2日目(1)
2日目(1)
「ここ臭くねえ? つか、くせーよ! なんか腐ってるだろ、弁当とか……動物の死骸とか」
普段からうるさい、ラグビー部に入っていて体の大きい男子生徒が授業中にも関わらず大声で騒ぎ始めたのは、正午になる少し前の事だった。
教師がたしなめるのも無視してくせーくせーと喚き7散らす男子に、彼と親しい生徒数人が、その騒ぎに反応して声を上げる。
「何も臭わねえよ。おめーの鼻が腐ってるんだろ。うっせえんだよ」
「この野郎。マジだって、良く嗅いでみろよ」
「なんか臭う気もするけど……窓から入って来てんじゃね? わかんねえけど」
ざわざわとし始めた教室で、遂に教師までその話題に乗り出す。
「少し濁った空気来てる気はすんなあ。落ち葉みたいな、排水溝みたいな……でも、何か腐ってるって程ではないと思うぞ」
クラスメートたちがめいめいに臭う臭わないと口にしている教室の中。
一人で机に視線を落として沈黙していた津衣菜は、おもむろに顔を上げて立ち上がる。
「すいません。気分…凄く、悪くなって……首にも響…くので、今日は帰り…ます」
「お、おお。森、お前は匂い感じた方か」
「はい」
「気を付けて帰れよ」
教師は唐突な早退申告に多少面食らったが、津衣菜の首元を見てそれ以上何も言わず、黒板に視線を戻した。
「ほら、吐く程じゃない奴は我慢して授業に集中しろ。弁当の置き忘れに心当たりある奴は捨てとけよ」
荷物をまとめて、教室後ろでマフラーを巻いてドアを出るまで、教室中の注意が自分の背後に集中している様な気がしてならなかった。
上着の袖から覗く小さな切り傷。
血が流れず、塞ぎもせず開いたままの傷口が、一際不快な紫色に変色している様に見えた。
周りの皮膚も昨日より更に、生きている人間の色から離れて来ている気がする。
津衣菜は確信していた。異臭の元は自分だったと。
コツを掴んだとは言え、感覚のない両足は早足になる程バランスを崩して行く。
何度もよろけて壁にぶつかったり転倒したりしながら、津衣菜は逃げる様に校舎の出口へと向かう。
昇降口から外へ出ると、気持ちの悪い位に太陽が逃げ場なく照りつけていた。
暑さは感じないし、そもそも今の季節の日射しがそんなに暑い筈もない
それでも、今の彼女はそこに降り注がれる光と熱を、自分の身体の腐敗を促進し、変色させ、形を崩そうとする力と感じていた。
校門へ辿り着く前に、土塊に還ってしまうのではないか。
本当にそうならむしろ歓迎すべきかもしれないとは思ったが、彼女はよろけながら急ぐ。
校外の道路は、建物の影が差している筈だった。
昨日までは、いや、今朝までは太陽の光がこんなに不快じゃなかった。
漫然と「昨日の続きの今日」をこなし、答えのない自問を繰り返している間にも、自分の身体に降りかかった事態は進行していたのだ。
学校から歩いて数分、市内南部を横切る新川と繋がった用水路の水門の下に潜り、津衣菜は日が沈むのを待った。
本当は途中のモスバーガーで休憩したかったが、店のガラスに映った自分の姿で、店内に入るのは断念した。
さっきよりも全身が灰色になっている気がした。
フィルターでも入れたみたいな、薄暗く赤みのかかった視界でも、分かる程の違いだ。
学校の中とは光が違うのかもしれない。
水門の影に入ると、肌の色は気にならなくなった。
水路の両端に人一人が歩ける広さの通路があり、そこに腰を下ろした。
時折、水門の上の道を人や車が通るが、下を覗き込もうとする物好きはいない。
水の流れる音だけが途切れずに、その空間を満たしていた。
静寂を破って鞄の中から聞き慣れたメロディが響き、津衣菜は目玉だけを動かし凝視する。
取り出したスマホには母親からのラインが届いていた。
Sheena
むちうち、どうなったの? 車で追突されたっていうけど、何の車に乗ってたの?
Tsuina
タクシー。帰り、体調悪くて乗ったら、おじいさんの車で。
Sheena
悪い事続くね、大変。警察からの連絡、まだ来てないよ。賠償とかの詳しい話も警察からって言ってたけど。
Tsuina
来てないの? 家の電話にするって言ってたけど。
Sheena
見忘れてたかもしれない、ごめん。病院は行った?
