魔法の杖ボンボン
ざわざわ、ざわざわ。
星々が銀色の声で夜空をさざめかせ、冬の女王についてのゴシップを話すのをやめると、空がたちまちしぃんと平たい水面になる。その下で、雪におおわれた真っ暗やみの町の一角にある、三角屋根の杖屋の作業部屋では、こつん、と小さく音が響いた。
「寝た寝た! マスターが寝た!」
ガラス瓶に収まっていた杖のうちの一本が、辺りを見回してから外に飛び出して、テーブルに足をついた音だった。それを合図に、何十本もある杖たちがあくびをしたり、伸びをしたりしながら順番に磨きあげられた木製のテーブルへと降りてくる。
「今日も遅かったわね」
「仕方ないよ、もうすぐ杖職人の試験だもの」
「だけど、この寒さじゃ火のマテリアルを見つけるのは絶望的じゃない?」
「もう四月なのにこの雪! 春は何をしているのかな」
「なんでも季節の塔に冬のお姫様が引きこもっちゃったって話じゃない。星たちが話していたのを聞いたの」
「星の話すことなんかあてになるものですか。私は赤い目の騎士に振られたって聞いたわ」
「王様が季節を巡らせた者にはご褒美をくれるって。そうだなあ、私だったらマスターのそばにずうっといたい! 人間になりたい!」
「私だって!」
「私だって!!」
「とにかく。今は試験を受けるどの職人も同じようにマテリアルを手に入れるために必死よ。今日もマスター、遠くまで出掛けていったもの」
「私、マスター・バニラの寝顔見に行こうかなあ」
「私も、私も」
「ねえ、言いにくいんだけど…マスターまだ起きてるよ」
杖たちが隣にある自分達の主人の寝室に行こうとしたとき、その寝室からいっとう小さな杖が現れた。透き通った細い体の中で、甘いシロップがとろぉり、と揺れる。それまで笑顔だった杖たちの明るい声がぱっと止み、嫌なものを見る目付きでこの小さな杖は仲間から迎えられた。
町で評判の三角屋根の杖屋の次期跡取りであるバニラが作り上げた杖たちは皆、少女の姿をしている。まだ一人前の職人としては認められていないものの、無口で無愛想、おまけに人相まで悪い男の手によって作り出される愛くるしい杖たちは早くも魔法使いたちから人気で、すでにここにいる杖の中にも譲渡先が決まっているものもいる。その中のひとつがいつも杖たちの輪の中心にいる、キャラメルリボンだった。
「今日はなかなか寝付けないみたい…だから」
「私たちがうるさいってこと? キャンディ・ボンボン」
キャラメルリボンが首をかしげると長いくるくるの巻き毛が揺れる。その後ろで取り巻きの杖たちが腕組みをしてやたらと威圧的にキャンディ・ボンボンを見据えてくる。その見えない力に押されそうになりながらも、キャンディ・ボンボンはぐっと堪えた。マスター・バニラの手によって生まれた日から、姉妹とも言える仲間たちから優しくされたことはほとんどない。
「そんなことは言ってないけど…」
「だったらさっさと瓶のなかに戻りなさいよ」
「そうだ、そうだ」
「だけどそんな小さな足で、一人で瓶の中に入れるかなあ? 手伝ってあげようか」
くすくすとあちこちから漏れる笑い声に、ボンボンも苦笑いで返す。ボンボンはとにかく小さい。そのため、いつもマスター・バニラの首から下がる小さな小瓶の中にいるのだ。
「ねーえ、ボンボン」
目を細めたキャラメルリボンが白猫の背を撫でるような声を出す。こんなときはろくなことがないのをボンボンは身をもって知っている。
「私は一角獣のマテリアルでできてる。パーティー・ドットは世界で一番始めに落ちてきた雨の子孫だし、ブルーパールは人魚の心臓。あなたはなんだった?」
「……すみれの砂糖菓子」
蟻のような声で答えると、周りがわあっ、と笑いで溢れかえった。もうすぐ眠りに落ちそうだったマスターが隣にいるのに、とボンボンは寝室に目をやったが誰もそんなことは気にも止めない。
「そう。あなた、砂糖菓子でできていて、何かマスターの役に立てたことある?」
痛いところをつかれ、ボンボンは息を押し殺した。恥ずかしさでボンボンの体の中のシロップが赤く染まると、さらに笑い声が大きくなる。粉雪の舞い散る窓の外より、ここのほうがよっぽど居心地が悪い、とボンボンは思った。
「私はあの有名な魔法使いの先生にもらわれることになってる。百五十ロンでね。そしてマスターの名前に恥ずかしくない働きをして役に立つつもりよ。でもあなたは? 」
「いっつもマスターと一緒にいるだけ!」
批判が好きなピーチパイが声を上げた。キャラメルリボンはそれを聞いて満足そうに微笑んでいる。
