7日目(4)
7日目(4)
7
小山の北側で、子供達のグループ一つの安否を確認。
ノルマ残りは子供と高齢者、各1グループずつとなる。
ここの子供達は大人しかった。
公園で遊んでいたが、騒々しさはない。
注意深く見てなければ見落としてしまいそうなくらい、気配がなかった。
フロートの子供達は大半がそんな感じだった。
もみじとぽぷら、稲荷神社組みたいなのは、むしろイレギュラーだったらしい。
向伏市北部に入った頃、花紀のスマホに新たな着信が入った。
千尋達からではない。
「え、高地さんですか? 今、石の台で妻木川の元橋に向かってます」
電話に出た花紀の口から、意外な名前が出た。
高地音矢。
最初の夜に強烈な印象のあった、首や手元まで刺青の入った大男。
「分かりましたー、どこ行けばいいです?」
街道へ出てしばらく歩くと、後ろから来た黒のエルグランドが、花紀たちの横に寄せて停車した。
助手席の窓が開き、高地が顔を出した。
今日は黒のキャップを目深にかぶり、その上からグリーンの迷彩柄のフードを重ねている。
つばの下から覗く目つきは前にも増して悪そうだった。
「お疲れさん。二人だけ乗って」
素っ気ない、ドスの利いた低い声。
意外な程、横柄さや威圧感は少ない口調だった。
津衣菜の初対面の時とかなり違う。
だが、4人の少女達は顔を見合わせた。
『二人だけ』と言われても、誰と誰が乗ればいいのか。
花紀も、戸惑った顔で仲間を見回している。
「鏡子と……自殺のお前」
高地が間を置かずに言った。
津衣菜が見開いた目を高地へ向けると、向こうもぎょろっと、ねめつける様な視線を返す。
「がこさん、ついにゃー、お願いできる?」
「ああ、任せとけ」
申し訳なさそうに確認する花紀へ、鏡子は快活に答えてみせる。
津衣菜も小さく頷いた。
「二人だけなの? もっと……乗れるんじゃないの」
エルグランドを見ての津衣菜の問いに、答える代わりに後部のドアが開く。
そこには3人の男が並んで座っていた。
空いている席は、2列目にちょうど二人分しかない。
「ここ数日の失踪事件って、やっぱり発現者だったんですか?」
「多分、な」
「……失踪……事件?」
速くもなく遅くもない速度で、車は街道を直進し続けている。
津衣菜が話に割り込むと、高地は呆れた顔を浮かべながら振り返った。
「何だよ、ニュースとか見てねえのかお前」
「しょうがないですよ、こいつ、意識低いから」
「――はあ?」
「突っかかんじゃねえよ、本当の事だろ。花紀にモニター借りても音楽番組とマンガしか見てねえじゃん」
「そーゆーことじゃなくてさ」
「……やめろよ、おめーら」
高地が苦笑しながら二人の喧嘩を止める。
「この2日間で小学生2人と高齢者一人が続けて行方不明となった――この向伏市内で」
運転席の男性が口を開いた。
年は30半ばから40くらいで、細身の体型に黒いスーツを着て少し跳ねた短い髪。
眼鏡をかけた顔は薄めで穏和そうに見える。
営業マンと言うよりも、コンサルタントや管理職みたいな雰囲気だった。
高地とは正反対なタイプに見え、この二人が並んで座っているのはシュールでもあった。
「その他、良く分からない通り魔みたいなのに襲われて怪我した、追いかけられたという通報も警察に多数あったという。そして――これらの事が始まったのと同時に、フロートのあるグループで、姿が見えなくなった者がいる」
「中井さんだ」
「あ……」
高地の口にした名前に、鏡子が反応した。
「彼の顔を知ってて、かつ発現者の状態が分かるのは、お前だけなんだ」
「はい。でも……『これ』は?」
鏡子は横目で津衣菜を見ながら、前列席の彼らへと尋ねる。
鏡子の言い方にはむかつきつつも、それは津衣菜も思っていた疑問だった。
高地はあの時、即座に鏡子と自分を指名した。
二人の役目が何なのか、鏡子はもちろん、津衣菜も大体分かっていた。
現場で発現者を見付けたなら、その身元と「症状の深さ」を確かめ、可能なら説得も試みる。
それならば、もう一人は、むしろ花紀が適任だったのではないか。