Tsuina
行った。むちうちと捻挫以外の異常は見られなかったけど、明後日まだ来てって。
Sheena
病院代はいつものキャビネットに入れとく。今週中にはオフ顔見れる様にするから。
事故の話も病院の話も全部嘘だった。これだけ嘘を積み重ねる自分も自分だけど、今頃になってこんな連絡をして来る母親も母親だと思った。
笑おうと思ったが、顔の筋肉は動かなかった。
今週中にと言っていたが、母親に自分の顔を見せる日はもう来ない。
津衣菜が笑えないのは、顔の筋肉のせいだけではなかった。
ねえ、お母さん。本当は私、死んじゃったんだよ。
死んだのにゾンビになって歩いている。それだけなの。
もうすぐドロドロに腐って土に還るんだと思う。
彼女にそう言ったら、どんなリアクションが返って来るんだろう。
自分が泣くのはお門違いだ。
本当なら、一昨日に母親と、全ての人間と、自分は永遠の別れを迎えていた筈なのだから。
きっともう戻れない――戻らないだろう、学校にも家にも。
でも悲しむ必要なんてどこにもない。
来るべきだった日が、二日遅れで来ただけだ。
どこへ行けば分からないが、取りあえず山の方へ行けばいいか。
それが津衣菜の結論だった。
誰の目にも触れない場所で最後まで。
四方を山に囲まれた盆地の中にある向伏市は、どこからでも2時間も歩けば人気のない山の中に入れる。
特に津衣菜のいる辺りなら、1時間もかからないで山に入れた。
何故こうなったとか、今後どうするべきとか、結局分からないままだったけど、もう自分がそんなものを知る必要はないし、考える必要もない。
深い森の奥で、死体らしく動かず黙って朽ちて行けばいい。
辺りが完全に暗くなってから、津衣菜は水門の下から出て、新川沿いの道を東方面へと歩いた。
1キロ程進むと新川は向羽川に合流し、その少し先に橋があり、川向こうの童茅地区へ渡れる。
童茅はもう平野部の端であり、その先は向伏市を包囲する山々への入り口となる。
橋についた津衣菜がその半分以上を渡った時、1台の乗用車が後ろから彼女を追い抜き、数十メートル先の欄干手前で停車した。
車から誰かが降りて来る気配はなく、静寂の中、小さな排気音だけを響かせていた。
テールライトが津衣菜の目を刺す。
車内の様子は彼女から殆ど見えないが、僅かに人の気配が揺らめいている。
こんな場所での停車はあまりに不自然だった。
2車線しかない狭い橋は、電話にも適さない。周囲には他に人や車の通行はない。
何か嫌な感じがした。
だが、数分後に津衣菜が真横を通った時も、車の様子に変化はなかった。
車は黒か紺の――間近でも津衣菜にはどっちの色か見分けられなかった――ミニバンだった。
運転席に20代か30代位の男が一人。他に乗っている人間は見当たらなかった。
津衣菜の闇に馴染んだ目には、車の色は分からない代わりに、車内の様子が普通の人間よりもはっきり見えていた。
運転席の男。無表情の顔を助手席の窓に向けて、津衣菜をじっと見ていた。
彼女が進むのに合わせて男の顔は角度を変え、その目は彼女を追い続けている。
津衣菜が車の後ろを歩いていた時から――いや、彼女を追い抜く前から、男はそうやって彼女を見ていたのだと、はっきり分かる様な視線だった。
津衣菜の足が速まる。
よろけるのにも、音を立てて足を引きずってしまうのにも鎌ってはいられなかった。
出来る限り今すぐ、その車から離れたかった。
ミニバンが彼女を追いかけて来る事はない。
車は、同じ場所で排気音を響かせているばかりだった。
男の視線。まるで昼間の太陽みたいに気持ち悪い。
どこまでも追って来て、彼女の逃げ場や隠れ場を全て暴き立て、奪おうとする。
そんな偏執的な悪意が込められているのを感じられた。
思い違いだったかもしれない。
津衣菜がそう考え直せる様になったのは、車が結局追って来ないまま視界から消え、畑と畑の間の坂道に差し掛かった頃だった。
向こうだって、こんな夜に普段見掛けない高校生が一人で歩いているのを不審がっただけだったのかもしれない。
自覚はなかったけど、こちらが車内をガン見してたから、向こうは見返しただけだったのかもしれない。
自分の面相が今どんななのかは知っている。
こんな夜、人気のない道で幽霊か死人みたいな女に突然外から覗き込まれたら、自分だって怖いと思っただろう。
あの男はそういう気持ちだったのかもしれない。