「カレンダーの上では春になっているっていうのに、この寒さのせいで試験に必要な火のマテリアルが少ないこと、あなただって知っているでしょう?」
笑い者にされるのは慣れていたが、こんなふうに責め立てられるのは初めてのことで、ボンボンは何も言えなくなってしまった。体を小さくして、ただ頷くことしかできない。
「私、この前聞いたの。西の廃棄場に行けば、火のマテリアルが紛れ込んでるかもしれないって」
杖たちの中で、唯一ブルーパールだけが顔色をさっと変える。廃棄場というのは、文字通り不要になったマテリアルを集めて焼却する場所だ。
ボンボンたちマテリアルは普通ごみとしては処理されない。毎月十六日のマテリアル収集の日にひとつにまとめられ、廃棄場に連れていかれる。けれど、ボンボンたちの主人であるマスター・バニラはこれまでに一度もマテリアルを廃棄したことはない。どんなマテリアルでも大事にしている。だからこそ、ボンボンのような花の砂糖菓子の欠片でできた小さな杖が存在するのだ。
「それって…本当に?」
「間違いないと思う。この前魔法使いの先生が来たときに話していたから」
普段は取り合う気にもなれないキャラメルリボンの話だったが、ボンボンは胸に手を当て自分自身に問いかけた。毎日火のマテリアルを吹雪の中探し歩いているマスターのことを知っているからだ。風が強くなるたびマスター・バニラはボンボンの入る小瓶を温かいコートの中にしまっては、不確かでない話だけを頼りに火のマテリアルを探し続けた。
杖職人になれる試験は三年に一度。これを逃したらマスターはまた三度季節を繰り返して試験の日を待たなくてはいけない。現在の店主であるマスターの優しい父は近頃からだの調子がよくない。マスターはそれをひどく気にしている。
「ほら。もうすぐ時間だわ」
壁にかかった古いぜんまい仕掛けの時計をキャラメルリボンが眺めた。午前十二時。不要マテリアルの入った袋や箱を回収するために、町の役人の乗った幌馬車が一階にある仕事部屋のすぐ脇を通る時間だった。
「ボンボン、やめて。帰ってこられなくなるかもしれないよ!?」
気が小さく優しいブルーパールが勇気を振り絞ってみんなの前で発言する。青白い腕が震えていた。キャラメルリボンのお気に入りである彼女の発言に仲間たちは驚く。親友のブルーパールがどんな気持ちでボンボンを思ってくれているのかがわかって、ボンボンの目頭がきゅっと熱くなり、喉が絞り上げられるように苦しくなった。
けれど、これはチャンスだった。大好きなマスターの役に立てる大きな大きなチャンス。ボンボンは外を見た。毎年この時期桜舞い散る窓枠には雪がうっすら積もっている。
「行く。私、火のマテリアルを探しに行く」
強い決心を心に持って、ボンボンは言い放つ。沸き上がる杖たちの声のなかには、できるものならやってみろ、もう帰ってくるなという罵声も混じっていたため、おとなしいブルーパールがボンボンを呼ぶ声は届かずにテーブルの上へ落ちてしまう。
背の高いラッキーチャームがチョコレート・フラッフィーの肩に乗り、二本の杖が連携して窓の鍵を開ければ、きん、とした冷気が室内に入ってくる。ボンボンの体は、真冬の吐息にラッピングされ、冷えてかたまっていくようだった。
広場の方から灰色の馬を従えた馬車がやってくる音が近づいてきた。ボンボンの心がどきどき、ばくばくと激しく鳴り動く。なにしろ生まれて初めて一人だけで外の世界に出るのだ。不安や恐怖より、期待と希望のほうが大きかった。自分が見つけ出した火のマテリアルを使い、どんな杖職人にも負けない杖を作り出したマスターの姿が目に浮かぶ。
そしてとうとう、大きな車輪がわだちを作りながらゆっくりとやってきた。
今だ! と、ボンボンが思いきって馬車へと飛び写ると、後ろから歓声が上がった。その中で、やはりブルーパールがこぼした、この時計が止まっているという砂粒のような声は、誰の耳にも届かなかった。もちろん、ボンボンにも。
この仲間たちともしばらく会うことがないのだと思うと、晴れ晴れした気持ちになる。同時にブルーパールへの罪悪感が生まれたが、染みだらけの幌にしがみついたボンボンは、幌を掴み横に移動しながら、なんとか中へ入った。
