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少女と青年の壊れた世界  作者: 皐月
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第九話


 ものものしい喧騒と人だかりを掻き分けると、見知った顔が見えた。いつもなら我先にとテープを潜り、現場へと勇み足で進むエリスがテープの手前から一歩も動かないので、アロイスはつられて立ち止まった。エリスの顔が不機嫌に歪むのを横目に、アロイスは声を掛けたものか悩む。エリスの毒舌は機嫌が悪ければ悪い程、舌鋒は増し辛辣になる。どうしたものか。取り敢えず様子を見ようと、人垣の最前列で黄色いテープの向こうを観察していると、エリスの不機嫌の元が白衣を翻し、にこやかにこちらに向かって歩いてきた。不自然な程の笑顔に心中でげんなりしながらも仕方なく片手を挙げると、隣から絶対零度の冷気が伝わり身震いした。ここはブリザードか何かか。

「やあやあ、ハロー」

 軽く頭を下げて応えるが、エリスはそっぽを向いてしまう。頑なにベルタ・ミュラーを無視するエリスに代わり、「すみません、教授」と何故かアロイスが謝るのも見慣れた光景だった。見事な赤毛を揺らしながらベルタは愉快そうに笑う。

 ベルタはアロイスが通う大学の法医学部の教授であり、負傷により帰還したアロイスに大学入学を進めた張本人でもある。そして、エリスの主治医でもあり、天敵だ。名前を出しただけでエリスの機嫌は地面へ直下する勢いで悪くなる。

ベルタは近くに立っていた警官に耳打ちし、入ってくるよう促す。エリスとアロイスがテープを潜ると、ベルタは「いらっしゃい」と場違いなほどの笑顔で迎えた。

「君たち、まるで保護者同伴の社会科見学みたいだよ」

「僕もエルも保護者が必要な歳じゃないですけど」

「君はともかく、エリスは外見上そうは見えないね」

「・・・ってことは、僕が保護者?」

「的外れって訳でもないだろう。で、保護者のアロイス君。物は相談なんだけどさ、彼女に定期健診に来るよう言ってくれないかな。前回も前々回もサボタージュしてるんだよ」

「このメガネ!断じてサボタージュではない!必要ないと判断したから行かなかっただけだ」

「判断するのは私であって、あなたじゃないし」

「…行ったって、僕に言ったよな」

 地を這う声にぎくりと身を強張らせたのはエリスで、ベルタは隣で意地悪い笑みを浮かべている。

 エリスの身体は成長しない。十五年前に遭った事件から、エリスの身体は二歳程度しか成長していない。事件の詳細も、ベルタがどういった経緯でエリスの主治医となったのかもアロイスは知らない。だが、定期的に成長ホルモンを投与し続けなければ、成長を止めた身体が噛み合わない歯車のように精神と誤差を生じさせてしまうことは理解していた。本人の自覚とは別に、無意識下でそれは起きる。蹲るエリスの姿が脳裏を過ぎり、アロイスは目をかたく閉じた。幻想は消えろ。

「・・・言ったよな?」

「まさかあなたの比い稀な記憶力で忘れたなんてことはないだろうし?」

「通りで、最近病院で顔を見ないと思ったら、来てなかったのか!」

「近くまでは行った!」

「結局来てないってことだろ!」

「痴話喧嘩は他所でやってくれ」

 背後から聞こえた声より早く、アロイスは反射的に身を低くさせた。そのまま身体を回転させ、肩に置かれた腕を素早く捻りながら相手の背後に回る。ヒュー、と高い口笛の音が聞こえ、アロイスは「あ」と声をあげた。

「痛え痛え!おい、放せ!」

「ごめん、つい」

 膝を突くロバートにぱっと手を離す。ホールドアップするアロイスを睨み、ロバートは赤くなっている手首を擦る。「つい、で捻られたらたまらん」と呟き、腰を上げた。

「さすがの速さだね、ちょっと目が追いつけなかったよ」

「アーロの背後に立つのが悪い」

「それは悪うございました」

 心底感心しているベルタの横でエリスは腕を組み自慢げに頷いている。アロイスが差し出した手を軽く払い、ロバートは鼻を鳴らす。アロイスはすまなそうに背を丸め、長身を縮こまらせた。

