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名前変更手続き




 モニタには同意を求める文章と「はい」と「いいえ」の選択肢。その下には料金を示す1,800の数字が浮かび上がっている。


 彼はカーソルを躊躇いなく「はい」に合わせてクリックした。


 ページが移動し、クレジットカードによる支払いが終了した旨の文字列が続いて表示される。


「よっし、これでOKだ……っと、うお」


 一連の操作が済み、安心して息を長く吐きながら椅子の背もたれに体重をかける。薄暗闇の部屋の中で椅子が軋む音がいやに鮮明に聞こえた。暗闇と静寂に慣れた身には少しばかり刺激的な音だった。


 音に驚いたのは、自分の中にわずかに後ろめたさを覚えているからかもしれない。いや、別に悪いことをしているわけじゃないからそんな必要はないはずなのだが。


 そんなことを思いながら、彼はベッドの上に放られている大きなヘッドセットに目を向ける。


「古いのは椅子だけじゃないか」


 数年間使い古しているそれは、小さな隙間に埃も入り込み、汚れも目立つようになってきた。


 もはや中古市場に出してもほとんど値はつかないだろう。それでも、機能的にはまだまだ問題ない。そろそろ上位互換機が出るという噂もあるが、発売してもしばらくは様子を見るつもりだ。それまでは現役で頑張ってもらうしかない。


 オーディナルスフィアと呼ばれるそのヘッドセットの特徴は、装着者を仮想現実世界に導いてくれるということだ。


 ゲーム、リゾートやオフィス、チャットルームにクラブや学校。なんでもござれの今の時代の「一人一台」電化製品。


 このわずか700グラムのヘッドセットの中には、無数の仮想現実世界が広がっている。


 運動野神経バイパス機能のおかげで想現実世界を歩くのに実際に身体を動かす必要はない。

 

 無限に広がる仮想現実の選択肢の中で、彼が特に入れ込んでいるのは、とあるゲームだった。


 さきほどクレカで購入したばかりの商品も、実はそのゲームのオプショナルサービスの一つだ。


 一時間ほど前もずっとプレイしていたのだが、アカウント管理はパソコン上でしかできないため、サービスの購入には一度ログアウトする必要があった。


 支払いも滞りなく終了し、もう一度ログインしたときにはある権利が行使できることになる。


 ふと、ひとつの疑問が彼の脳裏をよぎった。


「今まで一体いくらくらいリアルマネー費やしてきたかなあ」


 プレイ期間約四年。このゲームは月額定額課金制だが、オプションに課金することでさらに様々な追加サービスを受けることができる。


 そのため、気づけば必要以上のお金を注ぎ込んでいた、なんてことも頻繁にある。


 諸々を含めて、彼がかけた金額の累計はもう五十万円は超えている。


 十三歳からプレイしてきた愛着のあるゲーム。年齢を考えたら高い金額かもしれないが、世に蔓延している他の重課金制のゲームのことを考えたら、これでもまだ安い方だと思う。


 だからまだ自分は健全だ。なんら違反行為はしていないし、利用しているのも正式サービスのみだ。


 そうやって彼は自分の中の罪悪感を押し出していった。


 実を言うと両親とは何度か衝突した。


 母親がカードの明細を引き千切った姿にはさすがにびびった。ときにはひと月に五万円以上の請求がきたこともあったからだ。


 あれは中学二年のことだったが、その前後の月も請求が一万円を超えていた。どこの母親も息子が知らぬうちにゲームにそれだけお金を掛けていることを知ったとなれば、その怒りも当然だろう。


「あんときはやばかったな……。まさか中二で死ぬほどケツ叩かれるとは思わなかったわ」


 羞恥と痛みで死にたくなったのは人生であれが最初の経験だった。


 なんとか母親の拳がオーディナルスフィアに向かうことだけは死守して破壊は免れたが。


 しかし弁解させてほしいのだ。


 確かに使い道は大人から見ればあれだったかもしれないが、支払いは全て自分のお年玉やら何やらの貯金で賄ったもので、親の金を勝手に使ったりはしていない。カードの引き落とし口座が親のものだから、その都度ちゃんと返金している。


