第一話
天上から床、四方の壁に至るまで灰色の狭い箱。囚人の常軌を掻き毟る灰色の異常。
その中央に女がひとり座っている。虚ろな視線は宙を彷徨う。背後で扉が開く音がするが、女が振り向くことはない。何もない空をただ見つめるだけ。
音を立てて開かれた扉の向こうには、金の髪の少女と背の高いブルネットの髪の青年が二人。青年が背後に向かってひとつ頷くと、再び扉は閉められた。少女は足音も立てずに部屋の中へ進み、女の傍を横切る。
「みんな、私が殺しました」
「それは事実ではない」
女の陶酔した声をエリス・ハワードは一切の感情を込めずに断ち切った。虚空を見つめていた女の眼差しがゆるゆる焦点を結ぼうとし、肩越しに振り返ったエリスの紫紺の瞳と交差する。宝石の輝きを凝縮した冷徹で硬質なアメジストを持つ少女が静かに女を見つめ返す。
天使だ。
小さな明り取りを背後にした少女の背から、まるで羽のように陽光が差し込んでいる。その美しさに、女は一瞬我を忘れて感嘆の溜息を吐く。
「君は殺していない」
少女の声に我に返る。何を言っているのだろう。少女の言葉を反芻する。私が殺したのに。女は笑みを浮かべ、天使に向かって口を開く。
「私が、」
「男の偽装だ。毒殺したと君が供述した夫婦の死因は毒殺で間違いはない。ところで青酸カリをご存知かな?そう、毒殺の定番、王道中の王道。では、青酸カリの致死量をご存知だろうか?約2.5グラム。飲み物に混ぜたとすると、一口の量を150CCと仮定してグラス一杯125CCにはどれくらいの致死量のシアン化合物、青酸カリを混入しなければいけないだろう?そうだな、20グラム以上は必要だろう。では首尾よく溶けたとして、それを飲む可能性はどうだろう?答えはノーだ。なぜなら、シアン化合物は酸と反応すると強い臭いを発生させる。これは青臭く、刺激の強い臭いだ。そんな異臭がする飲み物を飲む人間がいるだろうか?答えは」
女はエリスの言葉に身体を戦慄かせる。耳触りの良い声が静かに女の常軌を食い散らかす。灰色の壁が迫る圧迫感に呼吸が浅くなる。女の神経質な身体の震えをいち早く察したのは、壁に寄り掛かっていた青年だった。アロイス・ロックウェルが少女の名前を焦りを込めて呼ぶ。右手を軽く挙げてそれに応え、エリスは柔らかな形の良い唇を開く。女が上げた悲鳴じみた叫び声は意味を成さずに反響するだけ。
「イエスだ」
「私が殺したのよ!」
「それはノー」
エリスの声はどこまでも冷たく、無機質だ。茫然と見上げる女の顔を一瞥し、浅く喘ぐ呼吸音に顔を顰める。十四・五の年端もいかない少女に似つかわしくない、まるで肉食の獣が気紛れに周囲を睥睨する様に似た仕草に、女は肩を震わせた。
アロイスは、エリスと女のやり取りを傍観しながら、マジックミラーになっている鏡の向こうの気配を探る。エリスの無駄のない言葉に舌打ちを耐えながら、アロイスは唇を噛む。その間にもエリスの老練な賢者のごとき口ぶりは鋭さを増し、女の狂気を引き千切る。
「奥方に旦那が心中を仄めかし、服毒させたのだろう。でなければ、異臭のする飲み物を、しかも口に含んだら最後、酷い刺激が口の中を襲う液体を吐き出さない訳がない。いや、吐き出そうとしたところを夫によって静止された。正面から体を拘束され、無理やり飲まされた。後ろから口を塞がれたのではないことは奥方の遺体から一目瞭然だ。背後からでは嚥下する瞬間が見られない。故に、旦那は正面から口を塞いだ。でなければ、あれだけの圧迫痕は残らない。では、旦那もこのシアン化合物が入った飲み物を飲んだのか?それはノー。カプセルだ。統合失調症を患っていた夫は薬を服用していて、そのカプセルを使用した。荷物に入っていた薬の数が合わなかったことからこのことは明白だ」
「奥方も、あの人も、私が、」
「長く統合失調症を患っていた旦那に縋られたのか、奥方は毒入りの飲み物を飲んだ。僕も後を追う、そんなことを言ったのかな?まあこれは想像の産物だ、どうでもいい。さて、奥方は生前身なりを気にする女性だったようだね。旅行に来ていたとはいえマニキュアの塗り直しを欠かさなかったようだ。そんな女性が爪を割れたままにするかな?それはない。ではもがき苦しんでいる際に割れたのだろうか?それにしては奥方の身体に擦過傷は見当たらない。そう、誰かに体を拘束され、その誰かの身体に縋りつき、拘束を解こうと必死の力を込めた時に割れたのだ。それでは、その誰かとは?」
「私が」
「ノー。女の君では無理だ。そう、少なくとも一人では」