7日目(1)
7日目(1)
津衣菜はショッピングモールの中にいた。
何度も円周状の通路を行き来し、エスカレーターを上り下りする。
モールを往復して、通路沿いのショップの1軒1軒に入って行く。
店内のレジは無人だった所もあるが店員がいる所もある。レジにいた店員は津衣菜が前に立っても無視するか、いきなり否定的な言葉を浴びせて来る。
お前はダメだ、間違っている、必要なものが足りない。
彼らは何の説明もなくいきなり、そんな短い言葉で津衣菜へ審判を下す。
肯定的な言葉を言ってくれる、“あなたは大丈夫だよ”と言ってくれる店員のいた店を探して、彼女はずっと歩き回っているのだ。
確かにこのモールのどこかにあった筈なのに、どこだったかも店の名前も思い出せない。
何十時間も、何度も同じ場所を、同じルートで探していた。そろそろここを立ち去るべきだと頭では分かっているが、もう一度、もう一度さっきの階を見直せば、今度は見つかる。そんな気がしてやめられない。
津衣菜は後ろを振り返って、訊いてみた。
「ねえ、花紀はどう思うかな?」
津衣菜は目を開いた。夢の中と違う、赤みがかってくすんだ視界。
真っ黒な天井が広がっている。その一画に長方形の白く光る場所があった。
屋根板の落ちた穴から、廃屋よりも高く伸びた木々が見えている。黄色がかった枝葉が、日の光を反射して輝いていた。
津衣菜の横たわっているのは、床に直接折り畳みマットを敷き、布団を被せて造った寝床だった。
津衣菜たちフロートは寒さも固い場所で寝るのも平気だし、そもそも睡眠自体を必要としていなかった。この寝床の充実ぶりは言わば、ここの“班長”の趣味だった。
向伏市南部の山中にぽつんと建っているこの廃屋は、元は小さな部品工場だったらしい。工場と言っても、民家の離れの作業場みたいなもので、近くに本宅らしき家の跡も見られたが、そこは更地となっていた。
津衣菜の枕元から2メートル辺りの所に、比較的新しめのオレンジのプラスチックケースが積まれている。“全く誰も来ない場所”と言う訳ではなさそうだった。万が一に備えて、寝床はすぐに折り畳んで、崩れかけた仕切り板の陰に放り込める様にされていた。
のんびり布団とマットを畳んで片付けると、津衣菜は廃屋の外へ出た。
木々に囲まれ落ち葉の積もった狭い庭の端で、誰かが背中を見せて佇んでいた。天然ぽい巻き毛の髪を肩まで伸ばし、白っぽいダウンコートを羽織っている。
津衣菜はその後ろ姿へ呼びかけた。
「花紀」
花紀と呼ばれた少女は、振り返って津衣菜を見た。前髪の下に少し垂れ目がちのくりくりとした大きな目――その瞳孔は津衣菜と同じく広がって少し乾いていたが。丸い頬と小ぶりな鼻、柔和な感じがして、幼さの強く残る顔立ち。
津衣菜の様にどこかにコルセットやギブスも着けてなければ、外傷も痣も見当たらない。肌の際立った青白さを除けば、なかなかフロートには見えない程だ。
「ついにゃーん、おはようでーす」
花紀は津衣菜に笑顔で挨拶する。鼻にかかった、甘ったるく能天気ないつもの彼女の声だった。
「おはよう」
挨拶を返しながら津衣菜は花紀へ近付く。花紀は嬉しそうに津衣菜へ駆け寄り、両手で抱きついて来た。自分達のリーダーの、誰かれ構わずハグする習性にも、そろそろ慣れた頃だった。
肩に顎を載せてごろごろ言っている花紀に、津衣菜はそっと尋ねた。
「寝てないの?」
ここへ来て数日になるが、彼女が眠っている所を一度も見た事がない。
確かにフロート――動く死体の死にぞこない達には、生きている人間と同じ意味での睡眠は必要ない。だが、日中無駄に動き回るのは色々とリスクも高く、日光と高温多湿を避けて休むのが一番だろうと、遥は言っていた。
見た所、多くのフロートが昼間はどこかに潜んで、眠りについている様だった。
