83日目(1)
83日目(1)
「………どう? 見える?」
「……いえ」
少し離れた場所から建物を覗き込む津衣菜と日香里。
何でこんな所に建てられたのか分からないが、とても古そうなアパートが2棟、樹木に囲まれてひっそりと朽ちていた。
見た所、普通の人間ならともかく、フロートが住むにはおあつらえ向きだったかもしれない。
だが、そういう建物にも問題はある。
二人はゆっくりとその廃墟アパートに近付いて行った。
明るくなり始めたばかりの冬の林には、濃い目の霧が立ち込めている。
間近で見ると一階部分の壁は、色とりどりのスプレーの落書きに埋め尽くされていた。
窓から覗ける室内も落書きだらけだった。精緻なペイントアートみたいなのもあれば、暴走族やギャングチームの名前がタギングされているものもある。
つい数日前に書かれたっぽいものもあれば、色あせて30年近く前の日付が書き込まれたものさえあった。
「……何か、聞こえますか?」
「……いや」
外からアパートを一周し、物音や何かの気配がないか感覚を尖らす。
中には誰もいない様だった。人間も、それ以外のものも。
「確かに今は人がいないけど……こんな所、とても拠点には出来そうにないね」
「そうですね」
津衣菜の呟きに日香里が小声で答えた。
廃墟のこの有様から、夜中にどんな人間がどれだけ徘徊しているのか、想像に難くない。
二人は静かにアパートから離れ、霧の中へと消えて行く。
岩壁上での廃墟探索は、夜明け前に早速始まった。
向伏でもフロートの行動パターンは、『夜に動き、昼は隠れて眠る』のが原則となっている。
一連の襲撃事件から見る限り、この苗海町でも、そこは同じである様に思われた。
だとすれば、夜にどこかを徘徊していたフロートや発現者が拠点に戻って来るのは、今くらいの時間帯であるだろう。
町から南へ3キロ、砂浜の途切れた所から始まっている海岸壁。
その上は樹木が生い茂る林となっていて、様々な種類の廃墟が点在していた。
津衣菜と日香里はあらかじめ用意した資料を元に、木々の間を縫ってそれらの廃墟を一軒一軒探索する予定だった。
いつ倒壊してもおかしくない木造の民家、林道から人の出入りが丸見えな立地、数人程度しか入れない小さな小屋、などを除外した候補がピックアップされていた。
候補にある中でも、建物は廃墟なのに手前に新しい車が何台も駐車されているもの、今みたいに落書きだらけの場所、などは早々に候補から外して行く。
1時間で、二人は5、6軒の廃墟を見て回っていた。
そして、探すのは廃墟だけじゃない。
「林の中でも、見かけませんね……フロートを」
日香里の声に、津衣菜は疲れた様な動きで左手を上げる。
頷く事の出来ない彼女が、昨夜初めて考え付いた代理動作だ。
鏡子もそうだが、今までは口で「うん」と言っていた。口に出す程ではない時や余裕のない時は、無視しているみたいに無反応だった。
「あんた、ちょっと神様に祈ってくれない。“どうか私達に、さっさとフロート見つけさせて下さい”って」
左手を下ろしてそう言った津衣菜に、日香里の視線が険しくなる。
「……ごめん。こういうの、なるべく控えるって言ったっけね」
視線に気付いて、彼女はすぐに謝る。
「……あなたが、すぐそういうきつい冗談を言うのって……テレビのお笑い芸人の影響ですか?」
「……え?」
気を取り直したらしく落ち着いた声で、日香里がそう尋ねて来た。
唐突な質問だったので、津衣菜は少し驚いて聞き返す。
「津衣菜さん、モニター使うと良く見ているじゃないですか。お笑いやバラエティの番組とか。だから、好きな芸人がそういう言い方するから、その影響なのかなって」
「あんたがそう言うなんて意外だね。“悪魔に取り憑かれてるから”とでも言うかと思ってたよ」
「……また」
怒ってはいない、可笑しげな声。
今度は全身で振り返る。日香里は苦笑を浮かべていた。
津衣菜は気まずげに黙り込んだまま、前へ身体の向きを戻す。
そのまま、後ろの日香里も長く無言だった。
少し気になったが、構わずに津衣菜は歩みを進める。二人の落ち葉を踏み締める音だけが、静かに霧の中で響く。
「そんなに好きな番組や芸人でも、あなたを繋ぎ止める力にはならなかったんですか?」
