第三話
「変人が」
「ディーン!・・・すまない、アロイス」
扉を開けたのは馴染の刑事、ロバート・ワイアットだった。その背後には見知った顔が幾つかあり、アロイスは既に女に興味をなくしたエリスの腕を引き、足早に灰色の部屋を後にした。人垣を分け入りながら、余りに不躾な視線の間を歩く。
変人、心無い人間、怪物、化物、詐欺師、精神異常者。
ちくしょう。口をついて出そうな悪態を、拳を握ることで耐える。
「・・・その顔は、やめておけ」
「え、どんな顔してた?」
「殺人犯みたいな顔だったぞ」
よく分からないと心外そうに自分の顔を撫でるアロイスに、ロバートは肩を竦める。社交性があり、常識と分別を持ち合わせ誰とでも打ち解ける友好的な性格。周囲のアロイスの評価に、ロバートが感心するのはこんな時だ。
顔を合わせれば軽い冗談も交わすし、時には食事を共にすることもある。元傭兵とは思えない気安い性格は気に入っている。だが、その下には鋭い牙が隠されていることを、ロバートは知っている。真っ直ぐに躊躇いなく敵の喉笛を噛み千切るそれが、エリスの為だけに剥かれることも。
「・・・見られてなくて良かったな」
発言の意図を正しく汲み、眉を八の字に下げて笑うアロイスに先ほどの不穏な影は微塵もない。そのことに安堵する反面、何となく不安を覚える。それを誤魔化すように、ロバートはもう一度「すまん」と頭を下げた。
「僕に謝ることじゃないし、エルも気にしてないよ」
ロバートの謝罪にアロイスは軽く笑って、エリスの姿を探した。
ディーンがそれでも憎々しげに「いかれた女だ」と呟くのに眼を眇めてしまうのは、癖のようなものだ。ロバートの短い叱責にディーンは仕方なく口を噤み、足音荒く去っていった。その背中を見送りながら、アロイスは肩の力を抜く。ロバートは申し訳なさそうに白髪交じりの髪を掻く。真っ青な瞳が気まずそうに逸らされた。不器用で誠実な男だ。
「エリスのおかげで、彼女の無実は証明された。・・・これでも、感謝してるんだ」
「ああ、分かってるよ」
感謝なんてエルは求めないだろうけどね。声に出さなかったがロバートには伝わっているだろう。アロイスよりエリスとの付き合いが長いロバートは、困ったように顔を歪ませる。
話題の当の本人と言えば、相変わらずの澱みない足取りで先を歩いている。孤独になるのが上手なエリス。すれ違う人間は遠巻きに、あからさまな好奇と蔑みの視線を送っている。幼い割に姿勢のいい伸びた背中は凛としていて、アロイスとロバートはその相変わらずな後ろ姿に溜息を禁じ得ない。
「まあ、なんだ。お前も、よくもってるよ。やっぱり付き合ってるのか?」
「またそれか。彼女とはなんでもない、ただの同居人だよ」
お決まりの応酬にアロイスは笑いながらも、奇妙な違和感を感じずにはいられない。
それは、エリスと共に居るようになってから、ずっと続いている。
アロイスだってディーンの意見に概ね賛成だし、罵倒される理由も分かる。
だが、アロイスはエリスと過ごしていく内に、そのことが悔しくて堪らなくなっていった。
整い過ぎた容姿に無慈悲な程の聡明さ、そして情を理解できないが故の残酷さ。エリスはただそこに居るだけで人の眼を惹く。一度視線を交わせば多くが少女の虜となるだろう。万人を無意識で平伏せる不可解な魅力をエリスは持っていた。
そしてその魅力は、多くの場合悪い意味で鮮烈な印象を残す。ようするに嫌われる。疎まれる。優れた頭脳を提供し事件を解決しても、エリスの評価は「変人」「精神異常者」から変わることはなく、アロイスはそのことに何とも言えない歯痒さを感じた。確かに人格者だとは言わないが、それにしても何故これほどの素晴らしい能力を持った人物が迫害されなければいけないのか。
その理由を、アロイスは少しだけ分かり始めていた。
余りに美しいものは、疎まれる。孤独な麒麟児。エリス・ハワード。誰もエルの傍に居られない。孤独が友達。幸か不幸かそんなエルの同居人になったアロイスは、聞き慣れた言葉と、蔑視と奇異の視線にいつまでも慣れることはない。
「アーロ!何をしている!」
「今行くよ」
ロバートに軽く手を振り、アロイスはエリスの元へ歩き出す。決して駆け出すことはない。
