第六話
気怠い体を引きずり、シャワーでも浴びようかとリビングに続く扉を開けて、アロイスは言葉を失った。眼球をゆっくり床から天井へ、天上から床へと動かし、目を閉じる。ささやかな現実逃避だ。
瞼の裏で明滅を繰り返す毛細血管の光が、何かの警告じみていてアロイスはげんなりした。
「喉が渇いた」
そして、カウチから聞こえた声に片目だけ開ける。
天井からぶら下がっている(多分)死体の向こうで、エリスが自身の髪に刃を掛けていた。床には金糸が無残に散らばり、窓から差し込む陽光を反射している。なんて美しい残骸なんだろうと、アロイスはうんざりする。
シャ、シャ。髪を切る鋭利な音が響く。半眼になったアロイスは、無言で故意的な首吊られ死体の脇を抜ける。可哀想に、二度殺されるなんて。心の中で掌を合わせながら、エリスの手からナイフを取り上げた。抵抗もなくアロイスの手に収まったナイフをくるりと回転させながら、床を彩る金糸とエリスを交互に見る。
「焦げたから切っていただけだ」
「またか。今度は何を爆発させたんだよ」
呆れるアロイスをじろりと見遣り、エリスはふんと鼻を鳴らす。憎たらしい程に整った顔を眼下に見下ろし、アロイスは不揃いな金の髪を一房手に取った。
「訂正したまえ。爆発をさせたことはない。これは実験中に燃えてしまっただけだ」
「束ねろって言っただろ」
「スクランチ―が無かった」
エリスは大家のモリンズ夫人手製のスクランチ―がお気に入りらしく、それ以外を手に取ろうとはしない。白いシルクの布に青い硝子玉が無数に飾られたそれは、エリスの類い稀な金の髪にとても似合っていた。だからと言って、切る必要はないだろう。もったいない、本心からの呟きに一瞬瞠目したエリスは、すぐにいつもの無表情を取り繕う。
アロイスは自分を感動させる全てが綺麗なものだと思っており、それを素直に口にすることに抵抗がない。言葉でどれ程修飾しようとも、美しいものは美しく存在する。それだけで十分だと思っているし、表現する言葉なんか多くなくて良い。故に率直すぎる言葉に、エリスはいつだって不意打ちを食らうのだ。
エリスの眼球は忙しなく彷徨い、膝を抱える腕に力がこもる。人に思われることに慣れてない少女。アロイスは蜂蜜色の髪を指先で梳く。歩み寄った距離の分だけ二人の距離が縮まった。早口に、つまらない、退屈だと喚くエリスの頬を突いて空気を抜いた。ぷすーと間の抜けた音が聞こえてくる。目をしばたかせたエリスがキョトンと丸い目を見せた。珍しい表情。意外と間抜けな顔も似合うものだ。造作が綺麗だからかな、どうだろう。
「髪は伸びる」
「まあ、そうだけどね。・・・うん、切り揃えてやるよ」
「…結わえられるくらいの長さにしてくれ」
赤く艶やかな唇を尖らせて、エリスは小さく強請る。結えるくらいの長さがいいなんて、可愛いところもある。普段の傍若無人ぶりからは考えられないエリスの望みに「もちろん」とアロイスは笑う。
育つことが出来なかった小さな子供が、不安そうに見上げてくる。頬をつついた手を頭に延ばし、跳ね放題の髪を撫でた。ふわふわの感触は、暖かくて無条件に安心する。
アーロと名前を呼ばれ、アロイスは嫌かと問う。跳ね除けようとすれば簡単に外れる掌は、けれど、ずっとエリスの頭の上にあった。この形のいい頭の中に、思いもよらない知識が詰め込まれている。目に見えないそれだけが少女の遊び相手で、それだけが退屈を埋めてくれる。
でもな、と声に出さずにアロイスはエリスに話しかけた。でもな、今こうして二人で過ごすことも遊びと言えば遊びだ。だから、退屈だなんて言わないでくれ。僕は君の退屈を埋める道具にはなれないけれど、話しをする口もあるし撫でる為の手もあるから。「アーロ、アーロ」
「ん?」
「手がとまってる」
「え?」
「撫でろ」
