154日目(3)
154日目(3)
「こないだのハゲが力わざ担当で、オッサンは頭と拳銃担当って事か」
銃を奪われたままの姿勢で、曽根木から視線を外さず梨乃が呟いた。
「こんな所で大人が出て来るって、結構ヤな流れだな……それも警察でもヤクザでもない、生きた人間ですらない」
「フロートに、生前の腕力はあまり関係ない。あと、高地君のこと言ってるなら、彼は知性派だよ。教養だって僕よりある」
右手に銃を構えたまま、曽根木は梨乃へ左の掌を二三度上下させる。
『膝をつけ』の合図。
「それに……君らも大人がどうとか言える立場ではないだろう」
「嫌な流れだって言っただけだ――てめえらには、つける文句もねえ」
銃口を見据えながら、ゆっくりとその場に膝をつく梨乃。
「僕ら相手には、千の文句より一の暴力か……それもある意味、潔いが」
少しでも手のブレや油断を見過ごすまいとする視線を、曽根木は受け止めて返す。
「でももう動かない方がいい……もうすぐ、動けなくなるだろうけどね」
「てめえ、何しやがった?」
曽根木の言葉に、梨乃の視線が銃口から曽根木の顔へ移る。
彼が少し顔を動かすと、眼鏡の奥の目が見えにくくなった。
「このブロックの冷却ユニットを冷凍用に切り替えた。今ここはかなり寒くなっている。2℃前後……間もなく、氷点下だ」
梨乃の両目の瞳孔がゆっくりと横に移動する。
肩や掌を微妙に揺らす。
彼女には感じる事のない温度の変化を、空気の流れで探ろうとしているかの様に。
彼女同様、自分では寒さを感じない曽根木も、顔を動かして気圧を感じようとする。
「梨乃さんも気付いてなかったか。最大出力にしてたから、音は結構出ていた筈だが」
「知らねえよ。倉庫なんていつも何かゴウゴウ鳴ってんだろ」
梨乃だけでなく、津衣菜も、その程度にしか意識していなかった。
空調の音を確かめようと津衣菜が聴覚に集中した時、別の音を拾った。
『県警署長命令だ、凶蘭会とラビリンスの構成員は乱闘行為を中止し、凶器を隊列右に投棄後、護送バス前に全員集合せよ。繰り返す、県警署長命令だ、凶蘭会とラビリンスは乱闘行為を中止し集合せよ。二分以内に従わなければ、制圧行動に移る――』
スピーカー越しの歪んだ声、複数のサイレンの音。
バイクのエンジン音や怒声の様なものもあるみたいだが、それらは溶けあって『わあんっ』という反響にしか聞こえない。
パトカーのサイレンもはっきり聞こえるのは、二、三台分程度だった。
表の騒ぎがどうなったのか、ミサキ達は優勢なのか押されているのか、倉庫の中では全く分からなくなっていた。
「君が動けないという事は、僕らだって動けなくなるって事だ。僕はそろそろこの場を収めて、迅速に撤収したいんだけど」
「それで――私がこのまま大人しく、氷詰めになるとでも思ってんのか?」
曽根木の言葉に梨乃は低い声を返すが、彼は首も動かさずに彼女の問いに答えた。
「分からない。僕の目の前で起きるのは、何もかもが分からない事ばかりだったよ……あの日からずっと」
「あの日? ゾンビになった時か」
曽根木は、一度だけ首を横に振って言った。
「もうすぐ死ぬと聞かされた時からだ」
言葉の後に眼鏡の奥で梨乃を見下ろす彼の目は、虚ろで暗かった。
彼が向けている銃口の様に。
「だから、いつだって僕はあらかじめ、何でも決めておくんだ。こんな時は、こうなった場合はこうするって、考えられる範囲で全部」
「へっ、いい心がけだよ……だから、私が向かって来たら、迷わず殺るってか」
薄く笑いながらの梨乃の問いに曽根木は答えない。
「試してみろよ、そいつの弾丸がどれだけ私に通用すんのか」
「僕がそれを知らないと思っているのか?」
笑う梨乃の視線もやはり暗く空しかった。
二人が動き始めたその瞬間、梨乃には津衣菜が、曽根木には鏡子が、背後から組み付いていた。
鏡子は両手で曽根木の手を弾倉ごと押さえ込む。
津衣菜は倒れた位置からの下半身へのタックルで、梨乃と一緒に床に転がった。
