第八話
テーブルに広がるお菓子を忙しなく口に運ぶエリスを見かねて、アロイスは声を掛ける。
「落ち着いて食べろよ」
サマープティングに集中しているエリスの耳には届いていないらしく、アロイスは嘆息する。口の端に付いている生クリームを指で拭ってやると、煩わしそうに眉を顰められる。こうしてると普通の女の子なんだけどな。
あっという間に自分の分を平らげたエリスはアロイスの皿にフォークを伸ばし始めた。瑞々しく輝くベリーにフォークが刺さる寸前で素早く皿を避ける。にやりと笑って見下ろすと、盛大に舌打ちをされた。睨みあうこと暫し。
「相変わらず仲良しね」
「「違います」」
「まあまあ、息もピッタリ」
軽やかな笑い声に、何を言っても無駄だと悟ったアロイスは憮然とした表情でソファに深く腰掛ける。物欲しそうに見上げてくる視線を無視し、死守したサマープティングを頬張る。ベリーの酸味と果汁が染みた生地の甘さが口の中で冷たさと溶け合う。うん、旨い。
「アロイス、紅茶のおかわりはいかが?」
「頂きます。プティング、とても美味しいです」
「ありがとう、嬉しいわ。近頃暑くなってきたでしょう?そろそろお店に出そうかと思って試しに作ってみたのよ」
「モリンズさんの作るものに間違いはありませんよ。ほら、このマシンガンすら黙るくらいです」
アロイスの悪戯な視線の先には、無言のまま次々と皿を空にしているエリス。モリンズ夫人はくすりと笑い、バスケットから小振りな器に盛り付けられたイートンメスを取り出す。
「これ、いつでも食べられるよう冷蔵庫に入れて置きましょうね。キルシュを多めに入れたから日持ちするわよ」
誇らしげに微笑むモリンズ夫人を、フォークを片手にエリスはキラキラした瞳で見上げる。何か言いたそうだが、まだ口に入っているからか口を開くことはない。モリンズ夫人を褒め称えたいのだろうが、エリスは口に物が入っている間は決して言葉を発しない。こういうところは育ちがいいな、とアロイスは思う。両手で口を抑えながら懸命に飲み込もうとするが、そんなに慌てていては喉を詰まらせかねない。アロイスは紅茶を注ぎ、エリスの前に置いた。モリンズ夫人に「どうもありがとうございます」と頭を下げると、朗らかにモリンズ夫人はリスのように頬を膨らませるエリスの髪を撫でる。くすみのない鮮やかな金色が眩しい。擽ったそうに身じろぐと、エリスは親指で口元を乱暴に拭う。ベリーの切れ端をぺろりと舐め取っていると、高い電子音が鳴り響いた。
「あら、電話が鳴ってるわ」
「君のだぞ」
ミルクティーで喉を潤しているエリスに、アロイスは顎でしゃくる。テーブルに置いてある携帯電話のイルミネーションが点滅していた。
携帯電話を手にするエリスの横顔を眺めながら、モリンズ夫人とアロイスは談笑する。
「そうそう、今日相談したいことがあるって方がお店に来たのよ」
「へえ、どんな人でした?」
「スーツを着てたけど、あれは勤め人じゃないわね」
「どうしてそう思うんですか?」
即答するモリンズ夫人を不思議に思い尋ねると、おどけて「女の勘よ」とウィンクをされる。老年の穏やかさに少女の無邪気さを滲ませるモリンズ夫人が言うとそんな気がしてくる。
モリンズ夫人が経営しているカフェ『ガーデン』の一角に『相談承ります』の張り紙が現れたのは、最近の話だ。退屈を最も嫌うエリスは無駄によく回る頭脳を持て余し、フラットの壁に銃弾を減り込ませることでストレスを発散していた。見かねたモリンズ夫人が(フラットを壊される前にと)趣味と実益を兼ねて、「探偵なんてのはどうかしら?スリルが向こうからやって来るかもしれないわよ」と提案したことが始まりだった。
「そんな大層なものじゃないけど、多分」言い置いて、モリンズ夫人はにこりと微笑んだ。
「誰かの遣いでしょうね」
「・・・不穏な気配です、か」
どうでしょうねえ、と新しい紅茶を淹れるモリンズ夫人の表情は楽しそうだ。「どうでしょうかねえ」とアロイスは溜息を紅茶とともに飲み込む。と、突如目の前が白くなり、目を瞬かせる。視線を上にそらすと、モリンズ夫人が封筒を差し出していた。
「はい、これが手紙ですよ」
「いつも有難うございます」
