でも、違ったんだ。
そう呟いて、彼女は「男の子」の髪を撫でた。
「彼は信じてくれた。そんな幼稚園児の、ばかでつまらない嘘を、信じてくれた。最初はね、彼も子供だったから、男とか女とか、よくわかっていないだけかと思った。でも、小学生になっても、中学生になっても、高校生になった今でも、彼は変わらなかった」
「でも、ランドセルの色とか、制服とか」
「学校に許可をもらったって嘘をついた」
「水泳の授業とか」
「身体が弱いからって言い訳して見学した」
「声とか」
「ホルモン注射したことにした」
「身体つきとか」
「豊胸、豊尻したことにした」
「嘘が思い切り良すぎていっそ気持ちが良いです!!」
初対面に等しい岡田が違和感を抱くくらいだ。
ずっと一緒にいた政樹が何も気づかないなどということは、考えがたい。よく考えるまでもなく嘘だと分かるはずで、それなのに、どうして政樹は。
岡田の脳内をぐるぐると疑問が巡る。
「普通、信じないよねえ。でも、彼は信じてくれた。それどころか、さっきの通り、そんな僕でも許容してくれた。彼の信用に報いるためなら、ぼくは何でもするよ。ぼくが彼に信じてもらい続けるために何をしてきたか、きみに分かる? 何故誰もぼくのことを彼にばらさなかったのか分かる? 何故彼がぼくを信じ続けていられたのか分かる? ぼくは何でもしたよ。彼とぼくの関係を守るために、ぼくはありとあらゆる手を使ってきたんだ。一方でぼくは、彼に守られるか弱い男の娘で有り続けた。そう。彼のために、ぼくのために。ぼくは彼すらも騙してきたんだ。信じてもらうために、ぼくは彼を騙し続けてきたんだよ」
「怖いよぅ!!」
「ねぇ、岡田さん」
宮崎護は、思わず悲鳴を上げた岡田にこを見つめる。
一見すると笑顔だが、岡田の背筋にぞくりと冷たいものが走った。
目の奥が、笑っていない。
射るような、刺すような、凍るような。
少し身体が弱い幼なじみという役回りとは程遠い瞳で、彼女は言う。
「サキくんは、ぼくの物だ」
岡田は縮み上がる。歯の根が合わない、カチカチと鳴っている。
生徒会長たる政樹に、特別な気持ちを寄せる幼なじみ。
岡田は自らが欲していたその存在を前にして、恐怖していた。
「あなたにぼくの気持ちが分かる? そばでずっとずっとサキくんを見てきたぼくの気持ちが。何故サキくんのところにあなたが現れたこのタイミングで、ぼくが倒れるような無茶をしたのか分かる? 分からないなら、想像してごらんよ。ぼくはいつか、この嘘を白状するだろう。でも、それは今じゃない。サキくんがぼくだけのものになって、ぼく以外なんて見られなくなる、他の誰も目に入らなくなる。その時だよ」
「愛が怖いよぅ!」
「思ってたやつと違う!」とのたうち回る岡田のことを、護は無言で見つめていた。
護の色素の薄い瞳には、光が入っていない。淀んだ目で、彼女は笑う。
深い愛情に満ちたはずのその言葉が、慈愛に満ちたはずのその表情が、岡田にはどうしようもなく怖かった。
「だからもし、あなたがぼくのことをサキくんにバラす、なんて言ってぼくを脅したら、ぼくは今まで通り、どんな手を使ってでもあなたのことを排除するよ。ぼくとサキくんの間に割り込もうとするなら、誰であってもぼくの敵だ。まあもし、あなたがサキくんに何を言ったとしても、サキくんはぼくを信じてくれるだろうけどね。十五年の付き合いだもの、それくらいの信用はあるつもりだよ。でも、どんなに小さな可能性であろうと、ぼくは全力で潰す。今までもそうしてきたように」
護の視線は、岡田をまっすぐに射抜き続ける。岡田はまた小さく悲鳴を上げた。
「あなたがどういうつもりでサキくんに近付いたのかは知らない。でもね、サキくんは、渡さないよ」
「な、んで、ですか……」
