107日目(1)
107日目(1)
この私に、あれだけ悔しい思いをさせたんだから
あなたは、キレイでいてくれないと困るわ
私みたいな可愛さなんて期待してないから
それは安心して
あなたのその美しさでいいの
持ち続けて、どうかなくさないで
「何だよそれ……雪子、お前がそんなものやってたって言うのか」
鏡子はスマホの画面に残る雪子のコメントだけを見ていた。
その咎める様な問いにも、雪子は彼女を一瞥したきり答えない。
「待てよ。だってお前、そんなものに溺れたりなんて弱い生き死にする奴じゃ……」
『何も分からないなら、黙っていなさい』
「なっ!? 雪子っ……!」
『私の履いた靴を知らないくせに、私の歩いた道を語ろうとするな』
一対と一つの赤く光る眼が交錯する。
雪子へ詰め寄ろうとする鏡子。
その時、津衣菜が二人の間に割って入った。
「雪子は正論だろ。これで二対一。どうする?」
「この……っ」
「行き過ぎた詮索しないのも、ここのルール……『三人で仲良く帰る』が、一番だと思うけど」
睨み返して来る鏡子へそう言いながら、津衣菜は横目で、橋の下でふらふらしたままの紗枝子を見下ろす。
雪子が無言で、そんな津衣菜をじっと見つめていた。
彼女の視線に気付いて、津衣菜はかぶりを振って答える。
「知ってるってだけだ……別に友達じゃない」
鏡子と雪子とで何事もなく山へ一旦帰ってから、津衣菜は再びさっきの橋へと足を運ぶ。
空はかなり白く明けていた。
時刻を確認すると、およそ五時半くらいだった。
橋の下で、紗枝子はうつ伏せに倒れていた。
津衣菜は音を立てない様に彼女へと近付く。
彼女の顔色は白く、コートも顔も砂埃で汚れていた。
しかし、口からは規則正しい呼吸音が聞こえる。
胸は上下しているのが見えた。
本当にこのままでも大丈夫なのか知らないが、呼吸しているなら、それ以上何もする気はない。
六時を少し回った頃、彼女はもぞもぞと起き上がる。
引きずる様な足取りで、移動を始めた彼女は『まるで、起き上がりたてのフロートみたい』。
橋の上から彼女を見ていた津衣菜には、そう思えた。
自分の家に辿り着くと紗枝子は、三十分も経たずに制服姿で出て来た。
さっきまでの、ヨレヨレの薄汚れた姿が嘘の様に、髪も顔も小奇麗に整えられていた。
――顔色と、いまいち焦点の合わない目だけは変わらなかった。
そろそろ離れようかと迷いつつ、津衣菜は彼女の尾行を続ける。
最後に会ってから三ヶ月以上。
生前にはロクに話した事もなかった、『あの学校のクラスメート』だ。
津衣菜の正体に薄々勘付いたら、一目散に逃げ出した程度の奴だ。
この三ヶ月間で、彼女に何があったかなんて知る由もない。
「あれで……学校なんて通えるのか、あの子」
津衣菜が彼女を追った理由なんて、この呟きが全てだった。
学校のシステムを、この地方都市の暗黙のルールを、はっきりと敵に回して。
あんな脱法ハーブ漬けの身体で、普通の登下校なんて出来るのか。
単純に疑問に思ったのだ。
津衣菜の見ている中、紗枝子は一人、何事もなく通学路を歩いて行く。
当たり前だが、『全てを敵に回している』からと言って、通学路で生徒や誰かに襲われたりなんて事がそうそうある訳もない。
何かが起きるとなれば、それは学校の中や、当事者しかいない閉鎖空間の中だ。
それを予感させるに十分な量の瘴気は、既に彼女の周囲に濃く立ち込めていた。
彼女が発しているわけではない。
彼女とすれ違う、追い越す、立ち止まって見ている人の視線。
そこから、水の中を這う墨の様に、黒い何かが彼女に絡みつく。
紗枝子は当たり前の様に、何事もないかの様に、悪意の中を歩いて行く。
この中を毎日歩くのなら、ドラッグの一つや二つないとやって行けないかもしれない。
津衣菜もその点では納得する。
「何だろう…………私が……ダメだ、これ」
学校まであと百メートルくらいの距離。
音を上げたのは、紗枝子ではなく津衣菜の方だった。
津衣菜の記憶にもある道だが、彼女はそれ以上学校へ近付く事が出来ない。
紗枝子の周りに漂う瘴気のせいなんかじゃない。
津衣菜が学校に近付けない原因は、津衣菜自身の中にある。
ここまで自分が、自分の生前通っていた学校を拒絶しているのは、予想外の事だった。
「死後も……二日目までは……行けたのにな……」
逃げた事からは、逃げんな。
頭の隅にそんな言葉を思い出しながら、電話する。
