第十一話 不立
「――魅力的だな、確かに。」
獣――荒涼神になれば悩みからは解放される。
この、獣になるという事を躊躇う心さえも、荒涼神となれば無くなるだろう。
苦しみという概念が無くなれば、苦しむ事など無い。
考える事が出来なければ、思い悩む事は出来ないからだ。
過去を顧みる事が出来なければ、過去にあった出来事で思い悩む事もない。
未来を思う概念が無ければ、未来を思い不安に思うこともない。
比べることが出来なければ、暑いと言うことも無ければ、寒いと言うこともない。喜怒哀楽と言う概念すらなくなる。
たった今があるだけで、それ以前の事柄とも、それ以後の事柄とも、比較することは出来なくなる。
―――否。
違う。
「苦しみ」「過去」「概念」「無い」「顧みる」「出来事」「未来」「暑い」「寒い」「喜怒哀楽」「今」「事柄」「出来なくなる」「無くなる」
こんな概念すら、思想から生み出された考えでしかない。
そんなものは、本来、
「無」 なのだろう。
いや
言葉で言い表せばそれはもう「無」ではない。
「無」すら、言葉なのだ。本当の、「無」ではない
これらは、全て頭に中で考え出された概念。
言葉で表せば、真実は逃げてゆく。
荒涼神になれば、こんな思想すら無くなる。
悩むという概念が無くなる。
それは、とても「楽」なことだろうな。
「――おれは、どちらでも良いと思うがな。善悪など、個人が決めることだ、獣になろうと、人を続けようと、憂が正しいと思ったものが正しいんだ。誰が何と言おうとな。この世には真実など無い、それすらも人の作り出した概念だからの。だから、お前が真実と思った選択が真に正しい真実なのだよ」
このまま、獣になると言う選択もある。
そちらを選んでも、誰もそれが間違った選択だと指摘することは出来ないはずだ。
獣になれば、苦しみが無くなる。
苦しみから、解放される。
が。
「……俺にとっては、その考えこそ間違っている。」
「――どういう事だ」
「人も、獣だ。本来、苦しみから解放されているはずだ。それに気づかずに、苦しみから逃れようとあがき苦しんでいるだけだ。」
人もまた本来、悩みの概念の無い生き物のはずなのだ。
――この世には今しか無い。過去と言うのも未来と言うのも全て頭の中の想像でしかない。…俺が杯でた床をたたいた音はたたいた瞬間にもう終わっている。それなのに、人は記憶してその事柄に執着する。終わったことをいつまでも頭の中で反芻する、事実はこんなにはっきりと終わっているのにもかかわらず、だ――
――大切なのはありのままの自分。蜩の鳴き声は聞こうと思わずとも耳に入る。肌は夏の暑さを感じる、目は夏の庭を見せてくれる。舌は酒を飲めば酒の味がするからな――
――この世には、苦しみは残っていない――
「人は、始めから悟っている。ただ、それに気づけていないだけなんだ」
そうだったな、暦縁さん。
「俺は、人でなければ暦縁さんのこの言葉を証明出来ない。」
だから
僕は
「……生きて暦縁さんの言葉を証明しなくてはならない」
それが、
僕が暦縁さんに出来る、唯一の償いだ。
償いとしては、とても足りないかもしれないけど。
僕が、苦しみから解放される方法を受け継ぐことが出来れば、たくさんの人を苦しみから救う事が出来るかもしれない。
だから、僕は。
「人として……生きることを選ぶ。」