「鏡子さん?」
「待って下さい、曽根木さん……そいつには今、死に戻りされちゃ困るんです」
曽根木とあまり身長の変わらない鏡子は、彼の頭の後ろで懇願する様な声をかける。
「落とし前付けてもらわないといけないんだ」
「っだよクソが! 離せってんだ!」
床では上半身を起こした梨乃が、怒声と共に津衣菜の顔面へ拳を入れていた。
人の手で顔を殴っている様には聞こえない重すぎる打撃音が、何度も響く。
更に大きな打撃音。
津衣菜は左手で梨乃の特攻服を掴んだまま、右手のギブスを相手の顔面へ叩き込んでいた。
梨乃の上半身は、起き上がった時と逆のモーションで、背中から床に叩き付けられる。
普通の人間だったら致命傷かもしれない動きだった。
「はあ……は……」
マウントを取ったまま梨乃を見下ろす津衣菜は、右目を赤く光らせ、左目は金色に変わりかけていた。
笑い声の様な声を口から洩らすが、顔は凍りついた様な無表情で、少しも笑っていない。
更に上からギブスを振り降ろそうとした津衣菜の両肩が、下から掴まれる。
「上等だクソが!」
梨乃は目だけを津衣菜に向けて叫ぶと、引き寄せる様にして彼女の顔へ頭突きを食らわせる。
一度だけでなく、もう一度、二度。
続けて津衣菜の肩を後ろへ突き飛ばすと、身体の自由を取り戻した彼女は立ち上がる。
踵を返して、倉庫の奥の暗がりへと素早く駆け出す。
目をこらせば闇の中に、薄く密集して並ぶ棚の列が見えた。
地上とロフトとの二段構造で、その両段に棚が並んでいる。
暗がりの奥で繰り返し、何かを蹴り飛ばす様なガンガンという音が、縦横に響いた。
津衣菜は金色の目のまま、梨乃を追って走り出した。
梨乃は棚と棚の隙間から、ロフトに登り――ロフトの棚から天井の鉄骨の一つへと飛び移った。
両手でしがみつきながら片足ずつ乗せ、どうにか鉄骨の上へ登る事には成功する。
だが、そこから立ち上がるまでは出来ないでいた。
平衡感覚のない彼女は、そこで少しでもふらついたり、足の置き場が違ったりすれば、真っ逆さまだ。
闇に目を走らせ、もう少し足場を取れそうな『道』を探す。
数メートル前方に、彼女の探し物はすぐに見つかった。
鉄骨の間を伸びる、幅一メートル近いステンレス製の給排気ダクト。
梨乃は慎重に手足を動かして、鉄骨の上を這い進む。
三分以上かけて彼女はダクトに辿り着いた。
手足を全てダクト上に移して、梨乃はゆっくりと立ち上がる。
最初は中腰で、そこから足を伸ばしてすり足で、やや猫背ぎみになりながら前進を始めた。
『喚声前へ! 検挙! 検挙!』
天井近くでは、下にいた時よりもはっきりとそのスピーカボイスが聞こえた。
そして予想以上の人数で踏み鳴らされる足音。
百人以上の盾を持った機動隊員が、倉庫北側から乱闘の現場を掃き寄せている光景が、梨乃の脳裏にはすぐに浮かんだ。
かつても何度か見て来た光景、その度に自分だけは逃げ延びて、凶蘭会を延命させてきた。
彼女の心の中に、復活させたばかりの自分の組織を台無しにされた事への、怒りも悔しさもなかった。
本当は凶蘭会のビジネスが生む金にも、恐怖で作った自分の王座にも、元から何の執着も無かった。
まして動く死者となった彼女は、生者の持つあらゆる欲求に関心を持たなくなっていた。
彼女の抱く『理由』は、ただ自分の憎悪を形にする事。
彼女の魂に世界への憎悪が刻まれている限り、彼女にとって、何も終わったりはしないし何も失ったりはしないのだ。
まずは建物から出て、残った連中の指揮を取り直す。
そして、警察もラビリンスも、出来るだけの連中を倉庫内に誘い込んで――燃やしてやれ。
その後の事は、その後にうまくやれる筈だ。
殺す事と破壊する事にしか関心のない自分に、梨乃は何の疑問も抱かない。
「――ごほっ」
呼吸をしない筈の気管がふいに収縮し、口から咳が漏れた。
咳の後、首筋に不快さを伴う冷気が昇るのを感じた。
「……?」
