85日目(1)
85日目(1)
讃美歌が聞こえる。
空耳ではない。向いあった日香里の浮かべる表情が、それを物語っている。
手足を繋がれ床に転がされたまま、二人は一晩中、教会の中の音に聞き耳を立てていた。
二人がいる部屋の扉の、すぐ外に一人が交代しつつ常駐。
それ以外に、教会内に残っているのはおよそ数人。
足音や声から、末期発現者はいない様だった。
『それ』は唐突に礼拝堂から聞こえて来た。
空気が抜け、かすれ、調音も所々狂ったオルガンの音が。
「……主よ、深き淵の底より」
今流れているのは何と言う曲なのか、日香里が知っていた。
礼拝堂の奥にあったあのオルガンで、誰かが賛美歌を弾いている。一体、誰が。
小一時間ほどで演奏は止んだが、弾き手への謎は解けずじまいだった。
表が騒がしい。
昨夜に群れなして出て行ったフロート達が、戻って来た。
引きずる様な彼らの足取りからは、『狩り』が成功したのか失敗に終わったのかの判別出来ない。
「私ら、どうなんのかね……どうやら、奴らの餌になる心配はなさそうだけど」
津衣菜は呟きつつ、昨日のフロートの言葉を思い出す。
フロートは不味いし、発現者の苦痛にも効かないと。
自分が発現していて、食った事がなければ出て来ない台詞だ。
廊下をどたどたと複数の足音が響く。
足音に合わせて、朽ちかけた床は大きく軋んだ。
「おおお前、で出ろ」
扉を開けて室内に入って来た一人が、津衣菜を見下ろして言った。
どもり気味の声。薄くバラバラに乱れた髪の40~50歳位の小男。
二人がかりで津衣菜は立たされ、足錠も外されないまま引きずられて部屋を出された。
日香里は別のフロート二人と、部屋に残された。
「そそいつには……ほ他にやってももらう、こ、事が、あるある」
礼拝堂まで連れて来られた津衣菜。
昨日と同じ様に、真ん中のソファーには『王』が鎮座していた。
だが彼の手前に、昨日はなかったテーブルがある。
テーブル上には、津衣菜達が捕まった時に没収された、彼女達のスマホやタブレットが置かれていた。
「おはようさん。昨夜は良く寝れたか」
「私がフロートで良かったね。まともな睡眠環境が必要な普通の生者だったら、今の一言でキレて暴れてる」
ニヤニヤ笑いながら尋ねる『王』に、津衣菜は最高に不機嫌そうな顔で答えるが、彼は全く気にする様子もない。
「お前が生者だったら、とっくに解体されてる。これでも外からの同胞に配慮してやってるんだぜ」
「恩着せがましいお気遣いの厚遇に、表面上は感謝するわ」
何でもないかのようにフロートが人を――時にはフロート同士を、食う事を口にする。
津衣菜は軽口を返しながらも、改めて、この集団の性格と、自分の置かれている立場を思い知る。
『王』は鷹揚にテーブルを指差すと言った。
「そいつで、おめえらの頭に電話しろ」
遥はぴったり3コール目で電話に出た。
「ああ、おはよう津衣菜。昨日はよく眠れたかい」
どうしてフロート界隈のボスキャラは、どいつもこいつも、朝っぱらから不愉快なボケかます奴ばかりなんだろう。
津衣菜の内心の疑問には答えず、遥はくだけたノリで話を続ける。
「丸さんとは会えたみたいだね。あのおっちゃん、ドカジャンに長靴、似合い過ぎだと思わん? あのまま地元の漁師になってもいいんじゃないって感じするよね」
津衣菜は思わず眉を寄せて聞き返す。
「丸さんは、漁港では青いツナギ着てたけど? ドカジャン姿なんて、一度も見ていないよ」
「……本当に無事みたいで、安心したよ。丸さんは無事だ。状況は一通り聞いている」
少し間を置いて、遥がさっきよりトーンの下がった声で言った。
今の会話が本人確認みたいなものだったと、津衣菜も気付く。
「絶賛捕まり中。この電話も、そばで王様が聞いている」
「王様かい」
「王様だ」
「直訳で歌ったりするのかい?」
「……?」
「ごめん。知らないなら良い。身体でダメージ受けた所はあるかい?」
「特にない。手足を固定されて転がされているのと薬が摂れない位かな、問題は」
「薬か……じゃあ日香」
「――代われよ」
会話途中で『王』の声が割り込んだ。津衣菜は黙って彼にスマホを差し出す。
「無事は確認したな? ご覧の通り、おたくのとこのフロート二人、こっちで預かってる。どうする?」