鋭い眼光に貫かれ、蛇に睨まれた蛙のように怯えながら、岡田は声を搾り出す。
「なんで、そこまで……そんな、普通じゃないことまで、するんです……! 政樹さんは、ただただ普通の、どこにでもいる、なんてことない男の子じゃありませんか……!」
震える声に、護はきょとんと目を丸くする。
そして、意味深に微笑んだ。
「そんなの……サキくんのこと調べてるなら、とっくに気づいているでしょう?」
「え」
岡田にこが、咄嗟に聞き返そうと思った瞬間。
「宮崎! 具合はどうだ?」
がらりと、保健室のドアが開かれた。
「あ、佐藤先生」
一瞬前までの雰囲気をさっと隠して、護は佐藤に会釈した。
軽くうなずいてそれに答えた佐藤は、突っ立っている岡田を見つけて、目を丸くする。
「ん? なんで岡田がいるんだ?」
「あ、いえあの」
「……こんなとこで油売ってる暇があったら、勉強しろよ、お前。ほんとに」
「しみじみ言わないで下さい!!」
両手で耳をふさぐ岡田に、佐藤は呆れ返った様子で腰に手を当てる。
「お前なぁ、大丈夫なのか? 入学当初から相当にずば抜けてアレだったのに。この前の中間、見事に全部赤点ラインだっただろ。職員室でも相当な悩みの種になってるんだぞ、自覚あるのか?」
「やめて下さい! 本人が一番ハラハラしてるんですからこれ以上ダメージを与えないでください! こ、ここから! ここから私本気出しますから!」
「本気はいいから結果を出せ、結果を」
「あ、あの。佐藤先生、それで、どうしてここに……?」
佐藤がお説教を始めようとしたところで、護が割り込んだ。
佐藤はじろりと岡田を睨みつけてから、一転笑顔で護に向き直る。
「そうそう、お前に頼んでた仕事なんだが……」
「あ……すみません」
言われて、護はしょげ返る。
「引き受けておいて、まだ手も付けないうちにこんなことになってしまって」
「……んん? 何言ってるんだ」
心のこもった謝罪に、佐藤はしかし、首を捻る。
「仕事なら、全部完璧に終わらせて、俺の机の上に置いてあったじゃないか」
「え……? で、でもぼくは……そ、それに、あんなのとても今日中に終わるような量じゃ……」
「ああ、だから誰かに手伝ってもらったんだろ? 無理させて申し訳なかったな、帰ったらゆっくり休めよ」
「せ、先生……!」
佐藤は一方的に言うだけ言って、「じゃっ」と片手を上げて去って行った。
ぽつんと残された、宮崎護と岡田にこ。
護からのプレッシャーが消えたためか、猫を殺すほどの好奇心が勝ったのか、岡田もいつもの調子に戻っている。
興味ありげに瞳をきらりと光らせていた。
「なんとも妙ですね。引き受けたはずの仕事が終わっているとは」
「うーん……誰かが気づいてやってくれたのかな」
「ミステリの匂いがしませんか!?」
「ミステリって言うには、地味かな?」
「まぁ、そうですねぇ」
肩を落とし、岡田はわざとらしくため息をついた。
せいぜい、見かねたクラスの誰かが肩代わりしてくれたというのがいいところだろう。
「……あれ? 政樹さんは……?」
ふと、護の隣に政樹の姿がないのに気づく。
辺りを見回すと、ベッドの横の窓から風が吹き込み、カーテンを揺らせているのが目に入った。
「いくらぼくが『男』でも、隣に寝てたらまずいもんね」
「……なるほど」
困ったように眉を下げる護。
つまるところ、政樹は教師の気配を察知して、窓から逃げ出したのだ。
「逃げ足は早いんですね、まったく……なんとも主人公らしくない……」
ぶつぶつと文句を言う岡田に、護は先ほどまでの張りつめた空気はどこへやら、おかしそうに笑い出した。
仏頂面だった岡田も、つられて笑う。
「……帰ろっか」
「……はい」
護の言葉に、岡田はうなずく。
何ともいえない微妙な空気のままで、二人は保健室を後にしたのだった。