第十七話 欲望
千手観音――
日本語では「十一面千手観音」、「千手千眼観音」「十一面千手千眼観音」、「千手千臂観音)」などさまざまな呼び方がある。「千手千眼」の名は、千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ている。千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。
黒い、人型の闇から、幾本もの腕が生えてゆく。
「あれは、混沌――だな」
華梁がぽつりとそう言った。
混沌。
全てが混ざり合ったもの。
天と地、万物の諸々のものがまだ分かれていかった頃の、全ての始まりの状態。
形の無いもの。
何ものでもなく、何ものでもあるもの。
以前、華梁から混沌についての話を聞いた事がある。
――混沌っていうのは、全ての――何もなかった頃の、始まりの状態だ。私達は始め、混沌とした世界から生まれ落ちたんだよ。そこから色々な因果があって、今のこの世界が生まれたんだ。
そう言っていた気がする。
しかし、
混沌ならば、姿がないはずだ
僕がそう聞くと、華梁は軽く首を振った。
「意思を持てば話は別だ。混沌が意思を持ち、目的をもち、自我を持てば――己の姿を自在に変える事が出来る―――あの姿は、夜季が望んだ姿なのだろう」
華梁が言った。
―――夜季の望んだ姿?
幾本の手。白骨の顔。
あれが、夜季の望んだ姿なのか?
夜季が望むこと――
考えるまでもない。
僕を、殺すことだ
「けたけたけたけたけたけたけた」
夜季が嗤う。
その嗤いに覆い被さるように、白骨の歯がかちかちと音をたてる。
けたけたけたけたけたけたけた
かちかちかちかちかちかちかち
止めどなく、夜季の嗤いが辺りに響き渡った。
今まで、これほどまでに楽しそうに、これほどまでに悲しそうに、これほどまでに救えない嗤いは聞いたことがない。
けたけたけたけたけたけたけた
嗤う。
おかしそうに嗤う。
望みの姿になれたからだろうか。
小気味よく嗤う。
仕合わせになれたからだろうか。
仕合わせそうに嗤う。
幸福に、なれたからだろうか。
だから、そんなに愉快なのか
だから、そんなに楽しいのか
だから、そんなに嬉しいのか
でも――、夜季。
それが、望みだったのか?
それがお前の幸福か?
それがお前の仕合わせか?
それがお前の救済か?
それがお前の安楽か?
問わずにはいられなかった。
「なあ、夜季」
おまえは
「お前は、それでよかったのか」
そんな――
そんな姿が、人の望みなのかと
そんな姿が、人の幸福なのかと
そんなものが人の仕合わせなのかと。
そんなものが、人の幸福になれる真理なのか、と。
ぴたり、と、混沌の嗤いが止まった。
「足りない」
混沌はそうつぶやいた。
「まだ、足りない」
再び、言う。
「まだ?」
聞き返すと、混沌はこくりとうなずいた。
「まだ、足りないんだ」
悲しそうにつぶやく。
そして――子が母に、だだをこねるように言った。
「お前を殺したいな」
夜季がそう言うと、
その望みに答えるように、
手が、増えた。
「お父さんとお母さんがほしいな」
手が増える
「友達がほしいな」
手が増える
「色んなことして遊びたいな」
手が増える
「色んな物がほしいな」
手が増える
「おいしいものも食べたいな」
手が増える
「お金も沢山ほしいな」
手が増える
「みんなから尊敬されたいな」
手が増える
混沌が何かを言うたびに、一つずつ手が生えてゆく。
「足りないんだ。 仕合わせになるにはまだまだ足りない」
手が増える
「たりない、たりない、たりない、たりない、たりない」
ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ
つぶやくたびに、手が増えてゆく
まるで、夜季の望みをかなえる為に、欲の数に応じて手が生えているかのようだ。
「そうだ」
思いついたように夜季が言った
「一つずつかなえていこう」
幼子のように言う
「僕には、その力がある」
そうだそうだそうだ。
かんたん、かんたん、かんたぁん。
嬉しそうに けたけた、と嗤い、こちらに顔を向けた。
―――まずはお前からだ。
そう、言った気がした。
「しね」
その瞬間
千の手が、僕に向かい、一斉に襲いかかった。