第十二話 有時
たとえば、河をすぎ山をすぎがごとくなりと。いまはその山河たとひあるらめども、われすぎきたりていまは玉殿朱楼に処せり。山河とわれと、天と地となりとおもふ。
(道元著 正法眼蔵 有時より抜粋)
「人として、生きる」
僕がそう言うと、方千は楽しそうに口元に笑みを浮かべ
「か、」
か、
か、
か、
かかかかかかかかかかかかかかかかかか
からからからからからから
乾いた、嗤い声を上げた。
朝靄の中、蜩の寂しげな鳴き声に覆い被さる様に、方千の嗤い声が辺りにこだましている。
ひどく、楽しげに
何かがふっきれたように
でも
その嗤い声はどこか、寂しげで
静かで
悲しそうで
何故か僕は、
泣いているのかもしれない、と
そう、思った。
く
く
く、
ひとしきり嗤った後、方千はつぶやくようにして口を開いた
「この国には、神はもういらぬのかもしれぬのう」
「……え」
「神もまた、人の思いだからな、神では、人は救われぬのさ」
――そう、
神もまた、人の迷いなのだ。
方千は、ぽつりとそう言った。
「のう、荒涼神」
荒涼神
僕の、事か。
「お前も、神だ」
僕が、
……神。
「完全に荒涼神にはなっていないお前でも、人には使えない力を持っている。その気になれば自らの願いくらいは叶える事が出来るだろうな。だが……」
お前は今、救われているか?
方千が、そう問うた。
救われているか、か。
僕は、救われているのだろうか
――否
悩みだらけだ。
僕は、首を振った。
「神は、人の願いは叶えるが、迷いを無くすことは出来ない。願いを叶える事と迷いを無くすことは別だからだ。願いを叶える事で、逆に苦しみが生まれる事もあるのだ」
願いを叶える事は、苦しみを無くす方法ではない――のか。
「救われるためには、己のことを見つめなければいけない、己の苦しみを無くす答えは己の中にしか存在しない。己自身が苦しんでいるのだからな」
暦縁さんも、同じようなことを言っていた。
「救いに、神は関係無いのだ。救われたいのなら、神などに気を取られるな、少しでもたった今の自分を見つめてみろ」
たった今の、僕。
蜩の鳴き声が聞こえる。
方千の声が聞こえる。
方千の姿が見える。
傷の痛みを感じる。
坐っているから、足にせんべい布団の感触がする。
だけど
次の瞬間には、僕の体はそれらの事を一つも留めてはいない。
ただ、僕の頭の中で、それらが連続して起こっていることだという風に「思っている」だけなのだ。
蜩の鳴き声は、聞いた瞬間にはすでに別の声になっている。
方千の声は、もう聞こえない。
方千の姿が先ほどと同じだと「思っている」のは、僕の思いだ。
「傷」が「痛い」という風に思うのは後から「考え出した」僕の思いだ。
坐っているから、足にせんべい布団の感触がするが、立ち上がればその感触はもう無くなっている。坐っていた、と言う記憶は「頭の中」にしか存在しない。
記憶を留めているのは僕の思い。
今しか、無い。
否、
今、と言う概念すら無い。
全ては思い。
無くなっている。
無くなっていることをいつまでも留めているは、
僕の、思いなのだ。
――そして、
全てが思いだと考えていることですら、僕の思いに過ぎないのだ。
「救われるためには、神さえいらぬ、この身一つあれば十分なのだ。救わたければ、救いの道を得た人を探せ、探し出し出すことが出来たなら、得ている人に教えを乞え。幸いお前は、得た人を探すことが出来たはずだ」
暦縁さん
華梁
「なら後は、教えを乞うて只管に参ずるのがよかろう」
と、言って、
「のう」
方千は扉の方に体を向け、
「そうだろう、華梁」
そう、言った。