薄暗いそこはすでに不要品たちでぎゅうぎゅう詰めだった。雰囲気は重々しく、誰もがうなだれているため、自らここへ飛び込んできたボンボンの存在に気づくものはいないようだ。それもそのはず、不要と言われた彼らはこれから焼却される。マテリアルのままのもの、ボンボンたち杖のようにマテリアルから加工されたほうきや水晶玉、鏡まである。主人からいらないと言われた道具の気持ちを想像してボンボンは胸を痛めたが、腰を下ろすとすぐに火のマテリアルを探し始めた。けれど、それらしいものは見つからない。極寒の中で火のマテリアルは炎を燃やし続けることができないのだ。ここは無理でも、廃棄場に着いたら出会えるかもしれない。なんと言っても、世界中から廃棄されるマテリアルが集まるのだから。
馬車が揺れる度、むき出しになったボンボンの透明な足の中でシロップが動く。マスター・バニラの名前を心の中でぎゅっと抱き締めて、ボンボンは瞳を閉じた。
がたがたという物音と一緒に、楽しげな鍵盤楽器の奏でる音楽や人々の声が聞こえる。はっとして、ボンボンは顔を上げた。いつのまにか眠ってしまっていたのだ。気づけば周りにはほとんどマテリアルの姿はない。幌の合わせ目から眩しい光が差し込んでくる。眩しさにボンボンが目を細めると、初老の男の役人が馬車に乗り込んできた。そして彼は三十三と書かれた赤いシールをボンボンの肩に貼り、さあ、出て列に並ぶんだ。こう言った。男は残りのマテリアルにも同じようにシールを貼っていく。指示された通り、ボンボンは明るい方へ進み、馬車を出た。
ここは一体どこだろう。周りを見てボンボンは固まった。赤と白のくっきりしたストライプの、広く高いテントの下には、アコーディオンを手に体を揺らすピエロ、羽根つき帽子を被った手足の長い猿がいる。バルーンアートをする少女の手のなかで、出来上がったポメラニアンのバルーンが、本物の犬になった。
たどり着いた先は想像していた廃棄場とは全く別物で、ボンボンは困惑…しなかった。それよりもわくわくした。目を輝かせ、手を胸の前で組む。まるでお祭りだ。胸を踊らせるボンボンの後ろで、ボンボンの乗ってきた幌馬車の馭者が黒のタキシードを着た男から金貨を何枚か受け取った。お腹がはち切れそうなほどの、貫禄のある男だった。馭者は金貨の枚数を数えると、すぐさま幌馬車に乗って引き返していく。
ふわふわで、淡いピンクと紫色をした大きなコットンキャンディを持った男の後を、ボンボンの体が勝手に追おうとしたとき、突然誰かに背中から声をかけられた。
「やけに場違いなやつがいるじゃあないか」
そこには少年の形をしたボンボンと同じくらいの大きさの小さなマテリアルが立っていた。赤いルビーの目をして、体は人間と同じなのに、手足だけが獅子の形をしている。そして、胸には五と書かれた白いシールが貼ってあった。まだ何かに加工されたわけではないようだ。
彼は心底驚いたような、信じられない、といった様子でこちらを見つめてくるが、ボンボンは彼が誰なのかさっぱりわからない。
「君、ここへ遊びにでも来たつもりなのかい?」
尋ねられてボンボンははっとした。
「まさか。ちょっとうかれちゃっただけ。いつも瓶のなかにいるから」
「だったらいいんだ。君があんなボロ馬車に途中乗車してくるおめでたいやつだと勘違いしたオレが悪かった。許してくれ」
あなたもあの馬車に? とボンボンが口を開く前に、彼はにやりとトカゲのいたずらを含んだ口元で笑う。
「ルへ・ザ・イラ。イラって呼ばれてる。アルコールのマテリアルだ」
「私はボンボン。その…すみれの花の砂糖菓子のマテリアル」
砂糖菓子だなんて、と笑われるかと思ったが、イラは機嫌よく笑っただけで、あとは何も言わなかった。ボンボンはほっとして、イラの隣を歩き始める。彼からは鼻の奥がつんとしたあとに、甘く広がる不思議な香りがした。
「それで? どうしてここに?」
イラの瞳は何もかもお見通しらしい。ボンボンはわずかにためらったが、嘘をつく理由も見つからず、イラの透き通った目を見て口を開く。
「火のマテリアルを探しに来たの」
イラは表情を変えず、黙ってそれを聞いている。
「私を作ってくれた大切なマスターの受ける試験にどうしても必要で」
周りにいるたくさんのマテリアルを眺めながらボンボンは少し、不安になってきた。世界中から集められてきたとあって、ここには見たことのない数と種類のマテリアルがいる。賑やかな雰囲気に、彼らの表情も多少和らいでいるようだった。けれど、見渡す限り、ここにも火のマテリアルはいない。火のマテリアルは体をごうごうと火柱で燃やしているから、いればすぐにわかるのだ。
「マスターは砂糖菓子のかけらだった私に命をくれた人。私、少しでも役にたち」
「こっちだ」
まだ話の途中だったボンボンの腕を、イラの手が掴んでリンゴの絵が書いてある木箱の影へ引っ張り込む。ふにふにと柔らかな肉球だった。