彼女がグループの先導を外せなかったのだとしても、美也でも、津衣菜よりは知識も経験もあった筈。
他のフロートの顔を覚えている訳でもなく、二度巡回に同行した程度の自分が選ばれる理由が、全く分からない。
「消えた彼ね、一年以上前からの古株だったんだが――」
運転席の男は再び口を開いたが一旦そこで言葉を切り、ハンドルを傾けてから続きを言った。
「自殺者だったんだ。動機は知らない」
「ああ、曽根木さんも知らないっすか。あんまり喋んねえ人だっては聞いてた」
高地が少し驚いた声を挟む。
高地は、運転席の曽根木には敬語を使う。
立場は曽根木の方が上なのだろうかと、津衣菜はぼんやり思った。
「それは正確じゃないな。あまりこっちまで出て来ないけど、彼のいたグループやその周りではコミュニケーションも取れてて、人当たりもいいと言われていた――ただ、自分のことは殆ど話さなかったんだ」
「どっかの誰かさんみてえだなあ」
「そうですよねえっ」
高地の嫌味ったらしいコメントに、鏡子もこれまた嫌味な相槌を打つ。
「私は……喋らないんじゃない……理由……を」
「お前の事だなんて言ってねえぞ。あー、忘れたんだっけか? てめえの自殺した理由をよ」
「そう……です」
「ふうん」
高地は投げやりな返事を残して、顔を前へ戻した。
曽根木がバックミラー越しに視線を津衣菜に向けながら言った。
「そんなに難しく考えなくていい。取りあえず見ておこうって事だよ。発現者がどんなものか、どう対応するものなのかを、新人が見学する。珍しい事じゃない」
中性的で優しげな声。
だが、ミラーごしの目は良く見れば、刃物の様な冷やかな光を湛えていた。
まるで『お前の明日の姿だ。良く見ておけ』と言われている様だった。
「――そんなに良くある事でしたっけ?」
どことなく含みのある声で、高地が言った。
車は国道から狭い道へ入り、しばらくゆっくり進むと、軽いブレーキ音と共に停まった。
規則正しく並ぶ街灯に照らされつつも、静まり返り人の姿は皆無だった。
向伏市から北へ10㎞の所にある石積町の中心である。
目の前に町役場の庁舎。
その奥には駅があり、道を挟んだ向かいには町で唯一の総合病院がある。
「本当に、こんな所にいるのかよ……」
無人のロータリーと歩道を眺めながら、鏡子が呟く。
「意外とね、市の中町なんかより、夜に通る人は多いんだよ。そして、見つかりにくい。うってつけなんだ」
顔を小さく左右に動かしながら、曽根木が答えた。
フロントガラスから見える光景の中に、動くものを探しているかの様に。
「フロートの発現者なら、今夜、この駅前から離れはしねえ筈だ。暗がりを重点的に当たれ……いかにも生者を引きずりこめそうな所をな」
高地が前を向いたまま、後ろの鏡子と津衣菜へ押し殺した声で囁く。
「……見つけてもな、今夜は声はかけなくていいからよ。分かるな? ダメだと思った時点で俺らに連絡回せ」
彼女達が返事するよりも先に、その更に後ろの席から声があった。
「やっぱり、戻せないんですね」
「はい、多分……すみません」
高地が答える。
3列目の席の男たちはいずれも40~50代で、顔色以外は特に変わった所のない普通のおじさん達に見えた。
姿を消した者のいたグループの人達だと、車内で説明は受けていた。
高地は彼らにも敬語を使っていた。謝ってさえいる。
むしろガラの悪い態度を見せる方が稀で、基本的にこういうキャラクターだったのかもしれないと思えるほどだ。
本職はジャーナリストで、都内の大学を卒業し新聞社に入っていた事もあるという彼の経歴――遥に初めて聞かされたときは、耳を疑った――も、幾分リアリティーを帯びて来たように感じられた。
横のスライドドアを開けて鏡子と津衣菜が、続いて前から曽根木と高地が降りた。
その後に、3列目の男たちが降りて来る。
スマホを取り出してマップを確認しながら、少女二人が言葉も交わさず出発した。
ロータリーの光の下を滑る様に、早足で通り抜けて駅舎の横の闇へと消えた。