 長い傭兵時代を過ごした弊害なのか、アロイスは背後に立たれると脊髄反射で戦闘態勢をとってしまう癖がある。治そうと思ってはいても、蓄積された経験と結びついてしまった行動を白紙に戻すことは容易ではない。

「ケルベロスの名は伊達ではない、君に学習能力はないのか」

「お説ごもっとも。・・・お前も気にすんな」

 ロバートはアロイスの頭を些か強い力で小突く。細められた青い瞳が笑い、アロイスは肩の力を抜いて笑い返す。

気安い仲と言えども、アロイスはロバートより二十歳以上上だ。そして、真っ当な常識人であるロバートは年下で苦労人のアロイスを労わることが多い。それをアロイスは少しだけ気恥ずかしく思う。覚えていないけれど父がいたら、こんなだろうかと想像する。

「現場に案内したまえ」

 突如、アロイスとロバートの間にエリスが割ってはいる。威嚇する声音に、ロバートはやれやれと頭を振って仕方なさそうに白髪交じりの髪を掻き揚げた。玩具を取られた子供と相違ない表情で仁王立ちするエリスの後ろで、アロイスは溜息を吐く。どうにかしろとロバートが目で訴えるが、さてどうしたものだろうか。

「はいはい、そこまで」突如、横から腕を引かれ、アロイスは足を縺れさせた。瞬時に体勢を立て直し慌てて声を掛けるが、そんなことはお構いなしとベルタは白衣の裾を翻す。

「案内するよ。ここで暴れられたら大変だからね」

 見かねた、というよりは応酬に飽きたのだろう。ベルタはアロイスを引きずりながらさっさと先を歩き出す。

「待て変態メガネ!」

「案内して欲しいんでしょ?着いてきなよ」

「言われなくともそうする!」

「いい子いい子。やっぱり、ひとりで病院に来させるには時期尚早だったみたいね。よし、アロイス君、首根っこ引きずってでもエリスを連れてきてくれるかい、来てくれるよね」

「今引きずられてるのは僕です!」

「人聞きの悪い、引きずってないさ。腕を組んで歩いてるだけ」

 悪びれなく笑う顔を眺めていると、「余り甘やかしちゃダメだよ」と囁かれる。アロイスはその感情が判別できない声に一瞬だけ瞠目し、次いで肩越しに追いかけてくるエリスに視線をやった。

 金の髪が強い日差しを反射し、風に靡いている。美しい顔に焦りを滲ませ追いかけてくる姿を見ると、奇妙なほどに高揚する。

常識の欠片もない、誰にも理解されず、誰も受け入れない孤独で傲慢な、理性と知性の小さな女王様。エルには僕しかいない。僕だけがエルと一緒にいられる。エルが求めている人間は僕だけだ。それはスリル以上の快感とともに強い優越感をアロイスに与えた。

そして何より、エリスがもたらす生活はアロイスにとって酷く魅力的だった。致命傷を負い、戦場から弾きだされて尚、スリルを欲したアロイス。普通に生活をする上でどうしたら死体や殺人犯などとお知り合いになれるのか。無理だろう、普通。だが、心の底から求めていた戦場が、エリスの傍にいるだけでいとも簡単に再現される。

そう、エリスだけだった。アロイスが求めた戦場を与えてくれるのは。この些か猥雑だが平和なアディの街で、エリスだけがアロイスの欲しいものを否定せずに、ともに楽しもうと手を差し出した。その手を取ったのはアロイスだ。今更手放せるわけがない。

「甘やかされてるの、僕のほうかもしれないですよ」

「それはそれで笑えるね」

 嘲るわけでもないベルタに目を眇める。エリスを変人だと、異常だと周囲は評するが、アロイスは自分こそ異常で醜悪だと知っていた。そのことをベルタは知っているだろうに、それを否定しない。有難いと心から思う。が、エリスを無駄に刺激するのはいただけない。

「笑えますよね、確かに」

 後で機嫌を伺う自分を想像し、アロイスは小さく笑った。



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