「なに、突然」
「本っ当に、何もわかってないな」
と、イラは若干責めるような口調をボンボンへ向ける。何もわからないことさえわからないボンボンのシロップに、はてなの形をしたマークがたくさん浮かんだ。
「いいか。君はまだ勘違いしているようだが、ここはマテリアルの廃棄場なんかじゃない」
「えっ!?」
これにはひどくボンボンも驚いた。驚いて、体が跳ね、今度はシロップの中身がびっくりマークで埋め尽くされる。どういうことだろう、では、ここは一体? ボンボンが答えを求める前に、イラが答えを与えてくれた。真剣な面持ちで彼は声を潜める。彼の肩に貼られた五番のシールが二人を見守った。
「ここはマテリアルの違法オークション会場だ。君が乗ったのは、国が公的にやっている回収車じゃない。それを装った別の馬車ってことさ」
頭のなかが真っ白になり、うそ! と大声をあげそうになったボンボンの口をイラの手が塞ぐ。優しいにこ毛がくすぐったかったが、それどころではない。イラとボンボンの前髪が触れあう距離までお互いの顔が近くなった。
「静かに。それに、残念だがここに火のマテリアルはいない。この寒さでみんな体の火が消えてしまったんだ」
イラの話をボンボンの頭が理解したとたん、ボンボンの胸の内にあった熱く強い思いが水をかけられたかのように小さくなり、消えていった。
火のマテリアルがいない。それならマスターの試験はどうしたらいいのか。あと三年また待てばいいのか。その間に、マスターの父親になにかあったら? もし、ずっと、冬のままだったら? ボンボンは体の中にあるすべてが蒸発して消えていくような心地がした。
「君はここから今すぐにでも逃げ出すべきだ、ボンボン。でなきゃオークションで魔法使いか道具屋に高値で競り落とされて、一生マスターに会えなくなるぜ」
追い打ちをかけられて、ますますボンボンはどうしていいかわからなくなった。甘いシロップに灰色の苦い混沌が溶けていく。
何も持たないまま、あの場所に戻れるだろうか。マスターには迷惑だけをかけてしまうことになるかもしれない。
「オレが家まで送り届ける。だから心配するな」
イラはまるで真夜中のホットミルクのように笑う。獅子の手がボンボンから離れた。
イラの言葉、声、まなざし。そのすべてをボンボンはなぜかすべて信用することができた。なぜだろう、初めて会ったはずなのにとても安心する。イラを見つめたまま、ボンボンが無言で頷くと、彼は目を細めた。
「そこ! 何をしている、早く列に戻れ!」
いきなり、怒りをにじませた声が降ってくる。ボンボンとイラがはっとして顔を上げた。そこには、白く塗りたくられた顔に星や月のペイントを施し、オレンジ色の髪をしたピエロが眉間に皺を寄せ、立っていた。悪魔のような恐ろしい形相にボンボンはひっ、と短く声を発したあと、動けなくなる。怖いのに、つり上がり、血走った目から視線をそらせない。
「この子が急に気分が悪くなったんだ。馬車に揺られ過ぎたせいかな。申しわけないね。すぐに行くさ」
イラが答えると、屈めていた腰をすっと戻し、ふんと鼻を鳴らしたピエロはそのまま行ってしまった。
「平気か?」
「怖かった……悪魔みたいだった」
「悪魔はあんなものじゃない。さ、行こう。列の途中でも抜けられる場所が必ずあるはずだ。タイミングをうかがおう」
うん、うんと二度頷くと、ボンボンはイラと手を繋いで立ち上がる。少し先ではマテリアルたちが一列に並んでいて、それらを何人かの人間や魔法使いたちが眺めているという、不思議な光景が広がっていた。
「オークションにかけられる前に品定めしてる連中さ。どうせ金を払って裏まで来たんだろうな。ご苦労なことだ」
ボンボンが彗星のマテリアルの後ろについたとき、イラがそっとささやいた。人間たちは姿形もさまざまなマテリアルたちを上から下までなめるように見回している。
ふと、その中の一人とボンボンの目がぱちりと合う。背の高い銀髪の青年はボンボンを見ると、持っていたペンを手から落っことした。
「始まったぞ」
うわあああ、と会場全体を包み込むような大きな歓声と地が割れるような拍手が起こり、そこにいたどのマテリアルたちもそちらに顔を向けた。
あそこに行けば、もうマスターに会えなくなる。その場所が近いことを肌で感じ、ボンボンはごくりと唾を飲み込む。ここにいる人間はマテリアルを欲している。人間たちの方をもう一度向くと、そこにあの青年の姿はなかった。