一分近くコール鳴らしておくと、その言葉を言った男が不機嫌そうな声で応答した。
「俺は何も知らねえな」
「そう……」
電話の向こうの高地へ、西高訴訟の生徒とドラッグについての話を何か知らないか、聞いてみた。
彼の返事は即答だった。
「まあ、この手の話がこっちまで来ねえって事は、ガキどもは結構上手く回してるって事じゃねえかな……『今んとこは』だけどな」
「知らなかったって割には、随分落ち着いているね」
「話自体はあってもおかしくねえ事だからな……おめえなら分かんだろ?」
マンションの屋上の陰に隠れていた津衣菜。
彼女は高地の問う声に、少しだけ身を乗り出して通学路に視線を落とす。
「けどよ、あいつらの中で、そういうのが蔓延してたとしたら……いや、そいつ一人だったとしても、やっぱり最後には表に出て……殲滅されるぜ。こういうのは清廉潔白イメージが大事だからよ」
「清廉潔白…………立派な方に説得力のある主張をして貰わなくちゃ……あの学校のあの有様さえ考えられない……誰のせいで彼らがそこまで追い詰められたのかも、想像出来ない……やっぱり、生ゴミの寄せ集めだよ、奴らは」
「周りに生ゴミしかいねえんなら、生ゴミを何とか動かすしかねえ時があんだよ。だから、話と関係ねえ、『一生懸命さ』だの『健全さ』だののアピールが必要になる時もある」
「……」
毒づいた津衣菜は、高地の返答に沈黙する。
口の悪さでは津衣菜といい勝負だが、その裏にある理知は比べようもなかった。
「そうやってゴミゴミ連発するおめえの口の悪さって、完全な逃げだよな。あいつらみたくゴミ相手でもやって行くってのを、引き受けられねえ事の裏返しだ。違うかよ」
「それが悪いっていうの? 彼らみたいに誰もが逃げずに立ち向かえとでも言いたいの?」
「違げえよ。だけど、高みに立って威張れる事でもねえぞ」
「私は、あんたの説教を聞きたくて電話したんじゃないんだけど」
「だけど、おめえはこの件で何か知りてえと思った。何かをしなくちゃなんねえと思った。だから俺に掛けて来た。違うかよ」
再び津衣菜は沈黙する。
「説教が嫌なら、自分できちんと話を進めろや……で、そいつがドラッグだって最初に気付いたのは、おめえじゃなくて雪子だっつったな?」
「そう。雪子は、このままだと私の様に死ぬと言った。鏡子も驚いていた」
「おお、やっと雪子と筆談するとこまで進化したかよ、おめーら」
「驚いたのはそこじゃない……オーバード-ズって事なの?」
「それも俺は知らねえな。あいつからは何も聞いていねえ」
高地のその答えに、津衣菜は質問を変えた。
「何か思った事はあったの?」
「最初にあいつを拾った時、多分芸能人とかジュニアモデルとか、そっちの世界の奴だろうと思ったけどよ……そして、そいつは当たりだった」
「雪子が……芸能人? 当たり?」
「あいつの名前で検索かければ、結構残ってるもんだぜ」
「はあ……?」
薬の心当たりを聞いたのに、高地からの答えは斜め上のものだった。
雪子を見て第一に『芸能人かモデルだ』と思ったという、彼の判断基準も謎過ぎる。
「確かにあの子も元は綺麗で、変わってもいるけど……どこからそんな予想が出た?」
「何だろうな、単に顔や服装じゃねえんだ。何となく分かったんだよ……こいつは、『誰よりも可愛い』って言われる事に、自分を全振りした奴だって」
「お前、やっぱり、そいつの家行って『洒落怖』して来い」
高地は今朝の紗枝子の様子を詳しく聞いた後、しばらく考えてから津衣菜にそう言った。
「このままじゃ訴訟の行方もかなりヤバくなる。俺の収入も台無しだ」
「何で私があんたの稼ぎに――」
「春からお前らの端末、『PHS一班に一台』でも良いか?」
「……」
津衣菜が働く筋合いとしては、反論の余地のない完璧な回答だった。
「『洒落怖』するって……具体的に何するのよ」
「ああ? ネットで末永く語り継がれそうな、恐怖体験を植え付けてやりゃいいんだよ……現実か幻覚か分からない感じにするのがポイントな」
「薬に手を出したくなくなるようにって事?」
「その辺のさじ加減は任せるわ……ますます薬にハマったり、訴訟自体辞めたくなったりしない程度にな」
「保証出来ないよ、そんなもん」
「じゃあ、それでもいいわ……治らなさそうなら、いっそ完全に潰しちまえ。訴訟に一切関わらねえ様に」
「……最低ね」
「まあ最低さ、構わねえだろ。お前も俺も正義の味方じゃねえ。立ち上がった弱者でもねえ……ただの死者だ」