「ううん、ちゃんと寝てるよう。花紀おねーさんはみんなより遅く寝て、早く起きてるだけです」
「そうか……」
ようやく津衣菜から身を離して花紀が答える。腑に落ちないが、そう言われたら納得するしかなかった。
だが、津衣菜の知る限り、花紀は昼間いつもこうやってどこかに佇んでいる。ここか、そうでなければ山のもっと上や林の中の少し開けた場所で。
花紀は佇みながら、じっと前を見つめていた。
そうしている時の彼女の視線の先にはいつも、山の麓の先に広がっている市街地が――かつて彼女達の暮らしていた街並みがあった。
数日前の邂逅の夜。
遥の後を子供達と一緒について、津衣菜はただただ歩き続けていた。結構長く歩いた気がする。
どこをどう通ったのかあまり覚えていなかったが、市の南側へ向かっている感じだと思った。
気付くと国道沿いを歩いていて、格子状のフェンスに囲まれた広い敷地の前に来ていた。敷地の奥には、これまた巨大な倉庫らしい建物が見えた。津衣菜のこの辺りの記憶に、こんな施設の存在はない。
一昨年完成した新しい物流施設だと、遥が解説してくれた。フェンスの歪みで出来た隙間に身体を潜り込ませながら。
敷地内に侵入すると、暗い芝生を早足で通り抜ける。
「この辺りはカメラはあるけど、普段モニターしてないから大丈夫」
倉庫裏にあたる植樹の並ぶエリアに辿り着くと、その終わりにある螺旋状のランプウェイに側壁の影から入り込んだ。車やトラックが上の階へ上る為の坂道は、照明が消え真っ暗となっていた。
4人は静かにカーブの坂を上って行く。2階で倉庫への道が分岐し、その先には煌々と照明が灯っていた。
「2階の倉庫はこの時間も人がいる。気を付けときな」
僅かながら光の照る中を一人ずつ通り抜け、再びランプウェイを上へ進む。
「なあ」
遥の背中に津衣菜は声をかける。
「何だい」
「あんた……あんたらは、本当は知っているんじゃないのか。私達は何でこんな事になったのか」
「津衣菜も結構しつこいな。さっきも言った通り、私らでも知らない事は山ほどある」
振り返らないまま肩をすくめて遥が言う。ここまでの道すがら、津衣菜は遥にこの現象の原因を知っているか訊ねていた。何故死んだ人間が死体のままで復活してしまうのか。遥は今と同じく、知らないと即答していた。
「私らだけじゃない。国の連中だってそこで躓いているのさ。そこが分からなければ、その先の事を何も決められないからね。今じゃそれを突き止めるのが、連中の研究目標になっている」
「それなら……どうして“フロート”なんて名前がつくんだ?」
津衣菜は退かずに、更に問いを突き付けた。前を歩く遥の様子に変化は見えない。
「あんたは、私達が“死から生へ浮いた”と言った。ただのポエムじゃないんだろ? 何か知っているから、そういう言い方、そういう名前が出て来たんじゃないのか?」
津衣菜の両横にいた子供達は津衣菜を見上げる。同意するのでも咎めるのでもなく、何か強く興味を持った様な顔だった。
「そして、もう一つ。さっき私にくれた薬は何だ? あれを作ったのはその研究機関か? 私達の変色や腐敗を抑えるって、仕組みも分かっていないのに作れるものじゃないよな?」
「津衣菜」
遥は歩きながら、津衣菜に顔を向ける。薄笑いを浮かべている。
「覚えておきな……この世界は、あんたが思っているよりもずっと、いい加減に動いてる。合理性や辻褄よりも妄想や憶測や結果論が重視され、根本的な解決そっちのけで目先の問題だけ片付けてく事だって、多々あるのさ」
「そんな事分かってるよ……この場合……それで“割りを食う”のは誰だ」
死んだ後まで世の中についての説教なんて聞きたくないし、だいいち、その程度の「世界の真実」など言われるまでもなく分かっている。遥に言い返したのは、そんな反発心だったが、遥の笑みは一層深くなった。
