12日目
12日目
ノワールショッピングから陸橋の下をくぐって、反対側の道を数分程進んだ所にあったビルの建築現場。
鉄骨がむき出しのコンクリートと垂れ下がった無数のケーブルの中、粉塵まみれの床を、遥と津衣菜を先頭に数人のフロートが歩いて行く。その奥まった壁際に一棟のプレハブが建てられていた。
プレハブの中は事務所と会議室兼休憩室になっていて、並んだソファーに花紀と保護された年配のフロートがいた。その周囲には同じ班の少女達も集まっていて、他にも何人かの見慣れないフロートの姿があった。
花紀は遥たちを見ると嬉しそうにパタパタと両手を振る。その向かいのソファで、年配のフロートはしきりに頭を下げて謝罪の言葉を繰り返していた。
「私のせいで……本当に、申し訳ありません……こちらのお姉さんが、私の代わりに何度も……あの、本当に大丈夫なのかい……ごめんなさい……痛くなかったですか……あの、皆さんは……私は一体」
「お姉さんだってー、きゃあっ、やっぱりおじいちゃんには伝わっちゃうの、花紀お姉さんのこのお姉さんオーラ!」
きゃいきゃい騒ぐ花紀はスルーして、遥が彼に答える。
「大丈夫ですから。気にする事はありません……私たちは、こうやって助け合ってやって来ているんです。あと、多少ショッキングな事もお伝えしなければなりませんが、それはこちらでお話しましょう」
同時に、一人のフロートが彼を促して一緒にプレハブを出て行った。続いて他の男性のフロートも全員出て行き、プレハブの中には女しかいなくなった。
「花紀、背中見せてみな」
遥は花紀に言う。
「え、今日は大丈夫大丈夫、ちょっといきなりは恥ずかしいかな……って、あはは」
花紀が慌てた表情で掌を前に出しながら答える。遥は無言で、花紀の背後にいた鏡子に目配せした。
「うぃーっす」
「――きゃああああっ!?」
「ほらほら観念して脱げ脱げ」
「いやあん、がこさんのエッチ、スケベ、ヘンタイ、ロリー!」
ソファーの上でもがく花紀を鏡子が押さえ込みながら、セーターを脱がして行く。
「ほら、下も腰まで」
「うう……」
セーターを首までまくり上げられると、ようやく大人しくなった花紀に、スカートも少し下ろすよう指示する。
ブラのホックを外して前を両手で押さえながら、花紀は横目で鏡子を睨む。露わになった背中は顔とも違う質感の白さ、そして不自然な凹凸があった。質感の原因が部分的に被膜の様なもので覆われているからだと津衣菜は気付いた。
遥がアルコールっぽい匂いの薬で被膜を剥がし、全体を丁寧にふき取って行く。
その下から現れた彼女の背中に、津衣菜は自分でも分かる程に顔が強張ってしまった。
花紀の背中には夥しい数の縫い目が刻まれていた。傷が塞がらずいつまでも抜糸出来ない縫合。死後の傷。
そして、肋骨や肩甲骨の辺りで骨ごと凹んで戻らない部分がある。裂傷や打撲の跡の周りは薄く黒ずんでいた。
古い傷と新しい傷が入り混じり、交差し、何度も塗り重ねたカンバスみたいだった。花紀がそれだけ繰り返し、暴力の前に自分の身体を差し出して来た事を示していた。
「何でこんな……助けるにしたって、もっとやり方ってものが……」
やっとの事でそう口にするが、津衣菜は言葉途中で黙り込んだ。あの状況で、「もっと良い助け方」なんてそうそうあるものじゃない。
誰かが代わりに攻撃を受け止めるのが、反撃せずに保護対象を守るのなら、最善だっただろう――その「誰か」のダメージを度外視するなら。
「新しい裂傷はないけど……縫合が解けて広がっている古傷が少しあるね。左肩甲骨の下がぶよぶよしてる。また一本、肋骨が折れたな。これ以上折れる様なら、ここにギブスを付けて、救出活動は今後自重してもらう」
「ふえっ……」
遥は言葉と共に、用意したトランクから次々と薬品を取り出し、花紀の背中の傷に塗布する。縫合の一部を切り取って抜糸し、新しい糸で縫い直す。
薬品を塗り終えると、半透明のパウダーをその上に叩きこみ、更にその上から何か樹脂の様なものを塗りつける。これが被膜の正体だろう。
花紀の背中は、短時間でさっきの脱ぎたての状態を取り戻した。
「私の時も……花紀さんは、笑っていました」
プレハブの外で、美也が津衣菜に話した。
「囲まれて、逃げられなくなっていた私と彼らの間に飛び込んで、私に覆い被さって……彼らは園芸用の大きな草刈り鎌も持っていたのに、彼らの攻撃をずっと受け止めながら、身体の下の私に……大丈夫だよ、もう怖くないよって」
勿論、その後に来た増援がフロート狩りを排除したのだというが、そんな光景が焼き付いていれば「花紀に助けられた」となるのは当然だっただろう。
「いつもそうやっているのね」
「はい」
「どうして……私には、わからない」
「笑ってみせて、他人にも笑ってもらう。自分の幸せや笑顔を分け与える。それがあの子にとっての生きる事だからさ。自分がそうやって“与えられて”来たって思いがあるんだろうね」