命令かよ、と突っ込みながら、手の動きを再開させる。何が嬉しいのか目を細め、気持ち良さそうに口をへの字に曲げている。何でへの字だ。UかVの字にしろよ、分かりにくい。なんてことは言わないでおく。言えば、エリスのマシンガン張りによく回る口がああだこうだと言い出すから。短いスパンで繰り返される女性との別れの理由が分からないアロイスであったが、そんなことだけはお見通しだった。それが問題なのだと、アロイスは気付かずに、蜂蜜のようにとろりとした髪に指を絡ませる。
「気持ちいいのか?」
「どうだろう。人に撫でられたことなんてないから分からない」
「……あ、そう」
絶句して、それでも必死に言葉を返したアロイスの声は、少し乾いていた。やはり、ちょっとだけ可哀想だと思う。エリスのパーソナルスペースはすごく狭い。距離が近いのは、おそらく彼女がアロイスのことを信頼しているからだった。袖にも掛けない、どうでもいい人間に対しては言い過ぎだと言いたくなるほど冷たくて残酷な態度を取るくせに、近しい人間に対しては思いがけず近い距離で話しかけたりもする。人との距離を取るのが下手で、人の感情を読むのも下手で、独りで遊ぶことしか知らない。それはやっぱり可哀想だ。
「キャー!やっぱり見間違いじゃなかったのね!」
背後からの声に、エリスは片方の眉だけを上げる。アロイスは溜息を吐いて、背後を振り返るとそこには大家のモリンズ夫人が青い顔をして立ち尽くしていた。
先ほどの硝子が割れる音と悲鳴はモリンズ夫人のものかと思い至り、アロイスは申し訳なさに眉を下げる。そんなアロイスの心中を慮れないエリスは、素早く体を起こしモリンズ夫人の手にしていたバスケットを覗き込む。
わお、イートン・メス!と弾んだ声にモリンズ夫人は表情を緩めるが、すぐに視界に入る吊られた死体に顔を顰める。
「モリンズさん、安心してください。ここが殺害現場という訳ではありません」
「そう、死体を吊っているだけ。モリンズさん、こっちはサマープティング?」
「ええそうよ。今日は暑いから皆で食べましょ」
「僕、サマープティング大好物なんですよ。その前に、これを片付けなきゃ。エリス、なんでまた吊ったんだ?」
「死体を首吊りとして偽装した場合の見識を深めたいと思ってね」
「また、アイザックか」
「とても協力的だったよ」
「ちょっとあなたたち。早く降ろしなさい!入り口に死体がぶら下がってるなんて気持ち悪いでしょう!それまでデザートはお預けですからね!」
「おっと、まだ経過を観察中です。後、三十分はそのまま」
「・・・エリス?その髪はどうしたの!」
モリンズ夫人は漸くエリスの無残な髪に気づいたらしく、驚きの声を上げた。腰まであった金糸は、左側だけが肩甲骨までの長さになっている。切り口はジグザグで、酷く不揃いだった。痛ましそうに、皺が目立つ手を切り揃えられていない毛先に触れる。
心から心配しているだろう声音に、エリスは体を少しだけ硬くさせた。細く小さい背中を見つめるアロイスは、仕方なさそうに襟足を掻く。見えないが、きっと白く整った顔に困惑と不安が浮かんでいることだろう。好意に不慣れな女王様は、全く手がかかる。
「この暑さに参ったようで。今切っている最中だったんですよ」
アロイスは手に持っていた金糸の残骸を持ち上げて、エリスに笑い掛ける。モリンズ夫人の問いかけに体を強張らせたエリスは、ゆるゆると力を抜いてこくりと頷いた。
「あら、そうなのね。私が切ってあげましょうか?」
「それはいいですね。今の長さに切り揃えてやって下さい」
「任せて頂戴。仕上げに髪を結ってあげましょうね」
それにしても不器用ね、と微笑みかけるモリンズ夫人に、エリスはぎこちなく首を縦に振る。
「新しいクランチーも作ってあげるわ。今度は目とお揃いの色にしましょうね」
「モーヴがいいんじゃないかな?」
「それはいいわね!とても似合うわよ」
この街にしては珍しい快晴、微笑みあう女性が二人、バスケットの中には手作りのお菓子。視界の端でぶら下がる首吊り死体に目を瞑れば、なんて素晴らしい昼下がりだろう。死体のすぐ傍でそんなことを思うあたり、結局のところ、アロイスも中々の変わり者なのだ。自負は別として。