どれだけ不機嫌に美しい顔を歪めようと、後ろも隣も見ることなく足を止めなかったとしても。エリスが待っていることをアロイスは知っている。「ごめん、待たせた」眉尻を下げて、片頬を上げるだけのアロイス独特の笑顔に、エリスは鼻を鳴らす。
お、機嫌悪いな。そんなことを暢気に思いながら、エリスの隣に並ぶ。どんなに尊大な性格をしていようと少女の歩幅は小さいから、自然とアロイスの歩調はゆっくりとなる。
奇異の視線に晒されながら、アロイスは頭ひとつ分以上下に視線を向ける。
「それにしても、一目見ただけでよくあれだけのことが分かるな」
「・・・君たちは一体何を見てるんだろうな。あんなもの、直ぐに分かることだ」
ちらりと斜め上を見たのもほんの刹那。エリスは直ぐに視線を戻し、小さく呟く。平坦で単調な声、感情が読めない表情は、ともすれば馬鹿にしているといった印象を与えかねないものだった。
だが、金の髪から覗く形の良い耳は平素より赤く染まり、先ほどから瞬きの回数がいつもより多い。長い睫毛が伏せられる度に頬に影を落とす。こいつ、照れてるな。アロイスは口角が上がるのを、咄嗟に手で覆うことで隠す。
ぎろりと紫の瞳に睨まれ、アロイスの視線は宙を泳ぐ。視線を逸らしたことで、周囲の眼差しが不快感を伴って二人を取り巻いていることに気づく。慣れることはないし、やはりいいものではない。こんなものに、エリスはずっと晒されていたのだろうか。だから、遂余計なことを口走ってしまった。
「もう少し、言い方があったんじゃないのか」
口にしてから、アロイスはしまったと思う。不意に、硬質なアメジストが脳裏を過ぎる。記憶を辿ると、「君は不用意な言動が多い。気をつけたほうが身の為だ」と、言われたことを思い出した。あれは、何が原因だっただろう。忘れてしまった。
瞳に浮かぶ冴え冴えとした軽蔑の色を、アロイスは見つめる。エリスの白い肌に比例するように、赤く映える唇がうっすらと笑みを刷く。
「言い方?告解室で罪人の懺悔を許す神父のように、『父と子と聖霊の御名によって貴女の罪を許しましょう』とでも?それとも、一時の慰めを与えろと?『辛かっただろう、君の気持ちが分かるよ』とでも?生憎だが私は神父にはなれなし修道女でもないし、まして他人の気持ちなど分かりはしない。心の在り処は脳だ。胸の高鳴りは、心が胸郭の中にあると感じるのは、血管の収縮によるものだ。それは只の勘違いだし、何より、彼女は許しも慰めも求めていなかった」
「それはそうだけど。・・・でも、それは極論過ぎるよ。実も蓋もない。君の頭脳なら、言葉を選ぶくらい造作もないことだろう?」
いっそ挑発的な物言いに、アロイスはぐうっと喉を鳴らした。それに婉然と笑うのは、作り物のように美しいエリス。心底興味などないのだろう。エリスが他人の感情に興味を抱くときは、犯罪のプロファイリングをする時くらいで、言ってしまえばエリスにとって感情は統計的な数値にしか過ぎないのだ。アロイスの顔を睥睨し、エリスはひとつ息を吐いた。
「選んでどうする。くだらない。私が知りたいのは、埋まらないピースだ。だが、・・・ふふ、これで埋まった」
満足げに頬を緩めるエリスに、アロイスはやれやれと頭を振る。それに笑みを送り、エリスは頷いて、「埋まった」と呟いた。
「あんな物語に乗る人間がいるのかという疑問があったからな」
無邪気に喜ぶ声に耳を傾けながら、アロイスといえばエリスの旋毛や形の良い頭を眺めていた。
彼女がなぜそれを選んだのか、分からないんだな。
灰色の箱の中で、滂沱の涙を流していた女を思い出す。憎しみより強力で凶暴な動機なんて、この世にはひとつしか存在しない。正気の殻を食い破る狂気。
分からないだろう、それでこそエリスがエリスである所以なのだ。
ただ、そのことをアロイスは少しだけ寂しいと身勝手に思う。歯がゆく、思う。躊躇して、それから手を伸ばすとエリスの腕をそっとつかんだ。エリスは僅かにびくりとした。用心からか拒否感からかはわからないが、一瞬緊張し、身を硬直させたのがアロイスにもわかった。だが手を払おうとはしなかったから、アロイスはもう少しだけ掴んだ手に力を入れた。
見上げてくる、聡明で何でも見透かしてしまう、綺麗な朝焼けを思わせる紫色の二つの宝石。
アロイスは、真っ直ぐな眼差しに耐えられず、目を背けた。そうすることでしか、アロイスは自分とエリスを守ることが出来なかった。