あの視線の追い詰める感じが、そういう想像で説明付けられるものなのかどうか、彼女自身にも分かりかねたが。
まあいいか、どっちみち終わった事。
結局追っては来なかった車だ。
津衣菜はさっきの車についてを頭から追い出し、身をそらして顔を上げる。
彼女の視界に勾配を増して行く前方の道路と、それを包み込む黒い山の斜面が広がった。
海辺の地方までは数十キロ、それまでこの先には山しかない。
彼女がひっそりと身を隠し「終わり」を待てる場所も、この中のどこかにはある筈だ。
道の手前に立っていた案内看板が、津衣菜の視界に入った。
民家もまばらな場所だが、この先に大きな公園がある。
ハイキングや遠足の場所として市内でも人気が高い公園で、津衣菜の記憶にもあった。
公園からは、ハイキングコースと称して複数の入り組んだ林道が山中へ伸びている。
そこから少し外れれば、山奥へも入り込めるだろうと津衣菜は思った。
公園入口には木製の看板と20メートル四方の広場があるだけだった。
勿論、これが公園の全部じゃない。
ここを起点に大小様々の広場やグラウンド、展望台が通路で結ばれている。その全部が公園だ。
広場に設置された案内地図を頼りに、津衣菜は展望台沿いに山奥へと伸びたハイキングコースを選んだ。
展望台沿いと言っても、展望台のある高台とその土を固めただけの小道とは10メートル以上の高さの崖で隔てられている。
崖の反対側には下りの斜面が広がり、アカマツの木々が群生していた。
人気の高い公園ではあるが、平日の夜にわざわざ訪れる者はいない。
無駄な照明も使っていないから、いい感じに暗かった。
月の光と風のざわめきだけが満ちたその道を、感覚のない死んだ足を順番に動かして、津衣菜は進んで行った。
高台の終わり、崖が次第に緩やかな傾斜に変わり始める、その目前まで来た時、津衣菜の頭上に今まで感じた事のない奇妙な感覚が生じた。
空気が揺れ、穿たれ擦れる気配。
ひゅうんっ
空気が彼女の頭上から耳の後ろにかけて軋み鳴った。
次の瞬間、波立つ様に地面が鳴った。
津衣菜は頭上ではなく、足元の地面を先に見た。
彼女の斜め後ろ30センチばかりの所に、こんな所に置かれている筈のないものが転がっていた。
積石とかに使う長方形のブロック石。落下の衝撃で真っ二つに割れていた。
再び、頭上の空気が揺らめいた。
今度はさっきより近い、当たるかもしれない。
ひゅうっ
音が迫るよりも先に彼女は一歩前へ足をスライドさせた。
こんなものが人間に当たったら只じゃ済まない――自分に当たっても、只じゃ済まなさそうな気がする。
地面が衝撃で震えるのと、頭上の空気の揺れが今度は同時に起こった。
「くそ当たんねえ、一応狙って落としてんのに」
津衣菜の頭上から、苛立った呟きが聞こえた。
声は空気の揺れの近くで発せられた様だ。
早足で木の影の濃い場所へと移動し、津衣菜はやっと頭上を見る。
道沿いの崖の上にある高台。彼女の予想通り、ブロックはそこから落とされたものだった。
高台の柵に、こちらを見下ろしているらしい人影が一体見えた。
影は両手に持ったブロックを、こちらに向かって放り投げる。
津衣菜は空気の揺らめきと風切り音の正体を、目で確認する事が出来た。
届く筈もないいい加減な投擲で、ブロックは津衣菜からかなり離れた場所に落ちる。
「――だから、離れ過ぎなんですよ。いくら近接がアウトだからって」
その声は、頭上ではなく前方の暗がりから聞こえて来た。
次の瞬間、ブロックよりも鋭い空気音が、一瞬で傍らを通り抜ける。
空気音はトスッと言う軽い音で締めくくられた。
津衣菜は恐る恐る背後を振り返る。
自分を隠す影を作っていたアカマツの樹、その幹に細い金属の棒が深く突き刺さっていた。
闇の中から浮き出る様に、一人の男が姿を現した。
津衣菜よりは年上だが、二十歳過ぎの若い男、左手にスマホを持ち顔に近付けていた。
スマホから聞こえて来るのは、頭上で聞いたのと同じ声。
「なあ、そろそろアレ使っていい? 使いましょうよ、ねえ」
スマホから響くキンキンとした声。
「アレ見たくてゾンビ狩りやってる様なモンすよ俺ァ」
「だから、もっと確実に当てられるまで待って下さい。ブロックだってもうそろそろ使い切ったでしょ」
興奮したというよりは何か焦れている様な上ずった調子の声に、スマホを持った男は淡々と答えている。
津衣菜の目は男の右手に釘付けとなった。
男が右手に持っていたのは、ボウガンだった。