 少ないけれど高校に入ってからはバイトもして小遣いにも頼らなくなったし、逸脱しない限り両親もお金の使い道に関しては口を出さなくなった。


 だから文句を言われる筋合いはない。


 と言うとまた語弊を与えそうだが、未成年がゲームにかけるべき金額を多少なりとも越えている自覚はあった。もっと他に良い使い道があるだろうと言われれば否定はできない。至極ごもっともだ。


 だが後悔はしていない。こう言い切ることもできる。このゲームにかけたお金と時間は、自分にとってとても有意義だったと。


 ただ、プレイを開始した年齢。十三歳だった自分。


 ゲームの面白さを知ったのが早すぎたのだと彼は思っている。中学一年からのめり込み、他のことに目が向かなくなってしまった。今でも趣味という趣味は他にない。


 友達はゲーム上にしかいなくなった。顔も知らなければ、本名もわからないような友達だ。


 当然、自分だってプレイ中のアバター、キャラクター名で呼ばれる。


 いつからか、本名よりもキャラクターの名前で呼ばれることの方が多い人生になっていた。


 彼はパソコンの電源を落としてから、デスクランプのヘッドを動かして壁に向けた。部屋が暗い方が好きでシーリングライトを消しているため、こうしないと壁の文字が見えないのだ。壁には彼自身が作ったあるリストが綺麗に並べて貼ってある。


「あ、もうこのページも最後まで埋まってたんだっけか」


 彼は少しだけ自嘲気味に笑う。


 A4用紙一ページあたり二十個の手書きの表に、単語がずらっと等間隔に羅列されている。その五ページ目の最下部まで、ひとつ残らず空欄が埋まっていた。


 彼はざっとリストを上から流し見た。並んでる単語一つひとつに、思い出がある。楽しかったこと、辛かったこと、両方の。


 散らばっていた記憶の束をたぐり寄せて少しの間物思いに耽る。


 それが終わったころに、もう一枚紙を取り出してペンを取る。壁のページと同じように定規で表を作り、その一つに前々から考えていたふさわしい単語を素早く書き込んだ。


「1ページ二十個×五枚だから、101個目か。三桁いったときもびびったけど、さすがにここまでくると自分でも引くよな」


 半ば自分に呆れながらも、心に湧き上がってくるのは嬉しさだった。


 これでまたゲームを再開できる。何の柵みもなく、自由にあの世界を飛び回り冒険することができる。そんな喜びだ。


 これは儀式なのだ。新しいスタートを切るための。


 本心から思う。全く、運営はいいサービスを提供してくれた。


 運営がこの公式オプションサービスを作ってくれていなかったら、こんなに長期間同じゲームをプレイすることはなかっただろう。


 運営会社が何を思ってこのサービスを作ったのかは正直わからない。いや、おそらくきっと運営の中にも自分と同じような人間がいるのだ。


 だからこそ、このサービスを提案した発起人に称賛を送りたい。そして宣言しよう。大丈夫、俺もあなたの仲間だ、と。


 彼は内心でまだ見ぬ同志にサムズアップを送りつつ、ログインするための準備に入る。


「今度こそ、絶対に上手くやってやる……!」


 クソみたいな過去は忘れる。


 これは自分を洗浄するための手続きだ。


 オーディナルスフィアを目深に被り、電源を入れた。自分の脳みそが仮想現実からの入力を選択し、世界はデジタルに染まっていく。


 もはや彼を邪魔するものはどこにもいない。彼は新しい自分となってウルスライン・オンラインの世界で真っ白な一歩を踏み出すのだ。






 この日こうして、彼にとっては通算100回目となる、有料公式サービスの一つ、キャラクター名変更手続きが無事に完了したのだった。








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