日香里の質問は、また唐突に発せられた。
津衣菜は左手も上げず、1分近く黙って歩き続けた後でその問いに答えた。
「……問題の次元が違うでしょう。他がどうでも、新しいネタやコントを見る為だけに生きようとは思わないよ」
「そう考える事で、その日その日を生きて行こうとしている人だっています」
「私がそうしなかったのが、気に入らないの?」
「いえ、気に入らないって事じゃ……いえ、やっぱり、そうですね」
日香里は津衣菜の言葉を否定しかけたが、途中で言い直し肯定を返す。
「気に入らないと言うより、納得出来ないんです。私は神を信じない人にだって何人も出会って来ました。でも、そういう人にとっては、神の教えに代わって、そんな日々の幸せな時間こそが、生きる上での大事な意味を持つものでした」
日香里はあまり喋らないが、たまに口を開けば、遥にも引けを取らない位に流暢な話し方をする。
毎日の様に多くの聴衆へ話していたからだろうかと、津衣菜は思った。
「そんな幸せな時間さえも投げ捨てて、命を絶てる絶望とは、どういうものなんでしょう」
津衣菜は聞えよがしに大きく舌打ちする。
「だから、あんたが聞いたって理解出来る話じゃないよ。何度も言ったよね」
「いじめや不正を強い力で隠蔽する学校ですか? すみません……高地さんの話から、そうじゃないかと思ったんですが」
津衣菜は口元を歪めながら、歩みを速めていた。
日香里が少し遅れ始め、二人の距離は開いて行くが、彼女の声は良く通って聞こえてしまう。
「それって、死ぬしかない程の、どうにもならない程の強大な悪だったんですか? 死ぬくらいなら戦うって道は選べなかったんですか」
「ほら、やっぱり理解出来ていない……何が『戦う』だよ。学校が強大な悪とか、初めっからそんな話じゃないんだよ」
津衣菜は苛立ったように足元の枯葉を蹴り上げた。
正直、後ろの日香里も蹴り上げてやりたかったが、その為にわざわざ歩みを止めたくすらなかった。
「私は、人間の中だけで生きて来たんだ。神様が世界の中心にいるあんたじゃ、所詮理解し様もないんだよ。無理に首突っ込むな。同じ事何度も言わせんな」
「ええ、私はきっと理解してないのでしょうね……世界が違うからじゃありません。津衣菜さんが何も話してくれないからです」
「このっ……」
とうとう津衣菜は足を止め、踵を返して日香里の前に立つ。
左手で彼女のコートの襟を掴んで、無言で睨みつけた。
「不思議な色の瞳ですね……通常のフロートと違う」
津衣菜の顔を見返していた日香里は、怯えた様子も見せず静かに言った。
「怖くないの? 死に囚われたシンクの――あるいは、発現者の瞳かもしれないね? 一番私を邪魔そうに見てたのも、鏡子じゃなくてあんただったけな」
「ええ、あなたが初めて来た時、怖かった……こんな人が仲間入りしたと言うのが、凄く嫌で不安だった」
津衣菜の金色の瞳に、日香里の赤い瞳が見返している。
恐れを語る日香里の言葉は、過去形だった。
「では、どうして今は死のうとしないんですか? フロートになって3ヶ月。自分を完全に殺し切る事だって可能だと知っている筈です――私は気付いています。今のあなたはあの時とは明らかに違う」
津衣菜は彼女から手を離すと、再び前へと進む。
歩きながら、抑えた声で言った。
「あんた、やっぱり分かっていない。私は変わっていない……私は死んだ方が良い側の奴で、神様でも天国でもなく、ただ終わる事を求めている。それは変わっていない、前も今も」
日は高くなり、霧はさっきよりも薄らいで来ている。
そろそろ早朝とは呼べない時間だ。
フロートがいたとしても、もうどこかの廃墟に完全に隠れてしまったかもしれない。
探索は続行するが、もし眠っている彼らを見つけても、今日は『どんな連中か』確認する事は出来ないだろう。
取りあえず所在だけは、今日のうちに把握しておきたい。そう決めて、二人は林の奥へと進む。
もうすぐ、ファーストフードで耳にした西沢医院跡へと辿り着く。その更に少し先には、松根教会がある。
林道方面に、白っぽい小さな建物が見えた。廃墟ではなく、林道沿いに設置された無人の給油所だ。
