5-8
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月明かりに照らされた侯爵邸のエントランスのドアをそっと手を掛ける。
久しぶりのばあやとの会話が嬉しくて、ううん、久しぶりに誰かとゆっくり喋って一緒に食事をすることが楽しくて、気がついたらこんな時間になっていた。
まぁ、この邸じゃ誰もわたしの行動なんか眼中にないはずだから、夜遊びして例え朝帰りしたって、無断外泊しても咎められることはないんだろうけど。
心配だったのは、お邸に入れるかなってこと。
もしかしたらわたしがいないことにも気がつかずに戸締りをして寝ちゃっている可能性も。
そしたらお庭の東屋で数時間過せばいいだけ。
今のシーズンならまだ寒くて凍えるようなことはない。
ほんの少しだけ、寒いのを我慢すればいい。
幸い、締め出すつもりはないのかドアの鍵は掛かっていなかった。
自分が通り抜けられるだけの幅を開け、躯を滑り込ませる。
できるだけ足音を忍ばせてステアケースを上った。
普通なら起きて待っていてくれるであろう家令さんか執事さんに一声かけるのが常識なんだけど、バックヤードへ入ろうとするだけで、あの家令さんものすごく嫌な顔するし。
そもそもバックヤードのどこに家令さんの控え室があるかわからない。
……あした、謝ればいっか。
謝るって言えば、今日のことエジェにも謝らなくちゃいけないし、手紙を代わりに受け取ってもらう件、エジェのところの使用人夫妻にお願いしにも行かなくちゃ。
今夜はもう遅くて、お仕事かきいれどきの時間帯のエジェを呼び出すのは申し訳ないから諦めた。
使用人の奥さんは早朝に仕入れに行くって言っていたけど、エジェは夜遅い分朝も遅いはずだから起こしちゃ悪いし、訪ねるのは午後からかな?
どんな理由でも、またエジェの顔を見にいけるのは嬉しい。
明りのない廊下を進み弾む気持ちで自室のドアを開けると、灯された蝋燭の光が漏れ広がる。
誰も、いないはずなのに?
まさかあの家令さんが暗がりの部屋に戻るわたしに気を使って明りを灯しておいてくれたとも思えない。
首をかしげながらドアを開くと、一つの人影が浮かび上がる。
「どこへ行っていた? 」
窓辺に置かれた蝋燭の明かりのせいで、その手前にある人物の顔は影になって誰なのかはわからないけど、声は侯爵様のもの。
「どこだっていいでしょう? 」
非難するように言われた言葉にわたしも突っかかるように答える。
どうして、普段はほとんど顔を出さないくせに、こういう、こっちが少し疚しい気分を抱えているときにだけ、そのタイミングで現れるんだろう?
侯爵様にわたしを責める権利もないとは思うけど。
「今日は随分めかし込んでいるな」
部屋にほんのりと広がる蝋燭の明かりに浮かび上がったわたしの姿を目に留めて侯爵様は言う。
ばあやに髪を結いなおしてもらって、お化粧を教わって、それからドレスに小物をチョイ足し。
いろんなバリエーションを試して、あれこれやったままの姿で帰ってきたんだった。
とは言ったって、夜会に出席する時のような豪華なドレスとそれにつりあう華やかな髪型って訳じゃない。
あくまでも昼間の外出着。
それだってばあやに言わせたら侯爵夫人の装いにしては大分質素らしい。
「そんなの侯爵様には関係ないわ」
そもそも普段全くわたしのことをみようともしないこの男にとやかく言われる筋合いはないと思う。
わたしはそれだけ言うとそっぽを向く。
「仕事を探し初めたそうだな」
つ、っと侯爵様が歩み寄りわたしとの距離を縮める。
「困るんだよ、外で働くなど」
何故知ってるの?
仕事の話はエジェにだってしていないしエジェのお店の使用人夫婦にだって言っていない。
もちろんミリアムにも。
言ったのはばあやだけ。
まさか、ばあやが侯爵様に?
ありえないと思う、だってわたしに対する侯爵様の扱いにあんなに憤慨してくれていたんだもの。
それもまだ今日の話。
ついさっき夕食をご馳走になって帰るまで一緒にいたんだもの、そんな暇なかった筈。
「どうして、それ? 」
「わたしは、お前を少し自由にさせすぎたようだな」
侯爵様の両手がゆっくりと上がるとわたしの両肩を押え、ベッドの上に押し倒す。
「え? 」
何が起こったのかわからずにいるうちに躯の上に圧し掛かられた。
わたしの顔を覗き込む侯爵様の顔が妙に引きつっている。
「な…… 」
身に危険を感じて逃げようと躯を起こすけど、わたしの両手は侯爵様の両肩にしっかり押さえ込まれていて、動かすことができない。
足をばたつかせ腰を捻ると、侯爵様はゆっくりとわたしの躯をまたぎ圧し掛かった。
「余計なことをしなければ、もう少し長生きができたものを…… 」
鬼気迫った顔で言うと、肩を押えていた両手がわたしの首に移動する。
武骨な指がわたしの首に食い込んだ。
喉の奥が圧迫され、顔に痺れて腫れる感覚。
咳こみたいけど、喉が潰され息をすることもできない。
苦しくて呼吸をしたくて口を開くと更に男の指が食い込む。
躯に圧し掛かる男を払いのけようと手足をばたつかせるけど、それすら男の指が首に食い込む助けになるだけだ。
これは誰、なんだろう?