男たちは、車の傍らで動かず待機し、連絡があったら現場へ直行する予定となっていた。
駅の周り、町役場の周り、それ以外にもいくつか存在する建物の周りという順番で、二人は探索を続けた。
早いだけでなく、気配というものを感じさせない動きだった。
曽根木の言った通り、病院や駅の夜勤者か、何人かの人間が夜道を歩くのに遭遇したが、彼らの注意を集める事もなかった。
移動しながらも、隅々の僅かな動きも見逃さない様に瞳孔の開いた目を|(文字通りに)光らせている彼女達の様子は、気を付けてみれば尋常じゃない部分が多かったにもかかわらず。
駅の周りにも、役場の周りにも、怪しい動きは見当たらなかった。
「病院は、回らないの」
「あ? 道順覚えられねえなら、マップ見ながら歩けよ自殺女」
更に外側を回ろうと角を曲がりかけた鏡子に、津衣菜がふと声をかけた。
鏡子が舌打ちしながら答える。
「病院側は後だ。先にもっと外側を回るんだろうが」
「病院を先に見た方がいい……一番先にすれば良かった」
毒づく様な鏡子の声にも、感情を見せず津衣菜は言葉を続けた。
「何、言ってんだよ」
「もしも病院の中に入り込まれたら、もっと面倒になる」
淡々と語り始めた津衣菜に、鏡子は気配を消すのも忘れて声を荒げてしまう。
「だから、何を根拠に勝手言ってるんだっての!」
「より多くの人間を食べたくてたまらないんだったら、世界を憎んでいるんだったら、苦しいんだったら、他のどこよりも病院に――命と、病と、救いと絶望の匂いが他のどこよりも濃密な、人の多いあの建物に魅かれて……」
鏡子は黙り、津衣菜の言葉に耳を傾ける。
津衣菜が言葉を切った時にぼそっと呟いた。
「自殺女だから同類が分かるか。お前、もう発現しかかってるんじゃねえの」
「匂いがする」
「……え?」
「目覚めてしまった、死にぞこなった、仲間の匂い。そして――朽ち行く匂い」
「匂いがする……? それって……おい!? 待てよ!」
鏡子が呼び止めるよりも先に、津衣菜は駆け出していた。
道を横切って、病院脇の道へ入る。
突然予定外のルートを取った彼女らに、驚いている高地たち。
総合病院は4階建ての第一棟と、6階建ての第二棟が、東西1階と4階の連絡通路で繋がる造りとなっていた。
外来受付のある正面玄関や従業員用出入り口、救急車の搬送口も第一棟にある。
入院患者の病室や治療室がある第二棟に、出入用の扉はほとんどない。
二つの棟と連絡通路に囲まれたスペースは、樹木や広場のある中庭となっている。
二人は第二棟の外側を一周してから、1階連絡通路の屋根によじ登って中庭を見渡していた。
ここまで、不審な人影や動くものは全く見当たらない。
「いねえじゃん。どこだよ」
声を潜めて鏡子が咎めるが、津衣菜は無言のまま中庭を見ている。
「あっちの棟か? ありえねえ。あっちは警備も厳しいし、カメラだって……」
「しまった………入られた」
「何だって?」
「さっきまでは、間違いなく外にいた……だけど今、中から感じる」
「あたしらが探し回ってる間に入ったってのか。でも、どうやって」
中庭周りの外壁を見上げた鏡子は、思わずあっと叫んでいた。
第一棟の2階に並んだサッシ窓。
その一つが、不自然に歪んでいた。
窓の下には足場に出来そうな凹凸があり、フロートならば音も気配も立てずに登れそうな位置だった。
そして、中に誰もいなければだが、窓枠を歪めて中の鍵をこじ開けることだって出来た。
配管や壁の凹凸を伝って二人が窓の前まで行く。
ステンレス製の窓枠が大きくひしゃげ、ガラスにも白く亀裂が入っていた。
窓の鍵は、固定ねじごと弾け飛んでいた。
鏡子が、枠の曲がっていないもう片方の窓を引く。
少しレールのゆがみに引っかかったが、スムーズに開いた。
そこは診察室らしい部屋で、机や本棚、簡単の医療器具があるだけだった。
当然ながら、この時間は使われていなくて真っ暗だ。
窓を乗り越えながら、鏡子が後ろに尋ねる。
「2階に、いるのか?」
津衣菜は鏡子に続いて窓を越えながら、首を横に振った。
