2-4
二人がお義姉さまの私室に消えたあとわたしはのろのろと裏階段を上る。
階段脇の子供部屋の前を通り過ぎるとその隣のドアを開けた。
安っぽい壁紙の張られた小さな部屋の狭いベッドの上に、わたしの着替えや本なんかが乱雑に積み上げられていた。
まるで階下の部屋からただ運び込んで置いていっただけみたい。
整理するにしても、多分人手不足でメイドの手は借りられないだろうし……
その光景にはもうため息以外の何も出てこない。
「どうしろって言うのよ? 」
つぶやきながら着替えのドレスを探す。
ドレスは放り投げたように散乱した本の下敷きになっていた。
「ん、もう。
皺になったらどうしてくれるのよ? 」
とりあえず、本の下からドレスを一枚引っ張り出し、肩を吊るして確認する。
「これでいっか」
ため息混じりにつぶやく。
正直気に入らないけど、三日続けて着ていた埃だらけの今のドレスよりは、多分、マシ。
そう自分に言い聞かせて、着替えを済ませると、狭い裏階段を駆け下りた。
バックヤードのドアを開け表の廊下に出る。
お父様のお部屋に行こうと歩き出すと、廊下に低い怒鳴り声のような声が響いた。
「……から、……はまだ、……さん! 」
はっきり聞き取れなくて、何を言っているのかはわからないけど、あれは確かにお父様の声だ。
怒鳴り声の様子から明らかに腹を立てている。
一体誰なんだろう。
お父様を怒らせるなんて。
そう思いながら足を急がせる。
「あ、お嬢様! 」
お部屋の前まで来ると、シーツを抱えたメイドがうろたえていた。
「どうしたの? 」
部屋の中に聞えないように小声でメイドに訊く。
「さぁ、わたしにもわかりません。
シーツの交換にきたのですが、なにか旦那様が酷くお怒りの様子で」
お父様の怒鳴り声にメイドは完全に怯えている。
かく言うわたしも、この状態でドアをノックするのは少し躊躇われた。
「時間を置いて出直さない? 」
そうメイドに打診して部屋の前を去ろうとした途端、突然ドアが乱暴に開いた。
「強情もいい加減にして下さいよ」
背の高い人影がこちらも腹を立てた様子で言い置いて足早に出てくる。
「グリゼルタ、お前何時帰ってきたんだ? 」
人影はわたしの前で足を止めると今ドアを開けながら怒鳴った口調そのままに訊いてくる。
「さっきよ、お兄様」
自分よりも頭一つ半は高い位置にある顔を見上げて、わたしは答えた。
「それで、俺には挨拶なしか? 」
「ごめんなさい。
お兄様が泊りがけの商談から戻っているなんてお義姉さまからは聞いてなかったの」
「何が聞いてなかった、だよ。
それじゃまるで、マウラ…… 俺の妻が悪いみたいじゃないか。
何でも他人のせいにするな! 」
頭ごなしに怒鳴りつけられた。
いつものことと、わたしはそれを聞き流す。
実際家に帰ってから執事と、お義姉さま。それからお義姉さまのレディメイドとひと言しか話をしていないのだから。
「それと、出かけた先で外泊したそうだな?
誰がいいと言ったんだ?
お前、俺やマウラ困らせてそんなに面白いのか?