話しながら、男は右を持ち上げて、矢の切っ先を再び津衣菜へと向ける。
矢が放たれるよりも先に、津衣菜は斜面の闇へと身を飛び込ませた。
どこがどうなっているのか分からなかったが、山林の中、ひたすら枯れた針葉にまみれて転がり落ちている事だけは分かった。
「おいおい、コースアウトしやがったぞ、ゾンビちゃん。どうすんのよ。予定にないじゃないか」
「3人しか集まらなかったんだから、何でも計画通りには行きませんよ。車だって十分な用意は出来なかったし」
「車って言えば、あいつこそ離れ過ぎじゃねえか。あんな所で待機って、参加してない同然じゃないか」
「ちゃんとやる事やってるでしょ彼は――大丈夫ですよ。どうせこの下から、ポイントまで追い込める」
話し声と一緒に、ざっざっと枯葉を踏みしめる音がゆっくり斜面を降りて来る。
転がる勢いが落ちたのを感じた津衣菜は、手足を踏ん張って樹木の間を縫う様に這い進む。
再び転倒しそうだし、男の目に触れ易くなるだけだと、立ち上がって走るのは思い止まった。
「じゃあ、アレもやれるな。こんな所でやったら大惨事になる」
「だから一度降りて下さいって。アレも上から落とすつもりですか?」
男達の声は、木々の向こうから離れて聞こえて来る。レーザーみたいなLEDライトの白い光が津衣菜の周りを滑って行った。
光が津衣菜を捉える事は一度もなかった。
男は彼女を見付けられずにいるらしい。
津衣菜はようやく樹木の幹に身体を支えて立った。
これだけ木々に遮られていればボウガンでは狙えない。
足音は、彼女を見付けずとも大体の位置は分かっているのか、正確に近付いて来る。
木から木へ手や肩をつきながら、津衣菜は早足で斜面を下りた。
背後から再び鋭い空気音が何度か聞こえたが、いずれも彼女の数メートル手前で、樹木に突き刺さったり弾かれたりして止まった。
目の前の明るさが変わった。少し前方で木々の列が途切れている。
その先には街灯もあるらしく、黄色い光がアスファルトを照らしているのも見えた。
津衣菜は斜面の林から、舗装された車道へと飛び出した。
山の中ではあるが、道の反対側には畑とまばらな民家しかない。
道は斜面と較べれば平らに感じられる位、緩やかな坂になっていた。
街灯から離れる様に津衣菜は下り方向へ足を引きずって進む。
歩き易くはなったが、狙われ易くもなった。津衣菜の心に平穏は戻らない。
遠くから空気の音が津衣菜に迫り、彼女の横を通り抜けた。
距離があり過ぎるのか、弱々しく飛ぶ矢が彼女の目の前で落ちて行った。
この勢いなら当たっていても刺さらなかったかもしれない。
背後で男が道路へ降りて来る気配は一向になかった。
空気音はよく聞けば、木々の隙間から放たれている。
襲撃者は道に出ず、林の中で彼女を追っているのだろう。
津衣菜の視界に見覚えのあるものが写った。
木製の看板。さっき入って行った公園の入口まで戻って来ていたのだ。
このまま直進すれば、姿を晒し続けたまま逃げる事になる。
公園内へもう一度入ったなら、身を隠す場所はいくらもあるだろうが、同時に連中が待つ懐へ飛び込む事になる。
どちらを選ぶか迷っていた津衣菜が、ふいに足を止めた。
音や空気をはっきりと感じた訳ではなく、直感があった。危険。
死後硬直よりも硬いのではと思う位、全身が強張った。
直後、津衣菜の右から目の前を何かが通り抜けた。
ボウガンの矢ではない、もっと長くて太い棒状の物体。
カランと乾いた音が何度も響き、それは道の左端でバウンドしながら転がった。
長さ80センチ程の、先端を尖らせたスチールパイプだった。
津衣菜が立ち止まっていなければ、身体のどこかを深く串刺しにしていただろう。
津衣菜の足は勝手に動いた。
右足を勢い付けて踏み出し、よろける暇も与えず左足を、また右足を踏み込む。
『走ろう』とも『走れる』とも、彼女の意識にはなかった。
得体の知れない目的も不明な、それでいて自分への殺意だけは明確な襲撃者達を振り切る事で、彼女の頭はいっぱいになっていた。
突然、側頭部に急な衝撃と重圧を覚える。
「がっ……あ……っ!?」
痛みはなくとも、重心を大きく崩した津衣菜は、坂道を駆け下りる勢いのまま路面を転がった。
倒れる間際の彼女の視界で、拳大の石がスローモーションで落ちて行った。
石の向こうに公園の入口があり、その奥にボウガン男とは別の人間が立っていた。
40才前後位の痩せた中年男。
ニヤニヤ笑っているが、どこか卑屈な印象がある。
