初話 思いと存在の境界
その男は黒い水干を着ていた。
歳は若い……ように見えるが、歳は分からない。一見柔和な顔をしている。
ただ、その瞳はぎらぎらとやけに印象的に僕の目に映った。
「あなたははこの庵の主人とお見受けしますが、この辺りに変わった獣を見かけませんでしたか」
よく通る声で水干の男が尋ねた。
「獣?」
「ええ、獣と言っても見かけは人。ただ心がけだものなのです。先も近くの村人の首をかき切って逃亡しました」
びくり。
背筋が凍る。
「見かけませんな。ここには私と客人しかいない」
「……客人?ですか」
「ええ、そうです。あなたもこの庵の客人ですか?」
「いえ、私はその狐を追って来ました」
「ならば、おかえりください」
ぴしゃり、と法衣の男はそう言った。
「ここは招かれざるものが来るところではない」
追い打ちをかけるように、法衣の男はそう告げた。
「……ほぅ」
水干の男は、挑戦的な目で、法衣の男を見た。
「……ふむ、この竹藪の庵、来たときから気になっていた。もしやあなたは西蓮寺の……暦縁というお名前ですか?」
「いかにも」
「ふむ、名高い暦縁殿がそう言うのでは間違いは無いでしょう。こちらの勘違いでした」
男は深々と頭を下げた。だがその態度には僕には謝る態度はみじんも感じられなかった。
禍々しい、いやな空気。
「……もしもそのような姿の獣を見かけたらご一報ください。私の名は、霊元と言います。客人がいるというのにお騒がせし誠に失礼いたしました」
では、と
不敵に笑い、霊元は踵を返した。
「ああ、それと」
思い出したかのように顔を法衣の男、暦縁に向けた。
「見つけたら間違っても関わろうとは思わない方がよろしい。あれは獣。人の心など持ち合わせてはいないのです」
「親切な忠告、感謝します」
「では」
そう言って元来た道を歩き出し、やがて暗闇に溶け込むようにしていなくなった。
「おい、もうでてきて良いぞ」
「……なぜ助けたのだ」
「おもしろそうだったからな」
「は?」
「丁度話相手が欲しかったんだ。茶もあるし手頃な菓子もあるが、話相手がいない。さて、どうしたものかと思ってた時にお前が飛び込んできたんだ」
……それだけ?
「それだけだよ」
よく分からないが、とんでもなく変わった人だ。
「とにかく中に入れ。着替えの衣を持ってきてやる。風呂場においとくから好きにきがえろ」
言われて気づく。
僕の姿は血だらけだった。
この姿を見ても、この人は顔色一つ変えなかったのか?
……何者だろうか、この人は。
「私の名前は暦縁。この西蓮寺に住んでいる僧だ……うん、まあ呼びやすい呼び名で呼んで良いぞ」
まるで僕の考えを見透かしたようにそう言った。
「で、お前の名前は?」
暦縁さんが聞いた。
名前?
僕の……名前
何と呼ばれていたか。
けだもの。
野狐。
白蔵主。
いや、
ずっと昔、僕にはちゃんと名前があったのだ。
なんと呼ばれていたか。
たしか
そう、僕の名前は。
「……憂」
小さな声で、そう言った。