底意地が悪いにも程がある。
いいか憶えていろよ」
言いたいだけ言うと、お兄様は足早に邸の奥へ消えていった。
「お嬢様…… 」
さっきのメイドがまだそこに立ち、今のやり取りにうろたえている。
きっと言葉に詰まっているんだと思う。
そりゃそうよね。
うっかりわたしに慰めの言葉なんかかけたことがお兄様の耳に入れば、今度は自分が怒鳴られるんだから。
怒鳴られるだけじゃいいけど、使用人の身分じゃ下手をすればお給金減らされてしまう。
何しろ、お母様のいないこの家で家計を握っているのはお義姉さまなんだから。
「行きましょ。
お父様のお部屋にシーツ交換に来たんでしょ? 」
わたしは今あったことをなかったことにしてメイドを促した。
正面のドアの前に立つと、ドレスのスカートを軽く払って皺を伸ばし、わたしはゆっくりノックした。
「誰だ? 」
音に応えてあからさまに不機嫌そうな声がする。
さっきの様子からしたらお兄様とのやり取りで相当腹を立てていたはずだもの無理はない。
加えて、お父様に事前に何の話もしないで泊りがけで家を空けたりなんかしたんだから、怒られても仕方がない。
恐らくお兄様が言った言葉に、運悪く虫の居所の悪かったお父様が腹を立て怒鳴ったんだと思う。
「わたしよ、グリゼルタ」
「ああ、お前か。
入りなさい」
先ほどの不機嫌そうな声がころりとひっくり返ったかのような、優しい声が言う。
「ただいま帰りました。
お加減、いかが、お父様? 」
ベッドの脇まで行って、お父様の顔を覗き込みながら訊く。
不機嫌を顔に出せるくらいだから、今日は調子がいいみたい。
その証拠に、顔色がいい。
「お帰り、グリゼルタ。
お友達の家は楽しかったかい? 」
にっこりと笑みを浮かべてお父様が訊いてくる。
「え? 」
妙な言葉にわたしは一瞬瞬きした。
「お嬢様がお友達のお家に出かけたと思ったら、そのままお泊りになるって言うんですもの。
大旦那様、お相手のお家に失礼にならないかって、ものすごくご心配なさっていたんですよ」
真新しいシーツを抱えてわたしに続いてはいってきたメイドが目配せしながら言う。
そう言うことか。
お父様にはわたしの怪我のことは伏せてあるみたい。
誰が言い出したか知らないけど、きっと、わたしが入院が必要なほどの怪我をしたなんて、お父様の耳に入れて様態が悪くなることを心配したんだと思う。
状況がやっと飲み込めた。
「ええ、凄く楽しかったわ。
急にお泊りなんかして、ごめんなさい」
わたしは簡単に言ってお父様の頬にキスをする。
今回ばかりはお義姉さまに感謝。
でも、せめてひと言。
わたしにもそう言うことにしてあるからって言って欲しかった。
口裏があわせてないんだから、余計なことを言えば絶対ぼろが出る。
気に入らないけど、黙っているしかない。
そもそもは、わたしが我儘言ってエジェについていたがったのが始まりなんだし。
「いいんだよ。
謝らなければいけないのは私の方だ」
お父様はすまなそうに表情を曇らせた。
「どうして? そんなこと仰るの? 」
「三月も前にお前の十六歳の誕生日は過ぎているのに。
お前は私が起きられるようになるまでは、お披露目を延期したいと言ったそうじゃないか」
「え?
えぇ…… と…… 」
お父様の言葉にまたしてもわたしは首を傾げる。
そんなこと、誰にもひとっことも言っていないんですけど?
何処で、どうなるとそう言う話になるんだろう?
とはいっても、お父様の前でそうじゃないとは、言えない、よね。
言ったらお父様を責めていることになってしまう。
「私が一向にベッドを出られないせいで、社交界へのお披露目ができずにいる。
本当ならお友達と夜会や音楽会にと楽しいことができたのに。
既に社交界へ出てしまっているお友達とは疎遠になって、面白くはなかろう。
たまには友人の家に泊まるくらいいいさ」
お父様は笑みを浮かべてくれた。
「ありがとう、お父様。
次からはお泊りに行くときにはきちんと報告してからにするわね」
お父様は黙って頷いてくれた。
お泊りのことといい、デビュタントのことといい、なんだかわたしの知らないところでわたしがそう言ったことになっている。
お父様のためにはそのほうがいいんだろうけど。
口裏を合わせていない以上下手に会話を続けるとぼろが出る。
その前に話題を変えたほうがいい。
「そういえばお父様、ジャネラ先生が一度魔術医に診察してもらう方がいいって言っていたんだけど。
お呼びしていい? 」
わたしはわざと話題を変える。
「ああ、聞いているよ。
だが、私はいいよ」
「どうして? 」
お父様がこうこたえるのは折込済み。
数年前お父様が倒れた時からジャネラ先生には言われている。
だけど、お父様はなんとしても首を縦に振ってはくれない。
「何度も言っているだろう。
魔術医はとても数が少ないんだ。
一方魔術医の診察を希望する者は山といる。
特に魔力を持つ者の病は魔術医でないと治せないんだよ。
それなのに魔力を全く持っていない私みたいな普通の者が魔術医の大切な時間を裂いてもらうには申し訳ないんだ」
私を諭すように言ってお父様は目を閉じた。
多分このまま話を終わりにするつもりだ。
「お嬢様、そろそろいいでしょうか?
お医者様から、旦那様をあまり疲れさせないようにと指示が出ていますので」
メイドが言う。
「じゃ、お父様。
またね」
言い置いてその寝室を出た。