番号をふられたマテリアルたちはどんどん前へ進み、とうとうボンボンは机に座った鑑定士の前までやって来た。机の上には冊子と、色分けされた四種類のスタンプが置いてある。イラとはオークションが始まってから一言も口を利いていない。列の途中から警備員に囲われたこともあり、逃げられるような場所をボンボンは探すことができなかった。雪のようにまっさらな白衣を着た鑑定士の女が、ボンボンを見た瞬間、顔をこわばらせる。こんなろくでもないマテリアルがいるなんて、さぞかし驚いたことだろうとボンボンは自虐的になった。
「……信じられない、生きているうちにあなたと会えるなんて」
「ええと…それは、その……ありがとう」
物質はなんでも魔法のマテリアルになり得るんだと話してくれたマスターの横顔を思い出してボンボンは肩をすくめた。他のマテリアルからは程度を低くみられる花の砂糖菓子のボンボンであったが、それでも自分のことを嫌だとか、最低だとか、そういうふうには捉えたことはなかった。
自分は、あのマスター・バニラが作ってくれた、最高の杖だ。他の誰がなんと言ったって、ボンボンの中で、それは揺るぎのない真実だった。
「名前はもうもらっているの?」
「もちろん! ボンボンよ。キャンディ・ボンボン」
「どうしてあなたがこんなところにいるのか不思議だわ、キャンディ・ボンボン」
鑑定士は何かをさらさらと冊子に書き込んだあと、スタンプの中からひとつを選ぶとそこにポン、と押した。それを近くの男に手渡す。
気づけば、もう次はボンボンの番だった。会場の雰囲気がさっきより近い場所で感じられる。紅の幕で遮られた向こう側、彗星のマテリアルは二十ロンから始まり、五十、七十、七十五、八十まで声が上がっている。そうして、八十ロンで競り落とされた。
どうしよう。ボンボンは不安で爆発しそうな胸を押さえ、後ろへ振り返った。けれど、そこにいたのは鉄製の鍋で、イラはいなかった。
「次は……大変珍しいマテリアルです。杖に加工されておりますが、このマテリアルをご紹介できるのはダンデライオンオークション始まってのこと。紳士淑女のみなさま、準備はよろしいですか」
会場を取り仕切る男が解説すると、場がしん、と静まり返る。珍しいマテリアルとは誰のことだろう、おそらくは何かの手違いだとボンボンが近くにいた人間に抗議しようとしたところ、その人間がボンボンの体を持ち上げた。そして、太陽のように強い照明の光をぶつけられたボンボンは、眩しさに思わず腕で目をおおう。
「おそらくは三百年に一度の逸品、もう出会えることはないかもしれません! 『神さまの涙』!!」
会場からどよめきが起きた。光に慣れてきたボンボンが腕を離すと、目の前には百人ほどの正装した魔法使いや人間がずらりと椅子に座り、並んでいる。その全員の目玉が、台の上に座り込むボンボンに注目している。
「あの、私そんなんじゃなくて、ただのすみれの花の砂糖菓子…」
すぐ横にいたお腹のはち切れそうな司会の男に話しかけたが、すぐに会場からボンボンを競り落とそうとするものすごい数の声が上がった。
「二百!」
「五百!」
「千、千だ!」
取って食われそうな勢いに圧倒されて、ボンボンは足がすくむ。膝から下に感覚がない。値段はどんどん引き上げられていく。
高値で競り落とされて、一生マスターに会えないぜ。イラの声がふっとボンボンの頭のなかでよみがえった。
キャンディ・ボンボンはただの砂糖菓子ではなかったのか。だから、いつもマスターは首からドラゴンのひもで下げて、寝るとき以外は離さなかったのか。そして、それを初めからルヘ・ザ・イラは知っていたのか。
飛び交う数字の中心で、ボンボンは初めて自分に疑問を持った。私は一体、何者なのか、と。
「八千!!」
開始当初はたくさんの声でぽんぽんと上がっていった金額が、徐々に声を上げる者が少なくなり、じわじわと高額になっていく。もう誰も手が上がらないだろう、と司会の男がボンボンに八千ロンの価値をつけようとしたとき、会場の右端から指の長い白い手が、すっと上がった。
「一億」
それは、先程ボンボンを見てペンを落とした男だった。
「一億が出ました!」
青年の外見からはおよそ釣り合わない額に周りがざわついた。銀髪の青年は台の上にいるボンボンを見ると、薄いくちびるで笑う。
いまだにボンボンは自分が一億ロンと同等の存在であるのか信じられなかった。けれど、自分自身がその値段ではないことをボンボンはわかっていた。
マスターからもらった命。命や価値に値段はつけられない。大切なのは自分が自分であること。そして、キャンディ・ボンボンは、マスター・バニラ以外、誰のものにもならない、と、胸に当てた手の下で心が答えを出したのだ。