鏡子が話に割り込んだ。静かな口調だが、意味ありげに津衣菜を一瞥する。
普段の鏡子ならここで津衣菜を揶揄して来そうなものだが、何か様子が違う。津衣菜が訝しむ様に彼女を見返した時、また別の方向から声がした。
「生きたくて、生きたくて、それを強く願って叶わなくて……フロートになってもなお、生きたくて、生きようとして、だから姉さんはここまでやるんすよ」
千尋が険しい目つきで津衣菜を見据えていた。
「雪子にだってそういう思いがあるんだ、僕にだって……だから先輩、僕はあなたみたいな人が許せないんです。気に入らない、イライラするんだ――自殺だからなんて理由じゃない」
鏡子は黙ったまま踵を返し、その場を離れた。彼女の沈黙の理由は津衣菜にも何となく見当がついた。今回は千尋に譲ったのだ。
千尋が自分にこれだけ不満を口にするのは初めてだった。
「僕は鏡子さんとは違う。自分で命を絶つ人にだって、その人の思いや生き方があったんだと思います。でも……先輩はどうして、“自殺の理由を思い出せない”なんて嘘をつくんですか? 誰も言わないだけで、とっくにバレバレなんですよ」
「え……」
さほど関心を持たれているとは思わなかったが、バレているとまでは考えた事がなかった。そして、嘘をついている理由も、他の奴らに色々話したくないから以上の自覚はなかった。
「隠すのが悪いんじゃない。言いたくないなら言いたくないで通るんだ。先輩はただ言いたくないから僕らに嘘をついたんじゃない。先輩の本音言ってあげますか?」
千尋の言う通りだった。フロートの間に自分の死因を積極的に教え合う習慣はない。親しい相手、伝えたい相手にだけ個人的に話す程度だった。言いたくないと言えばそれで済む話の筈だった。
「思い出せないなんて言うのは、自分が忘れたいからでしょ。自殺してまで逃げたかったものから逃げ切った事にしたいんでしょ……死因がどうとか関係なく、先輩は本物の死者なんすよ」
「私は……私が逃げるのは……私の……」
津衣菜は俯く事も出来ず、左手で目元を押さえて視線だけを下に向ける。
千尋の言う通り、自分はシンクなのかもしれない。そうでなくとも、この場にいるフロートとは異質な何かなのかもしれない。
そう思いつつも、千尋に答える言葉は見つからない。
「何もかも忘れなくちゃいけないんだ……私は、まず私から逃げるんだから」
しばらく立ちつくしていた津衣菜は、消えそうな声でそんな答えを絞り出していた。
津衣菜は少しふらついた足取りだが、それでも花紀の様子を確かめようとプレハブの中に入る。
薬が乾いて遥の許可が出たのか、花紀は服を着直していた所だった。
「ついにゃー分補給なの」
服を着終えると同時に、そう言いながら津衣菜に飛びついた。
「ちょっと、首ずれる」
「あ、ごめんなさい……」
冷たくするつもりはなかったが、今のは少し洒落にならない衝撃だった。本当にずれそうだったと津衣菜は思った。
花紀も珍しく殊勝に謝って、津衣菜から身を離す。
「動いても大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫、痛くないもん。全然へーき」
「平気な訳ないでしょ。痛覚なければ何されてもいいの?」
津衣菜は思わずきつい声で詰問してしまう。
きょとんと津衣菜の顔を見つめていた花紀だったが、少し微笑んで答えた。
「痛くはないけど……叩かれたり切られたりすると、その度、悲しくなったりはするかな」
「――悲しく?」
少し花紀の答えのニュアンスが分からない。このフロートの身体は、バットで殴られようがナイフで切られようが、恐らく火で焼かれようとも、身体的な苦痛を感じる事はない。
だが、確実に言い様のない不快感があるのは経験で分かっていた。それは津衣菜にとっては、確実にそこに回復しない傷や欠損を生じたという気色の悪さでしかなかった。
その気色の悪さと花紀の言う「悲しさ」とがどうもうまく結び付かない。
「うん。私の身体が傷ついて壊れて行くのが悲しい。そして――この人、そんなに私のこと嫌いなんだ、壊れて消えちゃばいいって思ってるんだっていうのが伝わって来て、それがもっと悲しくなるの」
「だったら……尚更ダメじゃない。やめよう、花紀には合わないよ」
分からないにせよ、それが彼女にとって良くない感覚であり、積み重ねるべきではないものだという事ぐらいは理解出来た。
どんな生前を送ればそうなるのか分からないが、この子は皆に愛される為に、そして皆を愛する為に自分が生まれて来たと、自分の身体や心があると強く確信している――私と違って。
津衣菜は思わず花紀の肩に手を掛けて訴えていた。
「でもね……目の前で他の誰かがそうされていたら、もっと悲しいんだよ」
花紀は首を傾げながらそう答える。
そして、彼女は自分の右目を指さした。丸くくりくりした瞳。しかし、その瞳孔は開き、毛細血管は灰色にくすみ、表面は乾いていた。