「やっぱり面白いよ、あんた」
苛立ちを感じ、一体何が面白いのか問い質そうとした時、どこからか声が響いた。
「遥さん、おかえりんごーです。戸塚山1班、南BCの巡回異状なしでしたあ」
のんびりした甘ったるい声。視線を動かすが、声の主らしき姿は見当たらない。
いや――いた。視界の感度が上がり、塗り込めた様な暗さだったランプウェイは、薄暗く浮かび上がった。その側壁の上に同年代っぽい少女が一人立っている。
少女は軽やかに側壁から跳んで、遥の目の前に着地した。
「お疲れさん。結構きつい振り分けだったのに、仕事早いね」
「私じゃなくて、みんなが早かったのです。今日は皆、いっぱい頑張ってくれたんですよう。花紀おねえさんは、ごほーびあげたい気持ちでいっぱいなんです」
わたあめみたいな巻き毛の少女は、きゃっきゃ笑いながら身振り手振り交えて遥に報告していた。これも“フロート”の仲間なのだろうか。一体何がそんなに楽しいのだろうか。
「考えとくよ」
「あ、その子……」
少女は、遥の斜め後ろで訝しげな顔をしていた津衣菜に目を止めた。
少し驚いた様子で丸っこい垂れ目を見開き、津衣菜を凝視している。津衣菜が睨むと、その表情が崩れ、にへらっという感じの笑顔になった。
「今夜は、助かったんですね。よかったですう」
彼女の声はさっきよりも間延びした甘ったるいものになった。
「結構ギリギリだったけどね。捕まえてみればショボいと言え、ああいうバカが思いつきで始める様なのには、こちらもなかなかね……後手後手に回ってしまう」
「でも……最近、多くなったですよね……そういうのが」
「“アーマゲドンクラブ”の影響力がそれだけ強まって来たのさ。ああいう連中は、奴らのワナビーから始めて、その中でも優秀だった奴が本当に奴らの仲間になる」
「ぽぷらんともみじんも無事見つかりましたけど、今までより目が離せないです……だめだよう、おねえちゃんが隠れてなさいと言った時には隠れてないと、危ないんですよう……」
「ごめんなさい……」
二人の子供――「もみじ」と「ぽぷら」というらしい――は、遥に叱られた時と同じく、頬を膨らます少女に頭を下げて謝った。
「でもー、そのおねえちゃんを見つけて、連れて来てくれたんですよね。お手柄ですよー」
再びにへらっと笑った少女に、もみじとぽぷらも表情を輝かせた。
「ああもう、あんたがそうやって甘やかすから……」
遥が呆れた声で言いながら苦笑する。
少女が再び津衣菜に目を向けた。今度は顔だけでなく、全身をチェックする様に視線が移動した。腕や足の傷、服に出来た破れ、焼け焦げに彼女の目は止まる。
「こわかった……よね」
「フロートになって二日だ。今朝までは無理に学校行ってたんだって」
少女の声にも流石に翳りが入る。彼女は顔を上げた。津衣菜の、良く見れば自分や遥よりも死人らしい、灰褐色の肌に気付いた様子だ。
こわかったよね。少女はもう一度、消えそうな声で呟いた。遥の一言だけで、津衣菜の体験した二日間がどんなものだったか、おおよその見当がついたらしい。
次の瞬間、何が起きたのか津衣菜には把握出来なかった。目の前の少女が消えた事以外は。自分が少女に抱きしめられているのだと気付くのに2秒近くを要した。
「ちょ……ちょっと」
「大丈夫……もう、こわくないよ……みんながいる……守ってあげられる……私もいるよ……」
「ったく。ほらっ、津衣菜がびっくりしてるだろ。一旦離れろ、このハグ魔」
「えへへ、津衣菜って言うんだ。花紀おねーさんと仲良くしてね。津衣菜」
実の所、花紀が津衣菜をきちんと名前で呼んだのはこの1回だけだった。その次に呼んだ時、津衣菜の呼び名は「ついにゃー」に変わっていて、以降そのままだった。
