第零話 現状公案
序文
かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。
このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。
生も一時のくらゐなり。死も一時のくらゐなり。
たとへば冬と春とのごとし。
冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
(道元 著 正法眼蔵 現成公案より抜粋)
――――僕は、今が永遠に続いてほしかったのだろうか?
静かな、秋の夕暮れだった。
香泉寺から見える風景も、少しずつ秋のそれに変わり始めている。
紅葉した葉が、ちらちらと空を舞っていた。
それが部屋の中にも幾枚か入り、ゆっくりと畳の上に落ちる。
――それは少しだけ幸せな日常の風景。
僕は、最後の食材を置き、居間に向かって声をかけた。
「華梁、夕飯の支度が出来たぞ。」
「おお、すまんな。して、今日の料理は何だ?」
「焼き魚。」
「く、・・・お前は焼き魚以外の料理は出来ないのか・・・というか、お前の焼き魚は料理じゃない。ただの焼けた魚だよ。工夫も凝らしてないだろ・・・火の前に魚を置いただけだ。」
「でも、旨いだろ?」
「所々が生焼けだ。」
「そこが旨いんだ」
「・・・う、やっぱりお前の嗜好はわからん・・・。」
華梁の元へ来て一年が経った。
この香泉寺の生活も、ようやく慣れてきた所だった。
相変わらず、この狐の面はとれないけれども、僕はそれなりに充実した日々を過ごしている。
朝起き、食事の準備をする。昼食までに食材を集め、料理し、夕方までにまた夕食の食材探し。開いた時間は香泉寺の掃除。それだけの日常だ。
それでも、僕には新鮮だった。
逃げるように生きていた僕にとっては、少なくとも充実した時間だった。
ここには、ただの日常がある。
本当に・・・かけがえのない日常だ。
ここには華梁がいて涼美がいる。
この二人は、家族だ。
それは僕が十の時に無くしてしまった物だった。
「そんなこと言っても、ほら、涼美は美味しそうに食べてくれているぞ。」
「いや、美味しそうと言うか・・・思いっきり無表情なんだが・・・なぜそんなに無表情で食べられるのか不思議なくらいに。」
「それだけ、美味しいってことだろう。」
「お前のそのめでたい思考もよく分からん。」
「涼美、旨いか?」
「・・・・・・」
こくこく、と無表情で頷く。
「ほら。」
「・・・もしかして、俺の舌がおかしいのか?」
だが、
俺は、まだ救いを求めている。
今の日常は確かに楽しい。
いつまでも続いて欲しいと思うほどに。
だから、・・・この生活が壊れてしまうのが恐ろしかった。
「今」という物は無い、と華梁に教わった。
それは「今」と言った瞬間にすでに過去になり、そのときの今は終わってしまっているからだ。
時は常に進み続け、とどまる場所が無い。
唯一、あるとすれば、それは己の頭の中だけ。
暦縁さんにも教えてもらった。
そのときは、床を酒の杯でこつりとたたき、音を出していた。
音は、発した瞬間に全ては終わっている。杯でたたいた事実もその瞬間で終わっている。
世は、「杯でたたいた」という事実何一つ残してはいないのだ。
が、僕の頭の中ではその事実をを覚えている。
もしもその衝撃で杯が割れれば、「元は割れていなかった杯が床を叩いたために割れてしまった」と思うだろう。これも間違ってはいない。
しかし、その場には、割れた杯しか残っていないのが事実だ。
「割れてはいなかった杯があった」という事実も、「床をたたいた」という事実も世にはまったく残っていない。ただただ割れた杯がその場に残っているだけなのにもかかわらず、頭の中で、「杯が割れてしまった」と思ってしまう。
人の悩みの原因もまた、それと同じだと教わった。
いやなことは、いやなことがあった瞬間に全て終わっている。
だが、人はそれを記憶し、記憶の中で反芻する。
いやなことがあった瞬間には、苦しみもあるだろう。
でもそれ以上の苦しみは、完全に自分自身の頭で自分自身が起こしている事だけ。
いやなことがあった瞬間は、全て終わってしまっているからだ。
華梁から聞いたとき、悩みとはたったそれだけの事なのか、と肩すかしを食らった。
それを華梁に話すと、
「頭で理解するだけなら、誰でも簡単に出来るさ。」
――大切なのは、その事実を己の中で本当に受け入れること。
――それが出来なけりゃ、こんなのはただの知識止まりさ。
そういって、意地悪くにやりと笑った。
――そうなのだ。
僕も、いつかこの生活が無くなったら、と考えると、ひどく恐ろしくなる。
「時」は決してとどまることは無いというのに。
そして、それは「今」起こっている事実という訳でもないのに。
頭の中で、それを不安に思っている。
心を、痛めているのだ。
・・・結局、僕は、何も分かっていないのだ。
「じゃあ、また少し出てくる、華梁。」
「こんなに遅く、どこへ行くんだ?」
「明日の食材探し」
「わざわざ今から出なくても良いだろう?もう外は暗いぞ。食材ならもう少しくらいなら残ってるだろ?」
「いや、さっきまでは残っていたんだが。」
「どうしたんだ?」
「涼美に食われた。」
「涼美いいぃ!!」
「…まぁ、食後の散歩だ。行ってくる。」
「・・・ああ、すまんな。って、涼美は残った皿を名残惜しそうに見るな。そんな顔しても今日はもう料理は出ないぞ。」
僕は苦笑して、香泉寺の外に出た。