「いるのは1階……多分……ここから入って、降りた」
「2階に入って……降りた……」
その言葉に鏡子の動きが止まった。
彼女はしばらく立ち止まったまま、自分の足元を無表情に見下ろす。
集中して何かを考え込んでいる様にも見えた。
だが、それも2・3秒のことで、すぐに顔を上げる。
「何?」
「まあいいや。行くよ」
鏡子は津衣菜の問いをはぐらかすと、早足で奥のドアへと向かう。
診察室から廊下へ出て、奥にあった階段までは鏡子が前を歩いた。
階段からは、病院へ駈け込んで来た時と同じく、津衣菜が前になった。
津衣菜は、ふとそれを不思議に思った。
この先に同類がいる、その匂いを感じたのは確かだ。
しかし、それがどんな感覚なのか具体的に説明する事は出来ない。
何を根拠にそれを正しいと思うのかも、他人には説明出来ない。
そして、鏡子は、自分の言葉なんかを無条件に信じてくれる相手ではない。
にもかかわらず、彼女は時折口を挟みながらも、ここまでついて来た。
津衣菜を完全に信じているわけではなくとも、『同類の匂いを感じる』という言葉は否定していないみたいに。
津衣菜にとって、階段を降りるという動作は、未だ苦手なものだった。
降りた後に重心移動のくせが残り、平らな所を普通に進む事が出来なくなる。
背後の鏡子を見ると、彼女もそうだった。
引きずる様な足取りで、二人は1階の廊下を進む。
2階も1階も、このあたりの廊下は非常用照明が僅かに照らすばかりで、暗く静まり返っている。
もしこんなところを人に目撃されたら、彼女たちこそ人間を襲う幽霊かゾンビだと思われるのは確実だっただろう。
急に津衣菜が立ち止まり、右手で鏡子を制した。
鏡子は一瞬だけ訝しげに津衣菜を睨んだが、『何だよ』と口に出す前に耳をそばだてる。
ずず……ずずずっ……ずずず…………ずず……ずずずっ
ず…………ずずずずずずず…………ずずずずずず…………
前方の扉の中から、その引きずる音は小さいながらはっきりと聞こえた。
津衣菜が小声で鏡子に確認する。
「……どう?」
「ああ、やっぱり……二つ聞こえるな」
鏡子の答えに津衣菜も頷いた。
引きずる音は、強く、短い間隔で断続的に出ているもの。
そして、弱く長い間隔で、切れ切れに続くもの。
二つの音が別々に、時々重なって聞こえている。
短い方の音には聞きおぼえがあった。
自分も立てていた、ぎこちない足の音。
扉の向こうの何かは、彼女たちの様に足を引きずりながら、別の動かない何かを引きずって運んでいる。
足音と気配を消して、二人は扉へ接近する。
扉の上には大きめのプレートで、『霊安室』と書かれていた。
「いい場所を選んだな。死体があっても一番不自然じゃない部屋だ……動き出すまではだけど」
鏡子がプレートを見上げて呟く。
この部屋も、死体の有無に関係なく施錠されている筈だが、鍵は一目で分かるくらいに破壊されていた。
姿を見せない様に慎重に扉を開け、その横から室内を窺う。
ベッドが3つ並び、こんな小さな町の病院だというのに死体で満員だった。
ベッドで横たわっている死体に、不審な気配は全くなかった。
物音もそこからではない。
ベッドの列の奥に、ベッドごとのこぎれいな祭壇が並んでいた。
右端のベッドの祭壇の下に、もぞもぞと蠢く影がある。
はっきりと姿が見えないが、中肉中背の男性の様に見えた。
背中を見せてうずくまったまま、僅かに動いている。
その両手に、何か白いものを掴んでいた。
看護師の制服だと、二人はすぐに気付いた。
「彼」の前には壁に押し付けられた状態で、女性の看護師がぐったりとしている。
血や外傷は見えない――まだ。
良く見ると、看護師のものと思われるファイルが数冊、床に散乱している。
当直か何かで、この辺りを巡回していたのだろう。
霊安室の鍵が壊されているのを発見し、不審に思って室内に入る。
そして、ベッドに横たわっていない死体を見て、様子を確かめようと近付いてしまった――と言った所だろうか。
