5-3
わたしはゆっくりと立ち上がる。
「帰るのか? 」
ドアに向かうわたしをエジェが呼び止める。
本当はずっとここに居たいけど。
「うん。
そろそろ侯爵邸の皆がおきる頃だし。
家にも帰れないし。
泊めてって言ってもエジェ泊めてくれないでしょ」
そんなことしたら大騒ぎになってしまう。
わたしはそれでもいいんだけど、エジェに迷惑は掛けたくない。
仕事柄、絶対あってはいけないこと。
無理に笑顔を浮べてエジェに向けるけど、目いっぱい引きつっているのが自分でもわかる。
「送ってくよ」
エジェが慌ててついてくる。
「いいよ。
エジェ、仮にもわたしの元婚約者さんだもの。
もし侯爵家の使用人にでも見られたら、騒ぎになるから」
本音を言ってしまえば、エジェの言葉はすごく嬉しい。
そしたらもう少しだけ側に居られる。
だけど、これ以上甘えられないよね。
「おまえ、こんな時間にここに来ている時点でヤバイだろ。
送らせるから。
ちょっと待ってろ」
恐らくは付き添ってくれる使用人を起こしにいったんだろう。
エジェは部屋を出て厨房脇の階段を上っていった。
エジェが戻ると、程なく屋根裏から年嵩の夫婦が降りてきた。
「起こしてしまってごめんなさい」
「いや、まだ皆さんを送っていって戻ったところだ。
寝ていなかったし、構いませんけどな」
わたしの言葉に愛想良く答えてくれる。
「それにしても旦那さんも隅に置けませんな。
こんなにかわいらしいご婦人と夜中に逢瀬とは」
エジェをからかうように言う。
「ち、違う。
この娘は、その。
爺さんの代から付き合いのある家のお嬢さんで、妹みたいなもんだ」
慌ててエジェが否定した。
その言葉になんだか胸が痛くなる。
そっか、エジェにとってわたしは単なる妹みたいな存在だったんだ。
婚約は、お爺様に言われて流されていたか、仕方なくだったのかな。
あ……
なんだか、侯爵様に奥様が居たって言われた時よりショックだ。
「暫くおとなしくしてな。
何がどうなっているのか把握して、手を打ってやるから、な? 」
エジェはわたしがこの先どうするか見通しているかのように釘を刺した。
「おとなしく…… か」
揺れる馬車の中から、窓の外の真っ暗な闇を見つめているとさっきのエジェの言葉が脳裏に浮かんだ。
手を打つって言ったって、エジェどうするつもりなんだろう?
そう簡単にどうにかなるもんじゃないと思う。
離婚は宗教で認められていないし。
全くの他人が進言したって、家同士の争いに発展するだけ。貴族同士ならそれは尚更。
そもそも、お兄様が何とかいってくれるんならまだしもエジェのお家にこれ以上迷惑はかけられない。
お兄様にお願いしたって、
「何贅沢いっているんだ。妾の娘が貴族の正妻に貰ってもらっただけでもありがたく思え」
って一笑されるだけなのはわかりきっている。
おとなしく、ね。
たしかに、おとなしくしていたらわたしはあの邸に居られる。
きっと、この数ヶ月そうだったように、奥様の代わりに書状をしたため。
正確にはわたしが務めるべき夜会などの社交を誰かにやってもらって。
それ以外は居ないように身を潜め、誰の目にも止まらないようにひっそりと生きて行くことはできるのかもしれない。
だけど、
……そんなのって、あんまりにも惨めだ。
痛みの走った唇に手を持っていくと微かに血の匂いが口中に広がる。
無意識に唇を噛んでいたみたい。
いっそのことこのまま、どこかへいってしまおうか?