そして、花紀“お姉さん”を自称する彼女、環花紀が15歳で、津衣菜を含む班員の大半より年下だと知るのは、もう少し後の事になる。
「そんな所で何きゃあきゃあ騒いでんだ。警備員来るぞっての」
上の暗がりから低い男の声が響いた。怒っている感じはなかったが、ドスの利いた威圧感のある声。
花紀がようやく津衣菜から離れたタイミングで、男の姿が現れた。
180センチ近くあるだろうか、かなり大柄だ。坊主頭で眉は薄く、目つきに深い険がある。そしてはだけたフードジャケットから覗く首筋にも、両手の甲にもびっしりと刺青が入っていた。
「全員、集まってるのかい」
「北部から来た人達には先に集合して帰ってもらった。遠いからな」
遥に答えてから男は、その場の顔ぶれを見回す。遥、花紀、もみじとぽぷらと来て、最後に津衣菜で視線を止めた。
「ふうーん……」
津衣菜の首のコルセットを一瞥し、男はどこか冷めた様な声を立てる。
「まあいい、とりあえず動け。顔合わせやるんだろ?」
それだけ言うと、男は彼女達に背を向けて歩き出した。見た目のイメージ通りの、のっしのっしという感じの歩き方だった。あの男も、感覚がないまま、生前の歩き方のトレースを身に付けたんだろうか。津衣菜はそんな事を思った。
男が首に向けた視線と、投げやりで拒絶的でもある声にどこかひりつくものも感じていたが、気にしない事にした。
男の後について更にランプを上って行くと、ぽつぽつと唐突に誰かのいる気配が増えて来た。
一人、また一人。側壁に佇んでいる。側壁の上に座っている。螺旋の一周上からこちらを見下ろしている。エアコンの室外機が並ぶキャットウォークにたむろっている。
4階のランプ分岐点で、気配の数はピークとなった。自分達を中心にして、大勢の人間が集合していると津衣菜は感じた。闇の中から薄っすらと姿が見えている者も、今では少なくない。
「待たせたね。早速だけど、今夜のまとめから行くよ」
立ち止まって彼らを見渡し、遥が告げた。大きくはないが良く通る声だ。
「――今日の奴らは、童茅地区三か所で押さえた奴で全部。合計五名、車両一台。懸念されていた市内での別働隊は見られず。奴らへの聴取の結果、“アーマゲドンクラブ”とは直接関係ない、“くがやんズ”系のワナビーどもと判明」
だっせえ。坊主頭の大男が笑い声混じりでそう吐き捨てた。
「だけど、奴らのマップ、アーマゲのロゴ使ってませんでした?」
「そういうもんさ。本物なら、むしろあんな所にロゴ使いたがらない」
遥の報告にどこからか複数の質問が出たが、その一つ一つへ彼女は簡潔に答えて行く。
「捕えた奴らの個人データ、車両番号なんかはドライブに入れとくので、各自ヒマな時にでも見ておいて。じゃあ、次行くよ――新入りの紹介だ。今夜の狩りで奴らにタゲられてた子さ」
周囲の視線が、遥から津衣菜に移動した。このジロジロ見られ、値踏みされる感じは、津衣菜にとってあまり気分の良いものではない――というか、かなり不快だった。
仲間になるとはまだ決めてないのだが、名前くらいは名乗っておいた方が良いのだろうか。津衣菜がそんな逡巡と共に半歩前に出た時、大男がさっきと同じ低く冷たい声を響かせた。
「ちっと考えた方いいんじゃねえの。本当に大丈夫なのかよ。遥ぁ、分かってんだろ? そいつ――自殺だぞ」
「んーっ、そろそろみんな呼んで来なくちゃねーっ」
花紀は大きく伸びをしながらそう言うと、踵を返して歩き始めた。彼女に続いて歩きながら津衣菜は思う。フロートの身体に、「大きく伸びをする」意味は全くない。
にもかかわらず、花紀は生きている人間そのままに伸びをして見せているのだ。
フロートも生前の動作がくせとなって出てしまう事は、さほど珍しくない。遥や他のフロートにだって見られるし、意識してないけど自分にだって色々ある様だ。