ボンボンのなかに、再び強く熱い思いがよみがえってくる。ぐんぐんとわき上がるちからで、三十三番のシールをびっ、と剥がした。
「あとはよろしいですか? それでは、『神さまの涙』一億で」
落札、と司会の男は続けられなかった。突然、男の後ろからごうっ、と火の手が上がる。それも一瞬のうちに、かなり強さのある火のかたまりが、舞台上の幕を覆った。
「か、火事だ!」
客席から悲鳴が上がり、ばたばたと椅子が倒れた。オークションを楽しんでいた人間や魔法使いは、慌てて出口へと詰めかける。会場はたちまた蜂の巣をつついたような大騒ぎで、もうオークションどころではない。
近くにいるだけでも溶けてしまいそうな火の力に、キャンディ・ボンボンはさっきとは違う恐怖を感じた。
「ボンボン、こっちだ!」
混乱のなかでイラに名前を呼ばれ、ボンボンもまた、彼の名前を呼び、目を見張る。呼吸をすることさえ一瞬忘れてしまった。そこにいたのは、獅子の両手足手から、燃え盛る炎をまとったイラの姿。それはどこからどう見ても、火のマテリアルだった。
「来い!」
イラが手を振れば、また火が新たに燃え移る。紅の幕が、さらに強い紅に塗り替えられていく。
あれほど探し求めていたものが、こんなに近くにいただなんて。
とにかく今は逃げ出すことが先決だ。ボンボンは強く頷くと、台の上から飛び降りた。
「こら、待て、一億ロン!」
それに気づいた司会者がボンボンを慌てて捕まえようとするが、その前にさっとイラが立ちはだかる。
「気安く触ってくれるなよ。人間ごときが」
聞いたこともないイラの地を這うような低い声。ぴんと張った背中にある、誰にも曲げられない信念が軸になった背骨。ボンボンはあまりの熱さにくらくらしてきて、額をぬぐおうとすると、手の甲と額がぺたり、とくっついた。
「おっ、おまえ、まさか……『地獄のかまど』…!? 五番はただのアルコールのマテリアルじゃあ…!?」
司会者は鑑定士から渡された紙とイラを何度も見比べる。その紙をイラの指が弾いた炎があっという間に黒い煤にしてしまった。
「ここにはろくな鑑定士がいないようだな。ま、神の涙がわかっただけでも上出来か」
「は、離して!」
イラと司会者が話している間に、ボンボンの体が男の手に掴まれた。小さな体をぐっと握られて、ボンボンは身動きがとれない。彼は一億ロンでボンボンを手にいれようとした青年だった。ぎらぎらした欲望に濡れる瞳のなかに炎が映り込む。
「離すもんか。やっと見つけた『神さまの涙』だ。何がなんでも持ち帰るぞ」
「いやだ、私の主はマスター・バニラだけなんだから!」
汗ばむ青年の手のなかでボンボンはありったけの力を出して身をよじった。それでも青年の指はびくともしない。
ここまでか。もう、マスターの首から下げる小瓶に入ることはないのか、とボンボンがすべてを諦めそうになったとき、青年の髪を火が覆った。
「ボンボンに触るな!」
イラの炎に頭を燃やされそうになった青年と、それを目の当たりにした司会者の二人は、発狂しながら一目散に会場を飛び出していく。気がつけばあたりは一面火の海になり、ボンボンの体にも変化が現れはじめていた。
「早く! 逃げるぞ!」
イラもボンボンの異変に気がついたのか、急いで舞台の裾へと走り出した。ボンボンもあとに続く。後ろからがらがらと天井が崩れる音が聞こえたが、ボンボンは振り返りもせず、ただ、火のなかでひたすら、イラの背を追った。
ボンボンにはイラに聞きたいことがたくさんあった。それよりも、頼みたいことが一番あった。けれど、聞いてくれるだろうか。イラはずっと火のマテリアルであることを隠していたのだから。
呼気が白い粒子になるほど冷えた白銀の外に飛び出すと、ボンボンたちとは反対の方向で人間や魔法使いたちが大騒ぎをしていた。テントは火に囲われ、すぐにでも崩れ落ちそうだ。雪の上をマテリアルや道具たちが散り散りに逃げていく。ボンボンたちもその中のひとつだった。
「体は?」
火柱をあげながらイラがボンボンを気遣い、手を伸ばそうとしたが、すぐにその手を引っ込めて距離をとる。
「もう平気。冷気でまた固まってきたみたい」
なんとか本格的に溶け出す寸前で脱出できて、最悪の事態は免れた。二人は目を合わせる。お互いになにかを話したかったが、まだこのときはなにも言い出せなかった。
