第十話 居士覓罪懺罪(こじべきざいさんざい)
「――俺が?」
「ああ、それならば、お前のその顔も、力も、霊元のお前に対する執心も全て説明がつくのだ」
そう言って、方千はじい、と僕の顔を見た。
「お前の顔が、まだ半分人の顔をしているのは、お前の理性がまだ残っているからだろうな……お前の理性が、何らかの形で無くなってしまえば、おそらくお前の顔は、完全に狐のそれに変わってしまうだろう」
思わず顔に手をやり、ゆっくりとなでた。
さりさりと、狐の毛の乾いた感触が手に残る。
左半分は、まだ人それである。
十年前のそのときから、僕の顔は少しずつ狐の顔に変化した。
しかし、ある日を境に、顔の変化が止まったのだ。
あれは――
そうだ
暦縁さんが、僕を人と認めてくれた時からだったな。
暦縁さんは、顔の変わった僕を唯一人と認めてくれて、人と同じように接してくれた。
そうか――
それで、僕は今まで、人としての理性を無くさずにいられたのか。
……この姿になり、何度も僕は人を捨てようと思った。
いっそ心も体も獣になりはて、畜生となり余生を生きた方が、罪に苦しまず生きることが出来ると思った。
だけど……暦縁さんに出会い、人として生きる内に、この気持ちが揺らぎ始めたのだ。
こんな僕でも、人として生きていても良いのではないか、と。
こんな僕でも、幸せをつかみ取っても良いのではないか、と。
暦縁さんのもとで暮らす内、ほんの少しだけそんな気持ちが、僕の心の中で芽生え始めた。
――でも、
僕は、それまでに人を殺しすぎていたのだ。
これほどの罪を背負いながら、一人だけ幸せになろうというのは、おこがましすぎる。
だから――
いっそのこと――
暦縁さんを殺して、そんな淡い希望を捨て去ろうとさえ思ったことがあった。
暦縁さんは、武術の心得などは無い。
寝ている隙に首を掻き切れば、容易く命を絶つことが出来る。
――暦縁さんを殺せば、
僕を人として認めてくれ、僕自身が大切だと思ったこの人を殺せば
おそらく僕の理性など、簡単に消えてくれるだろう。
罪の意識など生まれる間もなく
悲しみを感じる間もなく
後悔する間もなく
簡単に、僕を真の獣と変えてくれる。
苦しみが、無くなってくれるのだ。
それは、ひどく魅力的な考えだった。
ある日の夜に、
僕は暦縁さんの首に手をかけた。
ひどく小さく、弱く、貧弱で、もろい体だと思った。
少しだけ手首をひねるだけで、この生き物の命を奪う事が出来る。
ひどく簡単だ。
こんな簡単な事をするだけで苦しみが無くなると思うと、滑稽で声をあげて笑いそうになった。
でも、
僕には、それが出来なかった。
僕が首を掻き切ろうとしたとき、
暦縁さんは、
いつもの笑顔でにっこりとほほえみながら、
右の、まだ人の形をしていた頬をなでたのだ。
まるで、
僕に、人であってほしいと語りかけるように。
それから先はほとんど覚えていない。
気がつけば、僕は死体の山の上で泣いていた。
暦縁さんを殺せず、感情がおさえきれなくなった僕は、暦縁さんの庵……西蓮寺の近くにあった村人を、手当たり次第に殺したのだろう。
うず高く積み上げられた、死体の山の上で、獣ともまごう姿で……獣のように咆吼していた。
――でも、
僕の理性はまだ残っていた。
涙が流れているのがその証拠だ。
僕は、
まだ、
人の姿を残している。
これだけのことをしても、
……それでも、獣にはなれなかった。
これだけ殺しても、理性を無くすことが出来なかった。
人のまま、人の罪を新たに背負ってしまっただけだった。
人の命を、また奪ってしまっただけだった。
自らの心をいたずらに傷つけてしまっただけだった。
大切な人との絆を、
ただ乱暴に断ち切ってしまっただけだった。
暦縁さんとはもう、合うことは出来ないと思った。
僕は、西蓮寺には二度と近寄らない事を心に決めて、村を後にした。
まだ僕は、あのときの選択が本当に正しかったのかどうか、迷うことがある。
あのときもし、暦縁さんの首をかき切っていれば、僕は本当の獣となって人としての悩みが無くなっていたのではないかと。
救われていたのではないかと、
かなかなと、白々と夜が明け始めた朝靄の中で、静かに蜩が鳴いた。
「ふむ、……それで、お前はどうするのだ」
「……どうする、って?」
「荒涼神になれば、悩みなど無くなるのではないか? お前のそれは、神を殺すだけのただの獣だからな。……苦しみの起こる原因は、人の思いや考えだ。人の思いが無くなれば苦しみからは解放される。このまま霊元にされるままになっておれば、容易に荒涼神になれるだろう」
「……」
「しかし、このまま人の理性を持ち続け、人として生きるのであれば、お前は死ぬまでその罪と心に悩まされる事になるだろうな」
「……ああ。」
「――どうするのだ、憂? 」