高台からブロックを落としていたのはこいつだと、津衣菜は気付いた。
男は続けざまに足元に置いた石を拾っては振りかぶり、片手投げで次々と投石して来た。
当たる事をあまり期待していない様な、いい加減な投げ方だったが、倒れて動かない津衣菜への命中率は思いの外高かった。
背中や足、肩回りに石が命中し、残り半分が彼女の周囲で跳ね、彼女を更にその場へ釘付けにした。
「ハア……ハア……はは、ははははっ、どうだよ、今夜の俺ァ、何か絶好調だねえ!」
甲高い声が公園の外にまでキンキン響いていた。
調子付いた言葉とは裏腹に、男の呼吸は切れ切れで、声を境に投石も止んでいた。
「体力、ちゃんと計算してます? 最後に取って置き投げるんでしょ? 俺から先行きますけど……タイミング合わせてお願いしますよ」
男の手にしたスマホと、背後の木々から同じ声が二重になって聞こえた。
津衣菜の約20メートル後ろで、落ち葉を踏む音がして、程なくアスファルトを踏む音に変わる。
身を起こそうとした津衣菜の視界に、さっきのボウガン男の姿があった。
「ふん……わあってるって……じゃあ、やるんだな?」
「ここはまだフィニッシュじゃないので、それも忘れないで」
中年男の声はスマホからしか聞こえない程小さくなっていた。
通話する男の右手にはボウガンではなく、何か別の物が握られていた。
津衣菜がそれが何なのか確認するよりも先に、スマホを素早く上着のポケットにしまった男の左手が赤く灯った。
銀色のジッポから、小さな火が真っすぐ上っていた。
男は視線を津衣菜から手元へ移して、炎を横に揺らめかせる。
右手の近くで、炎は何倍もの大きさに膨れ上がった。
公園入口の男が興奮して何か喚いているが、良く聞き取れない。
炎が眩し過ぎて津衣菜の視界が一瞬白く飛んだが、目を凝らすと像が戻って来る。
洋酒を入れるみたいな1リットルのガラス瓶。
炎はその口から噴き上がっていた――正確には、口に詰めた布が燃えているのだ。
男は片足を踏み出し、手袋をはめた右手のそれを大きく振りかぶって投げた。
津衣菜にもそれが何かは理解出来た。
実物は見た事ないけど、映画やネットの動画で見た。確か――
考えるより先に津衣菜は全身をよじり、全力でアスファルトの上を転がった。
瓶は彼女の3メートル前で割れ、一瞬だけ茶色っぽい液体とガラス片を飛び散らせる。
次の瞬間、その全てがオレンジの炎に変わってアスファルトを舐め、津衣菜に絡みついた。
津衣菜は更に身体をひねって、転がりながら路上の炎から離れ、自分に燃え移った火も揉み消そうとする。
彼女の燃え移った部分はそんなに大きなものじゃなく、3、4度転がった辺りで煙を残しながら消えつつあった。
その時、今度は彼女の先でガラスの砕ける音が響き、横に走る炎が視界に広がった。
公園入口の中年男が二本目の火炎瓶を投げつけて来たのだ。
全身に力を入れて、炎に突っ込む寸前で止まれたが、髪や服の端がチリっと音を立てて焦げ、津衣菜の目と鼻の先に炎が渦巻いていた。
熱気こそ感じないが、普通の人間なら耐えられなかっただろう程、顔を照らされ焙られる。
周り全てが赤く、赤く照らされている。
「ひゃあっ、やっぱりこれえっ、これですよ。火炎系アイテム使わないで何がゾンビ退治だ……焼却さいこおおおおおおおっ!」
「う……あ…あ……」
炎を呆然と凝視する津衣菜の口から、喉を震わす様な声が漏れていた。
中年男の一際高い歓声が届いたが、津衣菜の耳にはもう入っていなかった。
「う……わあああああああっ! ぎゃあああああああっ!」
津衣菜は咆哮の様な叫び声を上げた。
後ろの炎からも目の前の炎からも逃れようと、動かせる手足を滅茶苦茶に動かす。
跳ね上がる様な動きで立ち上がるが、そのまま前方の路面に自分を叩き付けてしまう。
跳ね上がっては倒れ、それを何度も繰り返す。
何度目かで転ばず立ち上がる事に成功し、彼女は走り出した。
道路の先でも公園内でもなく、道向かいの畑へと伸びていた細い小道へと。
「あああああ―――わあああああっ!」
走りながら、津衣菜は叫び続けた。
どこからそんな声が出ているのか。
自分にも分からなかったし、気にもならなかった。
何だあれ。
何だあれ。
何なんだあいつらは。
津衣菜の意識は、死後目覚めてしまった時以上に疑問で混乱し、渦巻いていた。
こんな山の公園で、人の頭上にブロックを落とし、ボウガンで狙い撃ち、挙句の果てには――火炎瓶……だって?