東から空の色が少しずつ変わっていく。そこは穏やかな海で、新しいすべての始まりでもある。夜と朝の境目を、金色の飛び魚が群れをなして飛んでいった。たまに背びれが星をはじいて流れ星になる。星が飛び散る音を聞きながら、二人は静かに歩き始めた。
「私がすみれの花の砂糖菓子じゃないってこと…知ってたの?」
「…ああ」
「なんで?」
「なんでって…そりゃあ、同じ空から落ちてきたマテリアルだ、すぐにわかる。それに、君とは上にいたとき会ってる。けど、君はオレを覚えてないんだろう?」
「……ごめん。まだ私自分がそんなマテリアルだって理解できないの」
「いいさ。こうしてまた会えたんだから」
さく、さく、さくと二人の足音が響いて、雪の地面には小さな足跡と、、土の色が現れた獣の足跡が残った。
「火のマテリアルだって黙ってて悪かった」
「ううん」
「元々あそこには仲間を助けに行くつもりだった。どんな環境にも負けないオレの火があれば、仲間たちの火を取り戻すことができる」
「……けど、いなかった」
「そうだ」
どんなに頭のなかの記憶をひっくり返しても、ボンボンにはマスターの部屋で生まれたときの記憶から、その向こうの記憶はなかった。空にいるとき、自分はイラとどんな話をしていたのだろう。ボンボンは腕や足のなかで透けて揺れるシロップを眺めた。
「あの……イラ、お願いがあるの。さっきもここに来た目的を話したけど、マスター・バニラのためにどうか力を」
意を決してボンボンがイラに頼みごとをしている最中、どさり、と後でなにかが倒れた。倒れるものなど、ひとつしかない。ボンボンは立ち止まり、急いで後ろを向く。
「イラ!!」
体に火をまとわせたまま、雪のなかで倒れているイラを見つけて、ボンボンは駆け寄った。
「どうしたの、どこかおかしいの?」
「久しぶりに火をつかったせいだ…情けないな」
「情けなくなんかないよ、イラは私を助けてくれたのに」
「スター」
「え?」
「本当のオレの名前」
アルコールのマテリアル、ルヘ・ザ・イラではなく、火のマテリアルであるスターは顔をゆっくりと上げる。幸福の色をした朝陽がスターの顔を照らしていく。
「君がくれたんだ、ボンボン。オレの炎が星みたいだって」
心の底から、魂の奥から嬉しそうに話すスターに、ボンボンは体全体が締め付けられるような思いがした。何も思い出せないことがただひたすら申し訳なくて、胸がみしみしと張り裂けそうだ。
ふと、火事になったオークション会場の方へ目をやると、こちらへ誰かがやってくるのが見えた。見間違いであればいいと、ボンボンは黒い影をじっと見つめる。それは確かに、人間の形をしていた。
「いたぞ、見つけた! あいつだ、あいつが燃やしたんだ!」
二人を捕まえてやろうと躍起になる声に、ボンボンは震え上がる。それも一人じゃあない、何人もだ。
「どうしよう、誰かがこっちに来る」
「オレは置いていけ。足がおかしい」
見ると、スターの足はぴくりとも動かない。そうするべきだ、と彼は当たり前のように言うが、そんなことをできるはずがなかった。彼はボンボンを助けてくれた。今度は自分がスターを守るのだ、という強く熱い思いが、ボンボンのなかを駆け巡る。
「家まで送ってやるなんて、大口叩いたのに悪いな……って、おい…何をする、離すんだ、離せ!」
キャンディの手でスターの腕を掴んで、ボンボンは火の体を支えた。どろり、と今度こそ体が溶けていくのがわかった。スターは必死にボンボンの手を払いのけようとしたが、そんな力さえもうないらしい。溶けたキャンディがぽたぽたと雪の上に滴り落ちていく。このままでは溶けてなくなってしまうかもしれないとわかっていても、ボンボンはスターの腕を離せなかった。
「やめてくれ、君が、君がなくなってしまう!」
スターの悲痛な声が遠くなっていくのがわかった。赤に焼かれた空を目の前に、ボンボンは一歩、一歩と前へ進む。スターの熱で、体のなかのシロップがぐらぐらと沸騰して暴れ出す。
役に立ちたい。スターには断られるかもしれないが、ボンボンは今、少しの可能性を持っていた。マスター・バニラが喜んでくれるならなんだってしたかった。マスター・バニラには、いつも幸せでいてほしいのだ。
「ボンボン!!」
スターを支えていたボンボンの腕がとうとう変形し、ぱきんと折れ、冷たい雪の上に落ちて沈む。体のなかからシロップがあふれ出て、雪を一気に溶かす。すると、そこだけが花が咲き、緑が萌え春になった。けれどそれも一時のことだった。すぐに花は枯れて緑はしなびる。