だが、花紀はそれにしても際立ってそういうのが多かった。くせなんかじゃなく、意識してそういう動作を作っているのは明らかだった。
「まったく、どうしてみんな最近あちこちで寝るかなあ。ここにはお布団もあるのに」
寝床に布団を用意したのも花紀の案だった。曰く、「やっぱり、お布団入ると落ち着くでしょう? 寝るんだーって感じが凄いですよう」
他の班員達は、班長の良く分からない主張に反応が薄かったが、取りあえずは布団に潜って寝る様にしていた――らしい。
かつては。
巻き毛がふわふわ揺れる後ろ姿に、津衣菜は答えて言った。
「私が来たからでしょ」
花紀の足が止まった。津衣菜は彼女を追い越しながら言葉を続ける。
「ここじゃ、生きてる奴の世界と同じく……ていうかそれ以上に、忌み嫌われているみたいだからね。自殺した奴は」
「ついにゃー……」
呼ぶ声に振り返ると、花紀は何か訴えたがっている様な顔で、津衣菜を見つめていた。
「安心しなよ。私は、どこで嫌われるとか嫌われないとか、そういうのもう興味ないから」
「ついにゃー……あのね、ついにゃー、あのねっ」
「花紀」
いつになく落ち着かない声で、津衣菜に呼びかけながら近付いて来た花紀を止めて、津衣菜は自分から彼女の前に立った。
「あんたは、帰りたがってるんだろ? “向こう”へ」
そう言って、木々の間、その先に見える光景を指さした。花紀がいつも眺めている街並を。
「生きていた頃に、戻りたいの?」
「戻りたいよ、私」
津衣菜の様子に気圧されていた花紀だったが、その問いに顔を上げ、臆する事無く即答した。
「いつか戻りたい、みんなの所に帰りたい。お父さんとお母さん、主治医の先生や看護師さんたち、お見舞いに来てくれた友だちにも……病院で出来た友だちにも……好きな人にも、もう一度会いたい」
そこまで言うと花紀は慌てた様子で、両手をばたばた振りながら付け足した。
「違うの。これはね、ついにゃーやフロートのみんなといるのが嫌って事じゃないんだよっ。そうじゃなくて、あの、わかるよねっ」
「分からないね」
冷淡に返すと、津衣菜は花紀に背を向けた。おどおどした様子でいるのは花紀の方なのに、何だか自分が花紀から逃げようとしているみたいな気がしていた。
「あんな所に戻りたがっている奴の事なんて、私には理解出来ない。そして、あんたにも私の事なんて、絶対に分かりはしない」
そうだ。
私はあのビルから、不注意や何かの不可抗力で「落ちた」んじゃない。
自分の意思で床を蹴って、十数メートル下の地面へ飛び降りたんだ。
ラリってもいなければ、空を飛べると信じていた訳でもない。
明確に、望んで、『死のうとして』飛んだんだ。
私は死にたかったんだ。
それ以外に何も望んでいない。
何の期待もしていない。
ただ、終わらせたかったんだ。
男の一言で場の空気が一変した。
自分に集まっていた視線、小声のざわめきに緊張が増すのを津衣菜は感じていた。
「自殺者かよ……まいったな」
「俺は初めて見たよ。本当にいるんだな」
「どうするんだ。放っとくのだって危ないだろ」
明らかな敵意ではない。聞こえて来る声には、むしろ困惑の色が強く浮かんでいた。
だが、周囲の闇に潜んでいる者達が、津衣菜をもう「自分達の新たな仲間」として認めていない事だけは明確だった。
「自殺者がフロート化した場合、高い確率で“発現”する――か。ただの俗説だよ。因果関係も立証されちゃいないし、何の証拠も見つかっちゃいない」
津衣菜への警戒と拒絶で貼り詰めつつあった空気を斬ったのは、遥の一言だった。
「そういう俗説が証拠もなく出回っているのさ。私らフロートの間でね」
苦笑しながら遥は、傍らの津衣菜へ解説する。