全身の痛覚がないのに、そこだけに生を感じ、言いようのない不安を覚える。
だが彼女の視界には、目指していた壁がすぐ目の前にあった。
そこには平べったい有圧換気扇が設置され、シャッター状の蓋の奥に、止まったままのファンが見える。
梨乃は背中のホルダーから大きめのスパナを取り出す。
最初殴って壊そうと思ったが、蓋のボルトはそのスパナですぐに外せそうだった。
もっと良く確かめようと、梨乃が1メートル手前で蓋へ手を伸ばした時、彼女の横で空気が揺れた。
何だと思う暇もなく、照明機材ごと二三本のワイヤーを自分に巻き付け吊り下げた津衣菜が、横合いから梨乃に激突し大きく弾き飛ばしていた。
なるべく音を立てずに、ケーブルやワイヤー伝いによじ登って来ていた津衣菜は、4メートル向こうの配管の辺りからここへと一気に突っ込んで来たのだ。
梨乃を弾き飛ばした後、津衣菜は吊られたまま戻って、元いた配管近くのダクトに着地した。
津衣菜に飛ばされた梨乃も、そのまま落下する事はなく、天井を走るケーブル束の一つにしがみついて、そこから手近のダクトへ着地していた。
そして、立ち上がるとすぐに津衣菜めがけて突進する。
「しつっけえなあっ! 何なんだてめーはよ!」
落ちる危険も顧みない程の、地上にいる時並のダッシュ。
交わらない、高さも違うダクトへ飛び移り、そのまま駆けて津衣菜へスパナを大きく振り降ろす。
予想外の梨乃のスピードに、津衣菜は右のギプスでガードする。
だが、そのままよろけてしまった彼女は、左手でダクトを支える支柱にしがみついた。
梨乃はそれ以上津衣菜を襲う事なく、そんな彼女を尻目に壁に向かう。
ボルトの一つをスパナで捩じって緩め、次々と他のボルトも緩めて行く。
全てのボルトを緩めると、手で掴んで力ずくに引き剥がした。
そして、露わになったファンは腕力だけでもぎ取っていた。
その向こうに残っていた、通るのに邪魔そうな機械部品だけ、梨乃はスパナで殴打して壊す。
壊れ切らなかった物は、手で捻じ曲げて排除した。
その向こうにあったもう一枚の蓋を外した時、辺りに白い霧がぶわっと舞い上がる。
換気扇の向こうは常温の空間で、急激に中の冷気と混じったからだ。
そこは倉庫スペースでもない、冷蔵エリアと外壁の間にある天井裏の様な空間だった。
そこでは、さっきよりもはっきりと、警察や外の騒ぎの音が聞こえて来ていた。
梨乃がその空間の内部へ足を踏み入れた時、再び後ろから津衣菜に組み付かれ、前方へと押し倒された。
倒れる間際、梨乃は上体を捻りながら津衣菜の右肩を掴み、体勢を逆転させてしまう。
梨乃に掴まれたまま、津衣菜は背中を激しく床に叩き付けた。
霧と共に、かなり積っていた埃も舞い上がる。
津衣菜の上に回った梨乃は、右手を大きく彼女へと振る。
津衣菜も上体を大きく捻って梨乃の手を避けつつ、左手を伸ばして彼女の腕を捕らえようとする。
「てめーで何がしたいのかも分かんねえのに、向かって来る奴とか、いい加減ムカつくわ」
梨乃の右手は手首を返し、波打つ様に揺らしながら左右を往復する。
彼女が握っていたのは、さっきよりも刃の短い、やはり黒塗りのナイフ。
今度はバタフライナイフではない。
指程のサイズのプッシュダガーだった。
左右の動きから急に胴に引き寄せると、今度は肩から押し出すみたいな突き。
とすっ
二突き目が予想外に軽い音で、津衣菜の胸の中央に根本まで刺さっていた。
津衣菜は梨乃の刺突を避けていない。
彼女にとって、実際に横振りより見切りにくかったという理由もあったが、元より避ける気が殆どなかった。
「フロート相手にこんな所刺してどうするの――馬鹿なの? 死ぬの?」
津衣菜は笑みも見せず、白けきった表情で梨乃を凝視する。
しまったという焦った表情の直後、歯噛みしながら口の端を吊り上げる梨乃。
笑っている様にも見えそうだが、目を見れば明らかに激昂していると分かる。
だが、梨乃が動くより先に、津衣菜がギプスと左腕で梨乃の右腕を挟んでいた。