スターが泣いているのがわかって、ボンボンは平気だよ、マイ・フェイバリット・スターと言ったのだが、全く声にならなかった。体が白い海原に沈むのは、心地がいい。暖かくて、少しかたくて柔らかい。ここから自分は生まれたのだ、とボンボンは目を閉じて微笑んだ。
「……おい。離せ。人間が触っていいものじゃない」
二人のもとへ一番にやって来た男をスターはにらみつけた。体から出る炎がごうっ、と勢いを増す。それでも男は溶けたボンボンとスターを片手づつ素手のてのひらに乗せると、空っぽになって固まったキャンディの様子を無表情のままうかがった。
「オレの炎が平気なのか?」
そんなことあるはずがない、とスターは目の前の真実を疑った。それでも男はやはり全くの無表情で、笑いも怒りもせず、スターを雪の上にそっと戻す。
「仕事上、火のマテリアルを扱うことがある」
黒いロングコートのポケットから出した木製の杖を振り、男が呟く。
「光とまやかし」
すると、三人を半透明な薄い幕が覆い、小さな二つの足跡が雪の上に現れて、雪原の向こうまで走っていった。それをオークション会場にいた人間や、司会者、一億ロンの青年が三人の脇を通り抜けて追いかけていく。スターはそれを見守った。
「魔法使いか」
「いいや」
男は雪の中から折れたボンボンの腕を拾う。小さなガラス細工のようだった。それらを取り出した薄紅色のしっかりとアイロンがかけられた、刺繍入りのハンカチの上に丁寧に置く。胸元から細い紐に結ばれた小瓶がぶら下がっていた。スターははっと息を飲み、にやりと笑う。
「それなら…資格のない杖職人だろう」
「……だったらなんだ」
「ボンボンから話を聞いてる。火のマテリアルがなくって困ってるってな。いや。そんなことより、ボンボンはなおるのか?」
「それはあんた次第だな」
「あんたじゃない。スターだ」
「……本名はなんだ」
「オレの名前は特別な相手にしか呼ばせない」
不満げなスターに見向きもせず、男はボンボンの体を上へ掲げ、傾けた。すると、一滴だけ残ったシロップがとろりとボンボンの内側を伝う。
「……話を聞こうじゃないか、人間」
「季節の塔の話は知ってるか」
「もちろん」
「季節を巡らせれば褒美がもらえる」
「それとオレになんの関係があるんだ?」
ボンボンの体をハンカチの上へ横たえると、それを脇に置き、男は次に火に包まれるスターの足に触れた。地獄のかまどの灼熱も花と同じように扱い、またポケットから赤い線の引かれた小さな袋を取り出す。その中身である緑色の粉を振りかけると、スターの手足からは火がたちまちしゅっと消えていった。スターは自分の手足をしげしげと眺める。
「季節を巡らせれば褒美がもらえるだろう。こいつをもとに戻すには王室にある特別なシロップが必要だ」
「季節なんかをどうやって巡らせる? 冬の姫はずいぶんと傷心してるって話じゃないか」
男は弱ったスターの膝を躊躇なくぼきん、と曲げる。突然の激痛にスターは濁音のついた声をあげたが、膝が動くのに気がついて、目を見開くと丸みのある爪先を開いたり、閉じたりした。
「あんたの火だ」
抑揚のない男の声に、スターはそれを聞き流しそうになったが、言われた意味が少しあとになって頭のなかに入ってきて、驚きのあまり、声をうわずらせた。
「おっ、おま、おまえ、まさか無理やり凍てついた塔のドアを蹴破る気じゃあないだろうな!?」
「他に方法が浮かばない」
指のはらでそうっとボンボンを撫でると、男はハンカチごとポケットのなかへしまう。その足元には小さな人形にくりぬかれた茶色い跡が残っていた。
「二度も記憶を失わせるわけにはいかない。地獄の力を貸してくれ」
男のつり上がった黒い瞳がスターを正面からとらえた。少しの間、お互いがお互いを無言で見合っていたが、根負けしたスターはばつが悪そうにため息をつく。安堵と、抵抗とが入り交じった長いため息だった。
「いいか。おまえに貸すんじゃないぜ。ボンボンに貸すんだ。ボンボンに!」
ボンボンに、と強調するスターを無視して、了承を得た男はぱちんと指を鳴らして魔法を解いた。
「おまえじゃない。バニラだ」
納得できないといった具合のスターだったが、バニラから差し出された大きな手のひらへ飛び乗った。後方から焼け焦げた煙たい香りが流れてくる。
すぐさま手から肩へとよじ登ったスターをのせて、バニラはゆっくりと歩き出した。さく、さく、さく。靴が新雪に沈み、新たな足跡が出来ていく。
太陽の光を受けてきらきらと鱗の光る飛び魚の尾びれが、残った星をぴん、と蹴る。長く、長く光の筋を引いた流れ星が二人の進む方角へと落ちていった。
(12.JAN.17)