少し注意を向けて、探しているものとは何の関係もないと二人が目をそらしかけた時、林道を横切って来る複数の人影が目に入った。
人影は林道を歩かず、林の中へと入った。
それ以上に目を引くのは、その異様な歩き方。フロートになりたての頃の津衣菜の様な、肩を揺らし安定感のない歩調。
速度も揃っていない。のろのろと追い越したり追い越されたりしながら、木々の間を進んでいた。
そして、シルエットから判別できる程に普通の人間とはかけ離れた、ボロボロの風体。それを確認した時、二人は樹木の陰で身を屈める。
「津衣菜さん」
「うん……」
津衣菜が左手を上げ、日香里は頷く。その足取りから見て、彼らは西沢医院跡へ向かっているらしかった。
十分な距離を取り、なるべく足音を立てない様に二人は彼らを追う。
腐敗が耳に進行している場合を除けば、発現者も聴覚は鋭敏だ。近付けば、どれだけ静かに歩いても確実に気付かれる。
微かに、彼らの声が聞こえて来た。
うう、とか、ああと言う様な言葉にならない呻き声を、垂れ流すみたいに上げ続けている。互いに会話する様子は、全く見られなかった。
腐敗具合までは良く見えなかったが、彼らが末期発現者の群れであるのは確かだった。
「私も、初めて見ました……」
日香里が、信じられないと言った様子で呟いた。
「何を?」
「発現者が集団でいるのをです。しかも襲い合う事もなく、同じ方向へ向かって歩いているなんて」
理性をなくした発現者は通常、集団行動が出来ない。
彼らは生きた人間も、フロートも、同じ発現者も識別出来ない。『動くもの』を見たなら問答無用で襲いかかり、引き裂いて中身を食べようとする。
ゾンビ映画で見られるような、群れとなって人々を襲う光景は再現出来ないのだ。
やがて、彼らは木々の開けた中に建つ、コンクリートの剥き出しとなった廃墟の病院へと到着した。
建物の周りには背の高い黄色っぽい枯れ草が茂っていた。歩きづらく、時折転びかけながらも、構わず彼らはその中進んで行く。
「……?」
二人は目を凝らす。
病院内に入るかと思われた彼らは、正面玄関前で足を止め、その周りのスペースをうろうろと徘徊し始めた。
やがて、林の中から彼らとは別の、数人の集団が出現した。これも発現者らしい。
新たに現れた発現者達は彼らに合流し、十人程で病院の前を徘徊する。
そして更に別の一団が現れた時、彼らの様子が変わった。
動きを止め、その一団を注視している。新たなグループの者達は、彼らの前に来ると散らばり、彼らに手で何かを合図している。
「発現者じゃない……」
「フロートですね。ただ……」
「?」
「彼らも、発現してないかどうかは分かりません。軽度の発現はあるかもしれないです」
彼らほどじゃないにしても、合図を出している者達の動きもぎこちなかった。
衣服も、近くで見たらかなり汚そうな感じだった。普通の人間達に紛れ込める風体には見えない。
「発現者が……従っている」
発現者達はフロート達の合図に従い、数名は病院の中へと入り、残りは一塊となって次の指示を待っている。
津衣菜も驚きの声を上げた。彼女も一度だけ、発現者がフロートの声に従うのを見た事がある。
だが、目の前の光景はそれとも異質なものだった。
“あれ”が花紀だから為し得ただろう奇跡、イレギュラーの積み重ねであったのに対し、この光景に見られるのは日常的な慣れだ。
フロート達は当たり前の様に発現者達を誘導し、発現者達も当たり前の様に従って行動している。
残っていた発現者達が、移動を始めたフロート達の後についてぞろぞろと動き始めた。
その集団は、林の先、松根教会方面へと向かっている。
「行きましょう」
彼らの姿が見えなくなってから、日香里が言った。津衣菜は左手を上げて応えると、立ち上がる。
二人揃って小走りに駆け、枯れ草の茂る病院前を迂回しながら、彼らの消えた方向を辿った。
走っている途中、津衣菜は背後で数回、咳を聞いた。
振り返るまでもなく日香里の声。
その時は、何も気にならなかった。
違和感も感じなかった。走っていて咳き込むなんて、別におかしい事ではない。
――――呼吸をしている者なら。
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