梨乃の右手首を内側に折り曲げて極め、右腕全体も両腕で挟み込んだまま動かない様に固定する。
本来は、この後に足も使って十字に固める技らしいが、そこまで出来る状態ではない。
「クソが、離せよ!」
梨乃は腕を極められたまま左手で津衣菜のギブスを掴み、全身で押して来た。
鉄骨や床の凹みを後ろ足で蹴って、津衣菜ごと自分を進行方向へと押し出している。
津衣菜も梨乃の前進には抵抗出来ず、そのままずるずると後方へ押されて行く。
壁際まで来た時、梨乃は津衣菜を掴みながら中腰に立ち上がる。
津衣菜は、梨乃の腕を離さないまま壁へと彼女を叩き付ける。
二人の背後にあるその壁板の向こうは、もう屋外だった。
叩きつけながら、彼女の腕への締め付けを更に強くしていく。
梨乃は自分の右腕が軋むのも構わず、すぐに津衣菜の脇腹へ膝蹴りを入れていた。
痛みはなくても、姿勢を崩して腕を解こうとする力は伝わって来る。
蹴ったり叩きつけたりしながらも、二人は組み合った状態で壁沿いに転がり続ける。
彼女達の動きがさっきよりかなり滑らかになっているのに、最初に気付いたのは梨乃だった。
津衣菜は、自分の状態を意識しているのかどうかも傍目に分からない。
金色の瞳を爛爛と光らせ、さっきからずっと無言で梨乃の右腕を嬲っている。
そんな彼女の動きも、さっきより――十数秒前と比べてさえ力強くなっていた。
梨乃が、自分達の異変の原因を知るのに時間はかからなかった。
冷気の縛りを脱した。
壁をじっと見渡す梨乃を、また津衣菜がダクトへ押し倒す。
梨乃の右手は未だに津衣菜に固められ、その手に握ったナイフは彼女の心臓を貫いたままだ。
普通の生きた人間相手なら、とっくに全てが終わっている筈だった。
普通の生きた人間なら、もっと上手く移動し、もう少し早く向こうへ行けた筈だった。
「いい加減にしろよ……てめえが誰に喧嘩を売ったのか、思い出させてやる」
ばきっという音が響いた。
梨乃ではなく津衣菜が目を見開いて自分の――二人の手元を凝視している。
次の瞬間、自分の右手首がへし折れた事も意に介さず、梨乃は津衣菜の両目を左手の指で突いていた。
津衣菜は梨乃を離さないまま、両目を閉じてしまう。
想定外の打撃で視界が奪われ、次のアクションを選べない。
「役に立ってもらうからよ、死にぞこない」
次の瞬間、折れた手首をぶるんと振りながら右腕を上げ、肘で津衣菜の目に追撃する。
そして両手で津衣菜の左手を逆に固めてしまう。
「自分で自分を壊せるのは、てめえばかりじゃねえんだよ」
津衣菜が苦しげに薄く眼を開く。
視力は失っていない様だが、何もかもがぼやけ、ぶれている。
金色の光を帯びた瞳孔が、赤に、やがて普通の色に戻る。
意識の一部を支配していた衝動も、梨乃の取った行動で萎えかけていた。
まだ現実に戻り切っていない意識は、呆然と梨乃の曲がった手首を見ている。
「おらあっ!!」
津衣菜を押さえたまま、梨乃は彼女ごと猛烈な勢いで壁の一枚へ体当たりした。
彼女の胴に膝蹴りを入れてから、再度、何度も体当たりを繰り返す。
津衣菜の腕を解くと、彼女を体重を乗せたミドルキックで壁へと蹴り出す。
更にその上から、背後の壁ごと何度も蹴りつけて、最後に体当たりした。
崩折れそうになった彼女を掴むと、再び壁へと叩き付ける。
梨乃の手が津衣菜のギプスにかかった時、津衣菜が目を大きく開いた。
「がああああっ!」
言葉にならない咆哮を発し、突如、梨乃の顔半分を左手で掴む。
その瞳孔は、さっきよりも激しい金色の光を湛えていた。
「喜べよ、この先岸梨乃さまが、もう一回てめえに飛び降りさせてやる」
慌てる様子も無く津衣菜を見返して笑う、梨乃のその瞳も金色に輝いていた。
金色の視線が交錯する中、二人分の体重を乗せて津衣菜は壁に叩き付けられる。
その時、歪んだ壁板が耳障りな金属音と共に、継ぎ目から剥がれ落ちた。
二人は掴み合ったまま、白みかけていた宙空へと投げ出されていた。