津衣菜は昼過ぎまで、山には戻らず図書館で過ごした。
主に地元の新聞のバックナンバーで、『西高訴訟』の報道をチェックしていた。
新聞で取り上げられる様になったのは、津衣菜と日香里が苗海町から帰って来た直後辺りからだったらしい。
ここ数日、小さなスペースだが、連日の特集で扱われてもいた。
もっとも、『高校生が自分の学校の違法な部分を告訴した』程度の報道となっていて、西高の内部で起きていた事の詳細は、殆ど書かれていない。
新聞に目を通しながら、ネット上での訴訟の扱いもチェックする。
以前、高地に見せてもらったのと大して変化はない。
全国から集結しているのかと思う位の、『西高応援団』が訴訟生徒をネット上で袋叩きにしている。
日本でこれほどの規模の応援団を持つ高校なんて、今の向伏西高校以外にないだろうと、皮肉めいた事を思う。
そして、彼らの行動範囲はネットだけではない。
訴訟生徒の個人情報は公然と晒され、住所も特定されている。
そして、本人やその家族に『リアルで何をしたか』が競われ始めている。
津衣菜は、これによく似たものを、別の所で沢山見た覚えがあった。
別におかしくない、とても腑に落ちる話だ。
紗枝子に自分の『動物殺し』を擦り付け、彼女の吊るし上げにも加わっている下級生男子は、フロート狩り集団『光陰部隊』のメンバーでもあった。
『西高応援団』とフロート狩りは、その作られ方もメンタリティも被っている。
中の人だってやっぱり一部は被っているだろう。
高地にはああ言われたが、津衣菜はあまりその通りにするつもりはなかった。
取りあえず、今夜、紗枝子の家や彼女の夜の行動を下見しようと思っている。
下見の結果で今後の動きを考え、事と次第によっては、遥にも相談すべきだろう。
薄々と気付いていたが、高地はこの話を、遥を通さずに津衣菜へ振っている。
そんな事を考えながら、津衣菜は一旦山へ戻って来た。
寝場所にしている廃作業場へ行くと、少し離れた所からでも賑やかな声が聞こえて来ていた。
会話というより、掛け声めいた声。
「じゃあ、これはどうっすか? 姉さん」
「え、タネだよ?」
「ええええええええっ!? だって、ほら、雨っぽいレアそうなのが3枚もあって、札付きもあるのに」
「だからね、ちーちゃん、前も言ったけどきちんと揃えないと役にはならないよう……カードがレアそうとか、そういうんじゃなくて」
「あーくそ、これがムズいんだよな。あたしはやっと札の点数分かったけど、役計算しながら選ぶとかがさあ……」
花紀と千尋、鏡子が三人で花札の特訓中らしい。
「まったく……点数計算もこんなに難しいのに、この僕にこっそりズルなんて出来る訳ないだろ。雪子の奴……」
「ふふふ、ちーちゃん、花札はいかさまも奥が深いのだよ。それこそ、ちーちゃんゆっきーで協力して事前に仕込むくらいでないと」
「そんな後ろ向きな言い分じゃなくて、花紀に勝って無実を主張するんだろ?」
「勿論すよ、鏡子先輩」
「それでこそ千尋だ。がっつり雪子の奴の鼻明かしてやれ。あたしは当分ダメそうだけど!」
津衣菜は踵を返して、上の神社へ向かう。
神社も生者が通って来ていたり、社の中で休む仲間が満杯だったりするかもしれないと思った。
特に眠る気はなくて、夕方からの下見の計画をまとめておきたいと思っただけだった。
なので、津衣菜としては全然構わなかった。
生者が参拝に来ていても、距離さえ取ればバレない自信もある。
境内にも、社の中にも、フロートの少女の姿はなかった。
生者の参拝者もいない。
他の連中がどこに行ったのかは分からないが、あまり気にもならない。
社の裏へ回ろうとした時、背後からパーカーの裾を二三回引っ張られた。
「え……雪子?」
パーカーから手を離された時、津衣菜が身体の向きを変える。
車椅子に乗った雪子が津衣菜を見上げていた。
反射的に、津衣菜は自分のスマホを差し出す。
雪子は当たり前の様に、画面に指を走らせる。
『高地からきいた。あの子の所へ行くのね』
「うん……ちょっと、変なしがらみがあってね」
苦笑しながら津衣菜は答える。
正直、自分でも何で紗枝子にそんなに関わる事になったのか、あまり釈然としなかった。
というか、雪子にまで教えやがったのか、あのハゲ。
だが、雪菜の次の言葉は、更に津衣菜にとって難解なものだった。
『私も連れていってほしい。いいかしら?』
「……え?」




