第七話
上背のある女は鷹揚に歩いていた。十センチのヒールが床を打ち付ける無残な音は高級な絨毯に吸収され、女は無音の中歩を進める。
目指す突き当りの扉の前に佇む影が見え、灰色の瞳に剣呑な色が宿る。
厳重なセキュリティが張り巡らされている建物の中でも、特に厳戒態勢と呼べる一角に現れた影に、女の歩調が緩むことはない。影の一歩手前で、女は足を止める。
にこりと笑ったのは、女ではなく、影だった。一目で上等だとわかるオーダーメイドの三つ揃えのスーツを着こなし、手には上等なステッキ。金髪を撫でつけた上背の影は親しげに声を掛ける。
「やあ、アンジェラ。奇遇だな」
「白々しすぎて笑えないわね。共同戦線を張るならユーモアのセンスを磨いてからにして欲しかったわ」
冬の空を閉じ込めた瞳は凍てつく冷たさだった。
それを受けるオズワルド・ハワードは仮面のごとき笑みを刻む。優雅な物腰と笑みで、弱肉強食の理だけを信じる男。温度のないブルーグレーの瞳を忌々しそうに睨み、アンジェラ・ブライトマンはブルネットの髪を掻き上げる。表情は変らないが、仕草の粗雑さが虫の居所の悪さを言外に伝えた。いつも通りの応酬にオズワルドはひとつ頷く。顔には仮面が張り付いたままで、アンジェラはその顔が大嫌いだった。
「氷の女王は相変わらず冷たい」
「ダイアモンドの心臓に言われたくはないわ、オズワルド」
氷の女王はアンジェラの別称だ。誰が付けたかも、いつから呼ばれているのか誰も知らない。
だが、名に相応しい美貌と、その冷徹さが産んだであろう名前をオズワルドは気に入っていた。呼ばれている本人は特に気にしていないようだったが。
「君と私が手を組むのだ。これ以上のユーモアが必要かな?」
「全くその通りね。これ以上のユーモアやジョークがあったとしたら、それはもはや茶番よ」
「手厳しい」
「その鋼鉄の心臓を一突きにされるかもしれない大事ですもの」
「そう、これは大事だ。国としても、私としても、・・・君としても」
オズワルドの言葉にアンジェラは盛大な舌打ちで答える。
「行儀が悪いな。叔母様が哀しむ」
「ママとは久しく会ってないわ。知ってるでしょ」
「そのようだ」
オズワルドの表情に変化はないが、アンジェラはオズワルドとその妹も実母とは会っていないことを知っている。同じなのだ。認めたくはないが、国に仕える者として愛され育てられ、ここまで登り詰めた。己の感情で家族を巻き込むことは許されない。私情は障害となる。アンジェラはオズワルドの撫でつけた髪を眺めながら、かつて共に育った少女を思い描く。愛を知らず、持たない少女。
「エリスに変りはないようね」
妹の名前にオズワルドの表情は微塵も動かない。可哀そうな男だ。愛情は最も危険で、不利益を招く。身に染みて知っている決然とした、それでいて無情な事実。
あどけなさが残るエリスの横顔を、アンジェラは何度も何度も繰り返し思い出す。持て余され、疎まれ、作り変えられた少女。唯一の生き残り。
「機関は動いていない」
「残党たちの元気さは異常だけど」
「監視レベルを上げる必要はないだろう」
オズワルドがそう判断したのならば間違いはないだろう。気に食わないことこの上ないが、仕事に関しての敏腕さに疑いはない。それでこそ、私の従兄。私たちの血の繋がり。
息を抜いて応えを返し、アンジェラは口の端を上げる。氷の女王の微笑みに、オズワルドは頷くことで応える。アンジェラはオズワルドの肩越しに、重厚な扉に目をやった。高い鼻が不満そうに鳴る。
「護衛だけで済めばよかったのに」
「後の祭りだ」
「そうね、責めるべきはベッドの中に落し物をした人たちだわ」
「否定はしない」
「肯定も出来ないのがお互い大変なところね。彼はこの向こうに?」
「今はひとりにしている。大人しいものだ」
「大人しいことがいいことかは別だけど」
「だから、私と君が呼ばれたのだよ」
二人が動くということは、この国の政府と王室が動くことを意味している。その意味の重大さを思い、アンジェラはステッキの柄を強く握る。顧客リストの中には、機関の関係者も数人いた。言い知れぬ悪寒が背筋を這い上がる錯覚に灰色の瞳は険しさを増す。
「エリスの監視レベルは?」
「レベル6。この国いる限り、私の目からは逃れられない」
「あの子も可哀想に。偏執的なシスコンを兄に持つなんて」
「偏愛的な従姉、の間違いではないかね?」
「勿論、あの美しい身体と顔に傷がつくなんて、考えただけでもぞっとするわ」
当然でしょと言いたげなアンジェラに、オズワルドは何も言わないが、否定もしない。
エリスはエリスであるが故に、自身を危険に晒し、脳の飢えを満たす為だけに更なる危険を呼ぶ。頭を悩ませる実妹に腹を立てはするものの、その卓越した頭脳を信じ、類まれな容姿を認め、血の繋がり故に愛していた。愛は至上ではない。だから、オズワルドとエリスは、責務として天賦の才能を活かすことを第一とした。それは悲劇ではなく、誇り高い在り方だと、オズワルドは信じている。
「あの子に傷がつくことなどない」
「そう願ってるわ。今、メモリーは?」
「GPSが正常に作動していないことは確認されている」
「雲の中、ね。手始めに、雲の中を知ることから始めましょうか」
「どれくらい、そしてどれ程のお宝があるのか。ふ、考えたくもないが」
「楽しみね。ピロートークを記録に残すなんて無粋な真似はダメよと教えてあげなくちゃ」
「お手柔らかに、氷の女王様」
「あら、私は優しいわよ?」
「私は正直者だからね」
「奇遇ね、私もだわ」
優雅に微笑み、アンジェラは足を踏み出した。オズワルドは道を開け、磨き上げられたノブに手をかける。一瞬交わした眼差しに、オズワルドはひっそりと口の端を上げる。アディの街の空を閉じ込めた瞳は凍てつく冷たさだ。感情を宿さないその瞳に小さな妹の影が重なる。それでこそ、我らが血の繋がり。愛ではなく、常識でもなく、互いに取り決めた数多くの掟の上で利用しあうことを暗黙のうちに了承しあった。それこそが、血の繋がり。
オズワルドはゆったりとした足取りで、音もなく開いた扉の向こうへ進むアンジェラの背中に続いた。