少なくともわたしの知っている侯爵様じゃないと思う。
侯爵様ならわたしに全く興味がない分、わたしを殺そうとは思わないはず。
呆然と考える。
首に掛かる力はゆっくりゆっくりと圧力を増していき、あと一息のところで止った。
その間にもわたしの躯は失って行く空気への要求が更に強くなる。
一気にやればいいのに、時間をかけて獲物が苦しむ姿を見て楽しんでいるかのような、緩慢な動き。
更に顔がはれ上がる感覚が増す。
視界がぼやけ、思考も徐々に消えてゆく。
どこか遠くでけたたましくドアがノックされる音が聞えたような気がする。
「ですから、お待ちくださいと…… 」
家令さんの困惑した声と供に入り乱れる複数の足音。
それが徐々にこちらに向かって近付いてくる。
「お願い! 誰か……
誰でもいいから、助けて! 」
声にならない声で叫ぶ。
願いが通じたかのように部屋のドアの前で足音が止る。
「居心地悪そ…… 」
ドアが開くと同時に呟く声はどこかエジェに似ている。
気のせいだとは思うけど。
でも……
誰でもいい!
お願い、助けて。
わたし、今こんなことになっているの。
ノックの繰り返される音に侯爵様は反応しなかった。
当たり前よね。
こんな状況、見られたらとんでもないことになる。
できることなら手っ取り早くわたしを絶命させて、その遺体をどこか人目の付かないところに隠してからにしたいはず。
「申し訳ございませんが、やはり明日出直してくださいませんか?
事情の方は私が朝一番でお伝えしておきますので」
家令さんが体よく言っている。
多分侯爵様が今この部屋にいるのは知っているのだろう。
だけど……
このまま引き上げさせられてたまるものですか!
わたしは残っていた最後の気力と力を振り絞り、思いっきり圧し掛かった侯爵様を蹴り上げた。
もうあと少しで事切れると油断していたんだろう。
侯爵様の躯がその反動で軽く揺らぐ。
あまりに重たいその躯を蹴落とすことはできなかったけど、履いていた靴が脱げ軽い音をたてて床に転がる。
お願い、誰かわからないけど、気がついて。
わたしは激しく足をばたつかせベッドを蹴って音を立てる。
「兄さん! 」
何かを確認するよな、許可を取るようなエジェの声。
やっぱりドアの向こう側まできてくれている?
僅かな希望が浮かぶと同時に、部屋のドアが乱暴に開いた。
「騙された? 」
だけど、ドアをこじ開けてくれた人物はわたしに圧し掛かる男を一気に引き離そうとはしないで、その場に立ち尽くしたようだ。
「おい! 」
それでももう一つの声が事態を把握したように叫ぶ。
わたしの首を締め付けていた手から力が抜け、するりと解ける。
一気に喉に入り込んできた空気にわたしは激しく咳き込んだ。
その隙に男はわたしから離れベッドを飛び降りると駆け出そうとしたらしい。
「ちょっと、待てよ」
ただ、時既に遅く、戸口に陣取った何人かの人間に取り押さえられたようだ。
よか、った……
かろうじて呼吸を取り戻したことに安堵すると、気が抜ける。
顔だけでなく滞った血のせいか、手足がしびれて力が入らない。
誰かがベッドの脇に駆け寄ってきたのはわかった。
だけど動きが取れなくてわたしはその場に突っ伏す。
その腕をそっと、優しく誰かが取り上げた。
「大丈夫だ、まだ息がある」
安堵した声が部屋に響いた。
「旦那様! 何をなさって…… 」
家令さんの呆然とした声がそのあとに続く。
暫く部屋の片隅で何人かのやり取りする声が聞こえた。
躯を起こしたかったんだけど、力がはいらない。
思考する力も萎えて、その声をただ音として認識しながら聞いていると、不意にわたしの躯を誰かが抱き上げた。
「グリゼルタは連れてくぜ。
こんなところ物騒で置いて置けるか」
怒りの篭った声で誰かが言っている。
エジェの声だ……
だったらもう安心だね。
そう認識したところでわたしの意識は途絶えた。
※スピンオフ「ホストの俺が……」15話




