第五話
夏でも比較的涼しいアディの街ではあるが、夏は夏である。暑いものは暑い。例年より気温が上がった昼下がり、アロイスは自室で寝返りを打っていた。
いつも太陽は最低限の仕事をしておけば充分なのだろうという態度で、アディを暖める意志も見えない癖に、いきなり暑くするなんてどういうことだ。程度と言うものがあるだろう。お前はあれか、一昨日まで彼女だったアンナか! ああ、アンナ! いきなり別れるなんてどうしたって言うんだ!
どこに当り散らしているのか分からない鬱憤は、巡り巡ってアロイスの思い出したくない記憶を呼び起こさせた。そのことに腹が立ち、アロイスはベッドの上で頭を抱える。
少し前に目は覚めていたのだが、覚醒した瞬間に体に纏わりつく熱気に嫌気が差し、起き上がることを放棄したのだ。申し訳なさ程度に掛けられているシーツは体温を吸収し、熱を持っている。
暑い。じわりと汗が滲む。カーテンの隙間から零れる日差しの強さに眉を顰め、ベッドサイドに置いてある時計に手を伸ばす。昼前であることを確認し、アロイスは再び気怠い体をシーツに沈ませた。
それにしても暑い。部屋の冷房を付ければいいと分かってはいたが、一度力を抜いた体を再び起こすのはどうにも面倒だった。熱が移ったシーツを脇に寄せ、身体を反転させる。熱を持たないシーツの滑らかさが心地よくて、アロイスは緩慢な動作で寝返りを打つ。
流石にパンツ一枚で部屋に居るのはどうかと思ってはいるのだけれど、何せ暑いのだ。シャツを羽織るのすら億劫だった。窓の向こうの喧噪は遠く、ゆっくりと睡魔が隣人のような気安さで寄り添う。抗うこともせず、瞼を下ろそうとして。
「アーロ!アーロ!ロングアロー!」
けたたましい声と共に、階下から響いた硝子が割れる音、と聞き慣れた女性の悲鳴。
ああ、始まったかとアロイスは上半身を少しだけ起こす。じとりと肌に汗が浮かぶ不快感に眉間の皺を深くする。窓から見える空はこの街にしては青く、珍しく快晴。アンディは一年を通して曇り空であることが多い。未亡人の唇のように堅く閉じられた曇天、とは揶揄だが上手い比喩だとアロイスは思う。ああ、そういえば洗濯をしないといけない、ランドリーボックスにうず高く積まれた衣類を思いだし溜息を吐いた。
「アーロ!いつまで寝ている気だ!目玉が溶けるぞ!」
「今行くよ」
階下からの大声はアロイスの気など知らぬ様子で、苛立ちを滲ませている。早く下りないと面倒なことになると経験から知っていたアロイスは、クローゼットに視線をやる。
ベッドからの距離は歩幅二歩分。その距離が今はとても遠く感じられて、溜息を吐いた。吐いた息すら熱を持っていて、不快感を煽る。
暑いと、籠った熱気の中、アロイスは独り呟いて項垂れる。動きたくない。
「君の目玉が溶けたところで目玉焼きにはできないからな!ああ、でも実験には使えるか!」
ああそうかい、僕としては実験でズタズタにされるくらいなら美味しく食べて貰った方が気分がいいよ。投げやりに思いながらも、アロイスは階下の騒がしい住人の為に重い腰を上げる。ナイスアイディア!と沸き立つ声に、全然ナイスじゃないと突っ込みながら、シーツの海から抜け出した。滑らかな布から指先が離れる瞬間に、温い風が頬を掠め、サルベージされるように声が通り過ぎる。
「あなた、いつもあの子のことばかり。私じゃ駄目なのね」
皮肉気に口元を歪めて笑う顔がフラッシュバックし、アロイスは咄嗟に額に手をあててしまう。それは、三ヶ月のお付き合いの末に別れた彼女、アンナの声だった。
終わりにしましょう、の聞き慣れた一言に、アロイスはただ頷くしかなかった。別れの言葉に、またか、という諦め半分空しさ半分で溜息を飲み込むことに慣れているアロイスに、疑問が浮かぶことはない。そのことをおかしいと指摘する人間がいないせいで、アロイスは目の前で眼差しを伏せるアンナを見ながら、まだ温かい珈琲に指を伸ばす。
アロイスとエリスは周囲が想像するような関係では決してない、ただの同居人。プラス、ビジネスのパートナー、というか使い走り。悲しいかなそのことを理解する人間に、アロイスは未だかつてお目にかかったことがない。
アロイスは男が持ち得ない、女性特有の柔らかく、丸みを帯びた肉感を愛しているし、健気にも男を受け入れる女の性を素晴らしいと心から思っている。美しい肌も、美しい夜も知っている。恋愛は素晴らしい、不可欠なものだといっても過言じゃない。女性は無条件に男性を愛するように出来ているようで、口説いて手ごたえを感じることが出来るし、駆け引きも楽しめる。その後に訪れるベッドの中でのお付き合い。ああ、恋はいい。女性との他愛もないお喋りもいい、もっと深いお付き合いもいい。どちらにせよ、アロイスは心から楽しむことが出来る。長い間戦場にいたが為に飢えていた体温と日常に芽吹く感情を、アロイスは心から求めた。
なのに、デート中に意味のない我が侭で呼び出され、デート先のカフェに現れた挙句連れ去られ、ようやっと漕ぎ着けていざ愛を深めようって時に電話ですぐに来いと強請られること数十回。
分かっている、分かっているさ。そこでエリスを選ぶ自分が一番悪い。携帯電話の電源を切るなり、無視をするなり、やりようは幾らでもある。そう分かっていながら、実際にそれが出来ない己に、アロイスは項垂れた。
「アーロ!」
痺れを切らした声に適当に応えを返しながら、アロイスはカーテンを開ける。夏だから、こんなに暑くて、夏だから、こんなに苦しい。石畳に落ちる影の黒さに嫌気が差し、窓に背を向けた。
そろそろ麗しの同居人が、癇癪を起こす。アロイスにとって夏の暑さより、そっちのほうが余程問題だった。