その時、暗がりからやや幼い少年の声が響いた。中学生か、小学校高学年ぐらいの変わり切っていない高い声。
「根拠もなくと言いますが、以前も、その前にも、フロートになった自殺者は、一ヶ月もせず発現したじゃないですか。仕組みは分かってなくても、事例は無視出来ません。リーダー、その人はやっぱり危険です」
「無視はしないが、結果論でしかないね。それに、事例と言ってもここでは二件しかない。決めつける前に、様子を見る必要もあると思わないかい?」
別の方向から、津衣菜や花紀と同じくらいの少女の声。
「はるさん、その子が自殺だって分かっていて、ここへ連れて来たんですか」
花紀が不安げに、声のした方向を見た。
「勿論さ。私ならそんなの一目で分かる。どんな死に方しようが、起き上がってしまったならフロートだ。一度はここに連れて来るべきってのが私の考えだよ」
「……“発現”って何だ?」
津衣菜が尋ねると、遥の代わりに花紀が答えた。
いつの間にか彼女は津衣菜の隣にいて、顔を寄せて小さな声で囁いた。
「時々あるの。何ていうのかな……フロートが……死体に還っちゃう。全身が急に腐っていって……最後には動かなくなるんだけど、その前に痛くて理性がなくなっちゃって、人間も仲間も見境なく襲うように……」
「何故かね、“発現”した奴は皆、人間の肉や内臓を食べれば苦痛や腐敗が治ると思い込むんだ。勿論、それで治った事なんて一度もないけどね」
遥が、花紀の言葉を引き継いで言った。
津衣菜は遥の説明に目を見開いて、彼女を凝視する。津衣菜の言いたい事を察して遥は小さく頷いた。
「それって……」
「そう。誰もがイメージする、ホラー映画の中のゾンビそのままのザマさ」
「自殺した奴が死にぞこなったら……確実にそうなるっていうのか?」
「だから、そう決めつける根拠は今の所どこにもない……それを完璧に否定出来る根拠もだけどね」
花紀が両手で津衣菜の袖をきゅっと握っていた。
「ついにゃ……大丈夫だよ。遥さん、ちゃんとみんなを説得してくれます……花紀おねーさんもついにゃーの味方です」
これまたいつの間にか、津衣菜の呼び方が変わっている花紀。訴えかける様な目で津衣菜を見上げていた。
彼女は彼女なりに津衣菜を安心させようとしている様子だったが、津衣菜は、彼女の視線に含まれている別の色に気付いていた。
何故そんなことをしたの。理解せず一方的に責めようとする、非難と詰問の色。
「自殺なんてする様な奴は“シンク”だろうが。証拠も何も、分かり切っている」
苛立った様な男の声。年令ははっきりしないが、50歳以上の年配のものに聞こえた。
「元から魂が沈んでいる“シンク”が何かの間違いで浮かんで来たんだ。そりゃ発現だって……」
「そんな事言うなら自殺と“シンク”の因果関係を説明してくれ。あと、“シンク”の定義をいい加減に扱い過ぎだよ」
「……シンク?」
津衣菜の疑問の声に遥は答えない。めんどくさげに肩をすくめただけだった。
花紀に視線を送るが、彼女も困惑した表情を浮かべるばかりで教えてはくれない。
声は「魂が沈む」とか何とか言っていた。起き上がった死者が「フロート」と呼ばれるのと、何か関係のある言葉か。
「誰かも言ってたが“発現のリスクが高い”のなら、尚更野放しで放っとく訳にはいかないだろう? 彼女がここでの暮らしを望めばだが、とりあえず、環花紀班長の戸塚山1班に入ってもらうつもりだ――まだ、何かあるかい?」
遥は周囲を見回し、最後に大男で視線を止めた。最後の問いは殆ど彼に向けられたものだった。
「俺は、そいつを仲間じゃねえなんて言ってねえよ。大丈夫かよって、おめえに聞いただけだ」
腕を組んだまま、遥の視線を受け止めて男は答えた。
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