白い封筒は薄く、宛名も何もない。裏返して光に透かして見ても、特におかしなところはない、何ら変哲のない手紙だ。
依頼を受ける際のきまり事がひとつある。それは、手紙だった。依頼を受けるかどうかは手紙を見てからエリスが決める。この決まり事は、エリス曰く余りに『くだらない』依頼が多すぎて、これまたエリス曰く『時間の無駄』を省く為のものだった。たった一通の手紙から多くの情報を引き出すことなど、エリスには容易い。
「危ないことは程ほどにね」
まるで子供に言い聞かせるような言葉に、アロイスは面映さを感じ首の辺りを擦る。視界の端ではエリスが歓喜の声を上げていた。「エクセレント!」小躍りしそうな様子に、アロイスは溜息を禁じえない。厄介ごとに意気揚々と首を突っ込む気には、いまだになれないアロイスなのだ。
通話を終えたエリスは携帯電話を放り投げ、天を仰ぐ。くるくると軽やかに回りながら、天井ではないどこかを見つめ続ける。高く伸ばした両腕は何も掴めないまま空を切る。くるくるくるくる、まるで旋回する飛行機の翼に似たそれに、アロイスは眩暈を感じる。ふふふ、ふふ、素晴らしい!エリスはこみ上げる衝動のままに笑う。うっとりと目を細める横顔をアロイスはじっと見つめる。悪い病気の始まりだと、内心で嘆息しながら、ゆっくりと合わせられる視線からは逃れられない。後ろは壁で、退路はない。
「行こう」
「ロバート?」
「分かってることを質問するな」
「はいはい。モリンズさん、すみません。僕たち出てきますね」
「いいのよ、冷蔵庫で冷やしておくわ」
一瞬、冷蔵庫に入っている色とりどりの眼球を思いだし、アロイスは口を開く。早くも階段を駆け下りたらしいエリスの急かす声が後ろから聞こえる。ああ、早く行かないと。
そして、アロイスは口を閉じて、にこりと笑う。ごめんなさい、モリンズさん。それもこれも、彼女が悪いんです。
「有難うございます」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
モリンズ夫人の気遣いに手を挙げ、アロイスは先を急ぐ。階段を下る途中でエリスの鼻歌が聞こえてきた。最後の一段を降り、エリスの背中に大股で近づく。
「機嫌がいいようで何よりだよ」
「退屈が紛れる事件だ」
「内容が分かるのかい?」
「ロバートが私に連絡をする程の事件は、ここ数日ひとつしかない」
「なるほどね」
それは何よりも危険だということだ。至極楽しそうに瞳を煌かせるエリスの隣で、アロイスは腹の底が掻き混ぜられる錯覚を覚える。仕方なさそうに溜息を吐いてみたところで、アロイスもエリスと同じでスリル中毒なのだ。
「楽しめるゲームだ」
「それは何より」
見上げる瞳には隠しきれない物騒な光が瞬いている。新しい玩具を見つけた子供のそれに、アロイスは笑みを滲ませる。背筋を這い上がる高揚がアロイスの鼓動を一際高く鳴らす。どう言い繕ったとしても、アロイスも結局はスリルが好きなのだ。困ったことに。
傭兵として戦地を駆け、致命傷を負い帰還しても、心は戦場に焦がれている。平穏と日常を愛しながらも、嫌悪し、退屈を恐れてしまう。そんなアロイスを丸ごと受け止めてくれたのは、エリスだった。
「今日は暑いらしいぞ」
「腐乱死体には持って来いの日という訳だ」
「全くだ。帰りにアイスキャンディでも買おうか」
「いい案だ。こう暑くては私たちも腐ってしまう」
「違いない」
顔を見合わせて笑い合う。天井からモリンズ夫人の悲鳴が聞こえて、アロイスは「見つかったか」と呟いた。
「冷蔵庫の目玉。やっぱりびっくりするよな」
「冷やさなくては腐る」
「うん、でもアイスキャンディと目玉が同じ空間で冷やされるって、やっぱり何か、いい気分じゃないんだよな」
「味に問題はない」
「気分の問題だよ」
分からないという風に首を傾げるエリスの頭を撫で、アロイスはドアノブに手をかけた。エリスに情緒を求めるのは、難しい。そんな分かりきったことに落胆するほど、アロイスは繊細な精神を持っていない。
「行こうか」
「ああ」
追いかけるモリンズ夫人の二人を呼ぶ声を振り切り、夏の日差しに飛び込む。エリスの金の髪が視界を掠め、アロイスは眩しさに目を細めた。