わたしが姿を消したって、侯爵様には何の実害もない、むしろ厄介者が消えてくれればせいせいするはず。
「着きましたよ、お嬢さん」
掛けられた声にわたしは顔をあげた。
エジェに言い付けられたのだろう、馬車は侯爵邸門前より外れた隣家の塀影に止められていた。
「ありがとう。助かりました」
ポケットからコインを取り出し付き添ってくれた奥さんの手に握らせる。
「何があったかわかりませんけど、元気出してくださいね、お嬢さん。
わたしどもでできることがありましたら、お手伝いしますから言いつけてくださいね」
愛想良く言ってくれる言葉に頷いてわたしは馬車を降りた。
翌朝の目覚めは思っていたよりさわやかだった。
ここのところ続いていた、寝起きなのに疲れが取れていない感じは全くない。
むしろ躯が軽くて、頭もはっきりしている。
思わずベッドから飛び降りた。
身支度を済ませ鼻歌交じりでお掃除に取り掛かる。
お世辞にも広いとは言えない部屋のお掃除はあっという間に終わってしまった。
いつもならこの先、今日一日何をしようか悩むのだけど、今日は別。
昨夜遅く帰ってベッドにもぐりこんでから散々考えたことを少しずつ実行しないと!
えっと、まずは……
「おはようございます。
今朝は随分ご機嫌がいいようですね」
寝しなに立てたせいでうろ覚えの計画を思い出していると、食事のトレーを掲げた家令さんに突然声を掛けられた。
「あ、おはよう。
おかげさまで今日はとっても気分がいいのよ」
笑みを浮べてありきたりな言葉を返す。
「それはよろしゅうございました」
にこりともせずに言って、家令さんは書き物机の上に食事を置いた。
「あのね、新聞ある? 」
その行動の邪魔にならないように少し端によりながら訊いた。
「新聞ですか? そんなものを何に? 」
あからさまに家令さんが眉を寄せた。
「わかってるわ。そんなもの女性が読む物じゃないって言いたいのよね? 」
ため息混じりに突っかかる。
「暇すぎて時間を持て余しているんだもの新聞でも読まなきゃやってられないわ。
侯爵様は必要なものは言いなさいって言ってたわよ。
いいわ。
手配してくれないって言うんなら、後でマーケットに買いに行くから。
それともこのお邸のなか、お掃除しようかしら? 」
「どちらもご遠慮ください。
わかりました、手配いたしましょう」
家令さんはしぶしぶ頷いた。
食事のトレーを下げるのと引き換えに家令さんが数誌の新聞を持ってきてくれた。
「さて…… 、と」
紅茶のカップを端に寄せて新聞を広げる。
お父さまのお相手をしてずっと新聞の記事を読んであげていたから、どんな記事が載っているか知っている。
「あった! 」
最終頁付近を開いて見だしに目を走らせると、直ぐに希望の記事が目に止まった。
「ふぅん。
某貿易会社の事務員。
マーケットに併設されたカフェのメイド。
上級貴族のお家の子守。
商家のお嬢さんの家庭教師……
結構あるものね。
今日のところはこれだけかな? 」
並んでいた求人記事の中から自分ができそうなものを引っ張り出す。
貿易会社とマーケットは通いだから住むところをまず確保しなくちゃ駄目かな?
貴族のお家はおおむね住み込みだけど、わたしの顔を知られている可能性があるのよね。
あとは商家のお嬢さんの家庭教師かな?
「うん、いける! 」
多分家庭教師をつけて貴族の礼儀作法や常識を学ばせ、ゆくゆくは貴族に娶ってもらおうってところだろう。
だったら、わたしにおあつらえ向き。
弾んだ心で募集要項の詳細を読むわたしの目が「要、紹介状」の一文に釘付けになる。
「う…… 」
そうだった。
厄介なことに家庭教師とか、貴族の家のメイドとか前の働き口の主人に書いてもらった紹介状が不可欠なのすっかり忘れてた。
もしくは縁者の後ろ盾。
こんなことお兄様には絶対頼めないし、どうしよう……
紹介状書いてくれそうなのはエジェと、ジュスト伯爵様?
いやいやいや……
無理よね。
迷惑は掛けられないし、書いてもらうには理由を話さなくちゃいけなくなる。
侯爵様のこのお邸を出て一人で働いて暮らして行こうと思っているなんて。
知られちゃいけない。
もし伯爵様の耳に入ったら思いとどまるように説得されるのはわかりきっている。
エジェにお願いしたら絶対伯爵様の耳に筒抜けだし。
……どうしよう。
まさか初っ端から躓くとは思わなかった。
じゃ、やっぱり貿易会社の事務員?
しかないかなぁ。
住むところはあとで探すとして……
考えていても仕方がない。