津衣菜はスマホの画面をなぞり、高地を呼び出そうとする。
その手をいきなり掴まれた。掴んだのは鏡子だった。
「まだ呼ぶな」
「どうして」
「やる事が、残ってる」
鏡子は短く答えてから、自分の姿を戸口に晒し、ゆっくりと室内に入る。
男の肩が一瞬震えて、僅かにこちらへと顔を向けた。
濁った様な曖昧な視線が自分へも向けられるのを、津衣菜も感じた。
どこか覚えのある視線――目覚めた直後の自分がこんな目をしていたのだと思い当たる。
「中井さん、中井さんですよね……?」
小声で短く鏡子は男へ呼びかけていた。
津衣菜は彼女の行動に少し驚いた。最初に打ち合わせた話と違う。
「さっき、声かけは必要ないって」
「そうは行かねーよ。分かっちまったからな……中井さんには、まだ知性が残っている」
そう言う津衣菜を邪魔そうに一瞥し、鏡子は答える。
「会話ができて、もし人間を食ってないと返事があれば、復帰と治療を説得できるかもしれない」
「だけど」
「うるせんだよ、自殺女!」
更に声をかけた津衣菜に、鏡子は声を荒げた。
今まで抑えていた嫌悪を解き放ったような、憎々しげな声だった。
鏡子の勢いに、思わず津衣菜も身を退く。
津衣菜を睨んでいた鏡子だったが、すぐに踵を返し、中井へと向かいながら言葉を続けた。
「発現したから、人間に手を出したからって、簡単に切り離せるかよ! あたしらはな、心臓が止まっていたって死者じゃねえ……生きる事を捨ててねえんだ!」
鏡子は更に一歩、中井へ近付いた。
動きを止めたまま、鏡子をじっと見ている中井。
「中井さん、相瀬鏡子です、戸塚山1の。分かりますか」
「う……うう……」
「中井健太さん、あなたの名前です。分かりますか……お返事、出来ますか?」
「あ……」
喉の奥から中井は声を立てた。
更に一歩、鏡子は近付く。
「そうです。中井さん、治療の準備は出来ています。残念ですがここはフロート用の病院じゃないんです。さあ、帰りましょう」
津衣菜は、早足で鏡子の後を追った。
鏡子には見えていないんだろうか。
見えていても、希望を捨てていないんだろうか。
闇に慣れた津衣菜の目には、中井の姿が鮮明に写っていた。
赤紫色に変色した頭部は倍に膨れ上がり、同じ位膨張した腕は粘液でぬらぬら光っている。
口の端は皮膚が溶けて裂け、両目はでたらめな方向にひっくり返っていた。
曲げる事を忘れた両手を掲げ、よたよたと鏡子へ迫っていた。
崩れかけた唇から、言葉にならない発声を始める。
「はむえひも よよしゃも ひゃいしゅぷぷ やいにむんげ」
「え………?」
「もおきににに うるひにょ」
何も見ていない目から粘液と共に蛆虫がぽろぽろ零れ落ちる。
どうして位置が分かるのか、中井の両手は鏡子を捕まえようとしていた。
「――だめだっ!!」
津衣菜は叫んで、キャスターベッドの1台を中井に押し出し、跳ね飛ばした。
部屋の端まで吹っ飛んで行く中井。
そのまま鏡子を掴むと部屋の入口まで引きずって走り、廊下へと転がり出る。
「くそおっ、何でだよ!」
「行くよ!」
廊下を駆けながらも鏡子は毒づく。
「どういう事だよ。どうして……2階から1階へ移動出来るのに、霊安室に隠れるなんて事だって考えられるのに」
「だめだったんだ……あれは……人を食う為だけに残った知能だったんだ」
走る二人の背後で、大きな物音が響く。
邪魔な椅子やベッドや人間の死体を廊下に投げ出しながら中井が姿を現し、津衣菜たちへ猛ダッシュした。
二人は更に速度を上げるが、すぐに追いつかれてしまう。
「自殺女!」
津衣菜が背後から覆いかぶさる様に押し倒される。
嗅覚と触覚のない津衣菜には、生者なら正気を失いそうな腐臭も粘液の感触もなかったが、視覚と聴覚だけでも十分不快極まりなかった。
だが、何よりも不快だったのは、形容できないもう一つの感覚が彼女に伝える信号だっただろう。
目の前で口を開く腐肉の塊が、紛れもない自分の同族だという認識情報。
どす黒い赤紫色のグローブが津衣菜の顔を押さえようとする。
「あああああああっ!」