「『どうするか』は考えどころだけどね。こっちとしちゃ、あんたと相談する必要は特に感じないんだけど。相談が必要なのは、全部あんたの方だろう?」
遥の声は津衣菜の耳にも届く。今まで余裕を崩さなかった『王』の表情が微かに揺らいだ。
「分からないなら言い直そうか。うちの子達を取り戻すのに、あんたと交渉する必要はないんだよ、こっちは」
「大した自信だな……だけど、戦争を準備してる暇はあんのかよ。日香里ちゃん、腐り始めちゃってるぜ。可哀想になあ、せっかく自分の教会に帰って来たっていうのによお」
「日香里の具合はどうだい」
「心配かよ」
「それ程は……帰って来れば、大体治せるからね」
「そこまで余裕かよ、おめえら」
『王』の表情から笑みが消えている。険しい目つきで遥の言葉に耳を傾けていた。
遥の動揺を見せない態度と、示した戦力差だけが理由ではない様だと、津衣菜は気付いた。
「……あんたらの中にもいるんじゃないか、こっちでなら治せそうなの。あんた自身も含めてね」
スマホを握る彼の手に力が入った。
「お見通しって、言いてえのか」
「見当は付くよ。あんたら、死後どれ位だい? この冬でも、長くてせいぜい、3、4ヶ月じゃないのか。そこの子でも、実はあんたらと同じ位だ。そしてもう一人は分かるね? あの“光の子”事件の時、既にフロートだったんだ」
「3年……何でそんなにもつんだよ。それが、おめえらの力だってのか」
「何もかもって程じゃない。薬は対策部が作ったものだ。こっちだって、一番には運次第さ」
「おめえらが手を下さなくとも、俺らはその対策部に皆殺しにされる。そう思ってんのかよお?」
「いいや、あんたらの大半は制圧後に多分、殺されずに連れて行かれる。その後は――死んだ方が幾分幸せかな、やっぱり。それに……あんたの言う通り、私らもそんなのを待ってる時間はない」
「奴らが来る前に、おめえらが俺らを潰しに来るって事か」
「私は王様じゃない。勿論、女王様でもない。コミュニティの全権を握ってなんかいないから、あんたとは何の約束も出来ない。勢い付いた仲間がそっちへ向かった時に、あんたらがその子たちを解放しているかどうか、どう扱っているか次第としか言えない」
「丁重におもてなししてるぜ」
「そう願うよ。あんたらの為にもね」
津衣菜達を人質に向伏のフロートと交渉出来る。そういう内容だったらしい『王』の目論見は、大方的外れな結果に終わった。
今まで知らなかった、自分達の直面している現実を知らされる形で。
『王』はしばし黙って、スマホの画面を睨み続けている。電話の向こうの遥も、彼に合わせてしばし沈黙していたが、ふいに静かな声で告げる。
「もう一度言っとく。『相談が必要』なのも『受け入れなくちゃならない』のも、全部あんたらの方なのさ。そこを引き払い、過去の痕跡を消して、やり方も一切改める。そうすれば私らだって仲間にはなれなくとも、当面の治療や隠匿は検討――」
「クソ食らえだ」
そこまで聞いた『王』は、吐き捨てる様に言って通話を切った。
「その『国の特殊部隊』とやらは、実弾も撃てねえヘタレなんだろう? お前らからそれ聞いて安心したぜ。こっちには銃だって揃ってるし、爆薬だってあんだよ!」
傍らからショットガンと、もう一つ、紙に巻かれた細い筒状の物体を『王』は掲げた。
彼は何かに気付いた様子で、礼拝堂の入口へ視線を向ける。
「おう、用意出来たか。入れよ」
満足そうな笑みを浮かべる『王』。
入口から足音が一つ、津衣菜と『王』のいる方へと近付いて来る。
津衣菜の横を日香里が通り過ぎ、彼女の一歩前で止まった。
日香里には手錠も足錠もなく、さっきとは違う服を着せられている。
襟元に白いリボンのついた臙脂色のガウン。胸にはシンプルな黒いクロス。
「教会に来たばっかりの時によ、衣裳棚ん中で見つけたんだ。ここにいた奴のだと思うと、今まで触りたくもなかったけどよう、お前のだったんだな……似合ってるぜ」
日香里は無言のままそこに立っている。
不本意ながら、津衣菜も『王』の感想には同意せざるを得なかった。
教会の祭礼の時に着ていたのだろうその服は、廃墟の片隅で、再び彼女に着られる日を待っていたかの様だった。
「さあて、ここでお前に神様っぽく、景気良いこと喋ってもらおうと思ってたけどよ、それはやめた。何か余計な事喋りそうだし、思ってねえこと無理矢理言わせても、あん時みてえな迫力は出ねえだろ」