私一人を狩る為に……狩る……?
あの貧相なオヤジは『ゾンビ狩り』『ゾンビ退治』だと言っていた。
私の事を――私が死体だと――知っている――?
どこで、いつから、どうやって知った?
そして――今、ここにいる事を――どうして――知っていた?
ざざざざっと二人分の足音が重なって響く。
津衣菜が一度だけ立ち止まって後ろを見ると、あぜ道に降りた男達が追って来ていた。
実の所、彼らの足は遅かった。
二人とも大きなバッグを重たげに抱え、それ以上速く走れない様だった。
彼らと津衣菜の距離は目に見えて広がりつつあった。
しかし、それでも、今の津衣菜には十分過ぎる脅威だった。
時折、津衣菜の後ろで空気が鳴り、彼女の後ろや横の地面に鈍い衝撃を残す。
中年男が彼女を追いながら、バッグから石を取り出し、投石している。
その顔は火炎瓶の興奮の余韻を残し、醜く歪んで笑っていた。
その傍らの若い男は、ボウガンを持っていなかった。
恐らくはバッグにしまったまま、追走に専念しているのだろう。
その男も――口の端を上げて静かに笑っていた。
顔や声への表われ方が違うだけで、二人は『楽しんでいる』という点で共通していた。
彼らにとってこれは、憎しみでもなければ止むに止まれぬ戦いでもなく、とても刺激的なゲームなのだ。
そして津衣菜は、「獲物」だった。
幅1メートル程の溝にかかった橋を渡ると、土溜めの上に舗装された小道が伸びていた。
ふと、背後の足音が聞こえなくなっているのに気付いた。
津衣菜がまた立ち止まり、全身で振り返ると、後ろの道には追手の姿もなかった。
「――――?」
津衣菜は動かせない首を心の中で傾げた。
確かに引き離してはいたけど、見えなくなるまで離れた覚えはない。
直線で逃げて来ていたのだから、目を凝らせばどこかには彼らの姿が見える筈。
だが、今、農道で区切られた畑の中には彼女の他に誰もいなかった。
彼女を執拗に追い回していた男達は、忽然と消えてしまった。
まるで彼らこそが幽霊であったかの様に。
これで終わりだと、津衣菜には思えなかった。
まだどこかに隠れているのでは。
道を変えてこの先で待ち伏せているのでは。
走るのを止め、聴覚に神経を集中しながらゆっくりと歩く。
虫の声と葉のざわめく音。
水の微かに流れる音。
ゆったりと流れる空気。
時たま聞こえる街灯の蛍光灯が鳴る音。
彼らの異物めいた足音と気配は、どれだけ歩みを進めても耳にする事はなかった。
若い男は、『ポイントまで追い込む』と言っていた。
津衣菜も薄々、自分が彼らの思惑通りに誘導されているとは感じていた。
ならば、間違いなくこの先に彼らの悪意が待ち受けている筈。
だが、それを匂わせる片鱗は、どこまで進んでも見出せなかった。
細い舗道のゴールは見覚えのある光景だった。
二車線の道と合流した先に新川が流れ、先刻彼女の渡って来た橋がある。
さっき橋の路肩に停まっていたあのミニバンは、もういなくなっていた。
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