津衣菜は曲がらない鉄筋入りの右腕をフルスイングして、中井の顔面を殴りつけた。
しゅっと短い音を残して中井の下顎は吹き飛び、廊下の壁で砕け散った。
「ひにしゃにちゃちゃちゃいひい」
「ああああああ! があああああ!」
上顎だけで音を立て続ける中井。
その肩に左手の爪を立てると、黄色い液体が噴き出し手や服を汚す。
津衣菜の目に宿った赤い光が強くなると共に、中井は押し離される。
「ぎゃああああああやあああ!」
人間ならあり得ない力で、片手だけで中井を引きずり、壁まで持って行くと何度も叩きつける。
顔は原形を留めない程砕け、右腕も千切れ飛ぶ。
奇声を上げながら、中井を破壊し続ける津衣菜は、傍目にどちらが化け物か分からない程だった。
ただ、津衣菜がそうしている時間は長くはなかった。
数度目で中井から手を離すと、津衣菜は鏡子に向き直って言った。
「走って! 走りながら高地さんを呼んで! まだ追って来る!」
鏡子が見ると、壁に埋もれたかに見える中井は、臓物と粘液をまき散らしながら壁からにちゃあっと離れ、再びこちらを向こうとしていた。
二人は走り出す。
廊下の奥の通用扉を開けて外へ出た時、鏡子の携帯に高地が出た。
「そのまま左へ。正面玄関に回れ」
スマホから響く低い声は、巻き舌で二人に指示を出した。
「え? 正面って……人結構いますよ!?」
「気にするな。もう見られても構わねえ。後始末は対策部にやらせとけよ」
言われるまま二人は正面玄関前へ出た。
夜勤の病院関係者や救急隊員が、様子のおかしい(うち一人はドロドロに汚れている)二人の少女を訝しげに見るが、それも数秒間の事だった。
彼女たちに続いて現れた「走る腐った肉塊」に、辺りは阿鼻叫喚と化する。
「うわ、どうすんだよ……これ」
走りながら、呆れた声で鏡子が呟く。
津衣菜は周囲の騒ぎに我関せずとばかり、ただ足を進めていた。
二人はタクシー用のロータリーを横切り、来客用駐車場へ入る。
彼女達に続いて駐車場内に足を踏み入れた中井は、次の瞬間、時速80キロのエルグランドに横からはね飛ばされていた。
中井をはねた後、車は距離を取って停まる。
中から男たちがバラバラと降りて来る。
「へっへっ、どうせならアーマゲ会長をこんな風にはねてえよなあ。いっそ、ここばっくれて東京戻ろうかね」
「まあ、その時はお好きに……随分グチャグチャだけど、これじゃ終われないね」
へらへら笑う高地と対称的に、曽根木は未だ蠢き続ける腐肉を見下ろして静かに言うと、手に持ったものを向ける。
黒く鈍く光る金属。
遠目にも、それが拳銃だと分かる。
「これだと、見た目は小さい穴でも、中で機能を完全に破壊する」
高地も銃を見た時には顔を曇らせた。
「待って下さい」
曽根木が振り返ると、後部座席の中年男性3人が静かに中井を見つめていた。
彼らの手には大きめの手斧が握られている。
「中井くんは、私たちが始末を付けます」
曽根木は彼らを一瞥すると、銃を片付る。
横に退いて、彼らへ声をかけた。
「警察も呼ばれたと思いますので、手短にお願いします」
「はい……中井くん、すまない。先に向こうで待っててくれ」
3人は、静かに中井を取り囲む。
そして、一斉に手斧を振り上げた。
「申し訳ありませんでした」
中年の男達を車から降ろした時、高地は再び謝った。
「彼と一緒だった皆さんに、こんな仕事を押しつけてしまって」
「いやいや、元々、末期発現者の始末も僕らの役目でしたからね。それに……最後は、それまで一緒にやって来た者の手でってのが一番だと思います」
「そうだ。中井くんは俺達で送り出せたんだ。他人任せにするよりは、後味だってずっといいってもんです」
「送り出す……ですか」
「死にぞこなって、送られぞこなっていたのが、本来に戻ったんですよ」
男の一人が、曽根木の一言へ頷く。
「そう思いましょう……ねえ、何で私らみたいなのが、出て来ちまうんですかね?」
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