いかにも『王様』らしく、無精髭の中でも特に伸びた顎髭を撫ぜながら、彼は日香里に命じる。
「歌え。その服も讃美歌歌う時とかのもんだろ。オルガンは俺が弾いてやる」
津衣菜も日香里も、彼の最後の言葉に驚きの表情を浮かべた。
「おかしいかよ?」
苦笑して、『王』はソファーからゆっくりと立ち上がり、オルガンへと歩いて行く。
その足取りは、かなりふらついていた。顔にも少し苦しげな色が浮かぶ。
「俺ぁよ、生前、職を転々としていたけど、オルガン弾きだった事もあんだ」
昨夜聞こえたオルガンの音は、彼が弾いていたものだったのだ。
きちんとした修理こそされていなかったが、朽ちたオルガンも良く見ると、彼が出来る限りで所々、修復を加えていたらしい。
「ここに呼ばれて弾いた事もあんだぜ。お前が生まれるずっと前、松根牧師が二十歳前のガキだった頃だがな」
日香里は、『王』に命じられるまま聖壇に立つ。いつの間にか、津衣菜の背後のがらんとしたスペースには、フロートが集まっていた。
端に寄せられる様にして、ばらばらな方向を向いた末期発現者まで固まっている。
「讃美歌だって、有名どころなら大抵弾ける。お前は何が歌える?」
「では……聖歌228番『主よ、深き淵の底より』」
「やっぱり聞いてやがったか」
演奏が始まり、日香里は歌い始めた。
荘厳な雰囲気のオルガンと、透き通る様な歌声の讃美歌。
実際には空気が抜け狂った音のオルガン、咳混じりの苦しげな声だったが、それらのノイズさえも、荒れ果てた礼拝堂にはぴったりだった。
身じろぎもせず、彼女の歌に耳を傾けている聴衆は、汚れた身なりの死者達。
歌以外は沈黙に包まれていた空間に、微かに別の声が混じる。
「う……うう……が……がみ゛ざ……ま……?」
窓際に横たわっていた、末期発現者の一人が聖壇を見てそう呻いたのだ。
「そうだ。神様だ」
一曲目の演奏を終えた『王』が呟く様に、その声に答える。
讃美歌の演奏は数曲続いた。
「祈りをさせて下さい」
最後の曲を終えた時、日香里が言った。『王』が頷くと、日香里は手元に聖書がないにもかかわらずその一節を暗誦し始める。
死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。
最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。
そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
最後の敵として、死が滅ぼされます
「……この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』」
それは、フロートのことを暗示する様でもあり、全く無関係な様でもある、奇妙な一節だった。
聖書ってそんな事も書いてあるのかという事も、津衣菜にとっては内心驚く事だったが、日香里がこんな長い一節を暗記している事もやはり驚きだった。
これ程流暢な暗誦は、彼女が日頃からこの一節を繰り返し、読み唱えているという事だろう。
「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」
そんな言葉で日香里が祈りを締め括った時、『王』はオルガンの椅子から立ち上がると怒鳴った。
「見たか、おめえら。俺らには神がついている。この教会の神の子がここにいる! この教会の生者は皆死んじまったが、俺らはあの世帰りのフロートだ。何も恐れる事なんてねえんだよ! 今日を生きる為に生者を食う。何が悪いよ!? あやつけて来た奴らぁ、こいつで蹴散らしてやれ!」
大声と共に、再び銃と爆薬を両手に掲げると、フロート達が歓声で沸き立った。
末期発現者の中からも二、三人、呻きながら聖壇の日香里と『王』に顔を向け、骨の見えかけた手を伸ばしている者がいた。
狂騒に加わっていないのは、未だに明後日の方向を向いている発現者たちと、床に転がったままの津衣菜、そして、聖壇の上で悲しげに彼らを見渡している日香里だけだった。
※日香里の祈りにて引用されている聖書の一節
新約聖書「コリントの信徒への手紙一 15:1~58」