「フロートはね、笑う事も怒る事も出来るけれど……泣く事だけは出来ないの。どんなに悲しくても」
だからね、花紀お姉さんが笑顔を届けるの。
彼女はそう言ってにっこりと笑った。
外はもうすっかり明るくなっていた。時計の針は7時を回っている。
警備の巡回が来る前に建築現場から撤収し、津衣菜と花紀は車に乗せてもらってねぐらに戻る事にした。高地の車とは違う、花紀の退避にも使ったという白いワゴンだった。
窓をぼんやりと眺めていた津衣菜は、ある通行人に目を止める。
自転車をこいで車とすれ違ったのは、昨日の動物殺しの少年だった。制服姿とかごに放り込んだ鞄から通学途中だと分かる。
遠くから見た時以上に、平凡そのものの雰囲気だった。猫を生きたままチキンの様に裂く、あの凄惨な光景を、今の彼の姿からは、誰一人思い浮かべられないだろう。
紗枝子は彼と話をしたのだろうか。その凶行を止める事が出来たのだろうか。何となくだが、多分出来なかったんじゃないかと津衣菜は思った。
それ程に、少年は普通過ぎた。
恐らく彼の殺戮は続くだろう――普通の高校生の普通の生活の一部として。
「普通の人たちなんだよね。フロート狩りに来る人たちって」
ふいに隣の花紀が言った。彼女に少年の話は一切していない。それでもそんな話を急に始めたのは、彼女も少年の姿に――あるいは自分の視線に何かを感じたのだろうか。
「普通に学校に行ったり会社に行ったり、友だちも家族もいて……あのね、たまにね、花紀お姉さんが向こう見てニコニコーってすると、叩くの躊躇っちゃう人がいるんだよ」
「だから何。躊躇ったって結局叩くんじゃない。あいつらが普通だなんて……当たり前だよ、そんなの。普通の人間が、普通の人間じゃないと思った相手に何をするか分かる?」
そんなつもりもなかったのに、心のどこかがひりついて少し棘のある言葉を返してしまう。
本当は今の花紀には優しくしたかった。だけど、この場合の「優しさ」がどうする事なのかから、津衣菜には分からない。
「でもね、花紀お姉さんの事ずっと守ってくれて、励ましてくれた人たちも、普通の人たちなんだよ」
それは……どうかな。
津衣菜はその言葉を言わずに呑みこむ。
正直、花紀も、花紀の周囲にいた人達とやらも、津衣菜には普通に感じられない。どこか別の宇宙から来た人間みたく思えていた。
だけど、それも普通の人だと言う花紀の方が、本当は正しい様な気もしていた。
その日の夜、少人数でのミーティングがあり、戸塚山1班からは津衣菜一人が呼ばれた。本来なら花紀が呼ばれる所を、彼女の容体に大事を取って津衣菜を呼んだという事だが、他の理由もある気がしていた。
そこに集まっていたのは、フロートコミュニティーの中心メンバー以外では、武闘派に属する少年グループや北部班、その他、「力仕事」を担うと思われる面々ばかりだった。
会議に入る前に、手が空いてるっぽい遥に津衣菜は声をかけた。
「ん……割とそんな感じだね。津衣菜にこれからこっちの仕事も知ってもらおうって意味……で、どうだい?」
自分が呼ばれた理由について遥に訊ねると、あっさりと答えてくれたが、同時に唐突に尋ねられる。
「どうって、何が?」
「あの子たちとは、やっぱり難しいかなって」
「やっぱりきつい。ああいうのをフロートって言うなら、私はやっぱりシンクって奴なんじゃないかとさえ思わされる」
「そうかい……女の子同士とかじゃなく、あんたが必要としてるのはああいう子たちじゃないかと思ってたんだけどね。読み違いだったかな」
やがて会議が始まった。そんなに難解な内容ではなかった。
昨日の戦果のまとめ、保護されたフロートの今後の処遇について、対策部の動きについて現状分かっている事、などがざっくりと話し合われて行った。
それらの議題の後に、少年グループのリーダーらしき男が手を上げた。倉庫での見覚えはあるが、昨日車に来たのとも違う、眼鏡をかけた長身の男。高校2~3年ぐらい、あるいは大学生かもしれなかった。曽根木と雰囲気が似ていなくもない。
彼は、昨夜のフロート狩りの会議室のログに、不可解な発言があったと言う。
「“撮影、5、回せます?”5というのは5人の意味だと思います。そして返答として“中は2が限界。外に4ならいける” だけど知っての通り、生主やってた一人以外、奴らの中に撮影者は一人もいませんでした。現場を撮影したと思われる画像も動画も現在出回ってはいません」
ここで話し合われていた撮影者はどこに行ったのか。どこで何人、何の目的で何を撮影したのか分からない。アルティメットフォースのサイトも会議室も、現在閉鎖されているっぽい。
入手出来なかったログ、およそ2時間分に、もっと重要な情報があったのではと悔やまれる。彼はそう話を締め括った。
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