第三十一話 春祭
社下焼銭鼓似雷
(社下、銭を焼きて鼓、雷の似く)
日斜扶得酔翁回
(日、斜めに酔いし翁を扶け得て回る)
青枝満地花狼
(青枝は地に満みちて花、狼藉せり)
知是児孫闘草来
(知る是れ児孫の草を闘はし来たりしを)
それは、まるで鳳仙花の実が弾けたような光景だった。
それは、まるで群れた魚に石を投じたような光景だった。
それは、まるで翼休める鳥の群れに銃弾を放つような光景だった。
娘が神楽鈴を振り下ろした瞬間。
音も無く、破裂したかのように、すべての兵は、村は、土地は、その姿を闇夜の中に散じたのだ。
一瞬の、出来事であった。
草も、
木も、
家も
人も、
もう、そこには、無い。
まるで、そこには始めから何も無かったかのように
――荒涼とした土地だけが、そこにあった。
あまりの光景に言葉を、失う。
砂塵と化した荒れ野を見ながら、わしは、己自身での思考を操ることを止め、ただ、思いの流れるままの、人形と化していた。
あれは、神でも、人でもない。正体もわからぬ何か、だ。
否
今この場で「あれ」の正体を解する行為に、どれだけの意味があろうか?
しかし、
あれは、何だ?
あれは、何だ?
あれは、何だ?
答えの出ぬ事を分かりつつも、濁濁とした思考は、再びその答えを導き出そうと迷走していた。
自らの思考を操ることができず、ただただ迷走する。
迷走し迷走し迷走したあげく、結局答えの分からぬまま、己の気ばかりを、執拗に焦らせる。
かたかたと、手が、震えた。
――なぜ、寒くも無いのに、手が震えるのだ?
思考のまとまらぬ頭は、その不可解な体の異変すら、解すことができない。
その感情の解は、先ほど己が嫌と言うほど、三万の雑兵へ見せつけたと言うのに――
ただ、それは、己にとって初めての感情であった。
数えきれぬほどの年月を、生きて、初めて経験した感情
ぞわりと、氷手で背をなでられるような悪寒で、ようやく、ほんの少しだけ頭が冷える。それと同事に、この感情の震えの正体を理解する。
そうか
これが
恐怖、というものか。
娘を、見る。
娘は、荒涼とした土地を、満足そうに見つめ、そして
己の居る、社へと目を向けた
社から村は距離がある、常人では目の届かぬ場所に位置している。
しかし
娘の、喜々とした――しかし、うつろな瞳は、社から、一歩も動けぬ己のの姿を捕らえ、毒々しいほどに紅い唇を繊月のように曲げた。
――みぃつけた
かすかに、娘はそう言って、すい――と、装束の袂を風にゆさせながら、ゆっくりと娘が浮遊した。
そして……かすかに口を開く。
「社下焼銭鼓似雷――
(社下、銭を焼きて鼓、雷の似く)
娘が、つぶやくようにそう吟いながら、愉しそうに、空を舞いながら、こちらへと向かってくる。
日斜扶得酔翁回
(日、斜めに酔いし翁を扶け得て回る)
青枝満地花狼
(青枝は地に満みちて花、狼藉せり)
知是児孫闘草来
(知る是れ児孫の草を闘はし来たりしを)」
そう――娘は吟った。
吟い終わる頃には、娘はもう社のすぐそばまで来ていた。
そして、すい、と楓の葉が地に落ちるように、静かに、娘は社の前に降り立ち、遊び相手に吟の返答を求めるかのように――こちらを見つめた。
これは、確か宋の詩人が、春祭の後を吟った詩であったはず――
村の社の下では神を祀るため銭形の紙を焼き
雷のように、太鼓が打ち鳴らされる
日が落ち始めた頃、酒に酔った翁を助け、帰ろう
その道の途中には、青枝や花が散らばっている
子供達が草相撲でもして、遊んでいたのだろうか
そのような意の詩である
しかし、この今このとき、この状況で、この詩を判ずれば――
――――児孫とは兵のこと
――――闘草とは戦のこと
酔翁、とは
――わしのこと、か?
そのわしを扶ける――助けるだと?
生に酔い、力に酔い、己を忘れた神翁への助け――
そして、娘の今から行う行為――
それは、すなわち――
――死、か。
神への「助け」が、死。
つまり、この小娘は――
このわしを、助けるために、殺すというのか?
その吟で……迷走していた思考が再起した
そして
感情は、恐怖から怒りへと変わった。
「……神の死を、助けと解すか、小娘」
その言葉に、娘は、さらに唇を曲げて返答した。
――――ふざけおる。
ぎり、とわしは己の歯をかみしめた。
なめられたものよ
たかが、小娘一人に、わしが、遅れをとるものか。
勝てぬまでも、
――――死ぬ前に、一矢くらいは、報いてやろう。
娘をにらみつける
娘がこちらに向かい、神楽鈴を振りかぶる瞬間――
地を蹴り、社の屋根を突き破りて、夜空へと跳ねた。