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フローティア  作者: ゆらぎからす
11.フローティア
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207日目(4)

 207日目(4)




 絡みついていた網から一本ずつ紐を引き千切ってやったのは、覚えている。

 だけど、それはいつの事だったのか。

 水中でだったのか。浅瀬に流れ着いてからだったのか。

 そもそも、どれくらいの時間、どれくらいの距離、川を流されていたのか。

 何でこんな所にいるのかも、どこへ行こうとしているのかも、良く思い出せない。

 そもそも、自分が誰だったのかも、名前さえも曖昧になる。

 川へ飛び込んだ時からの、記憶の順番がバラバラだった。

 人目を逃れて、物陰や高い茂みの中を這いずっていた気もする。

 悲鳴を上げる誰かに襲いかかっていた様な気もする。

 苦痛は感じなかったし(何の痛覚もなかったし)、そいつを喰えば楽になれるとか思った訳でもない。

 でも、『収穫が必要だ』と、それだけは意識から離れなかった。

 そして、何か、とても苦しかった。

 死者の朽ちる苦痛や喪失感とは違う気がするが、生きている人間の苦しさでもない。

 それらとも異質な、悪夢の中の焦燥に似た感覚だった。

 目の前のこいつはまた謝っている。

 ごめんなさいごめんなさいって、泣き叫んでいる。

 許して下さいってお願いして来る。

 私はこんな奴知らないから、謝られたって困る。

 どうしてだろう。

 泣きながら謝っている奴を追い詰めるのは、何かとても安心感がある。

 ああ、そうだ。

 相手を謝らせれば、それだけで自分が正しい側にいる気になれるから。

 クラスメートと一緒に忍を囲んで、私は安堵していた。

 男子の前だというのにあの子のブラウスを笑いながらはぎ取っていた、隣に立っていたあいつは、目の前のこいつに似ている気がした。

 私と私たちは、忍の前にも、誰かをこうして悪役に仕立てて、私達の秩序を行使していた。

 そいつが壊れていなくなるまで。

 いなくなったら、次が選ばれる。

 いつの間にか、私は囲んでいた『ゲロ女』が忍だという事も忘れていた。

 それくらい、頻繁に、そこ(・・)にいる人間の顔は入れ替わっていたのだから。

 自分がそこ(・・)にいない様にする事で、みんな必死だった。

 たまに、自分がそこ(・・)に行く事への想像力が全く抜け落ちている様な奴もいたけど、そういう奴ほど、次にそうなっている可能性が高かった。

 忍だって、自分がそうなる事は想像していなかっただろう。

 だから、囲む輪には加わらず、あいつらに『こんな事はもうやめよう。手口が酷過ぎるし、幼稚過ぎる』なんて執拗に絡んだ。

 あの子がああなったのは、あの子自身の正義感と勇気の代償だった。

 悪意に鈍感そうな、明るいけどどこかふわふわしたあの喋り方も、あいつらの――みんなの(・・・・)気に障っただろう。

 ここには神様なんていない。

 大人の騙る人権や平等や寛容や公正もない。

 そういうものは、教師や親たちと一緒に、薄目で見ないふりしてくれている。

 目の前のそいつは、テンパった顔して構えている。

 私を倒すつもりだろうか。年齢は分からないが男だ。

 腕にかなり自信がある様だが、生者のそれでしかないし、構えも隙だらけだった。

 何をしたかは覚えていないが、液体の飛沫を散らし、頭から地面をバウンドして飛んで行った。

 それが血だという事にすら、私は長く気付かなかった。

 赤い色が分からなくなっていたのだと気付いた。

 かなり長く自分の中を流れていない、あの生者の色と体温を持つ液体。

 逃げ惑う影と、ぐちゃぐちゃに反響するいくつもの鳴き声。

 次は誰だ。

 仲間かどうかは知らないが、目の前に残っている数人の男へ、選択を迫る。

 犠牲者を、獲物になる奴を、お前らの中から選べ。

 自分が選ばれなかった事に、私たちはただ安堵する。

 安堵して、また『みんな』の中に埋没する。

 向坂を含む、学校の中の『上の奴』が大体選ぶ役だったが、本当は彼女達にだって、選ばれないという保証はなかった。

「そんなものは学校という限られた時間と空間の中だけの事。大人になれば全て通用しなくなり、過ぎ去ってしまう」

 誰かが騙った。

 誰もが分かっている筈だ、それこそがクソみたいな嘘だと。

 私たちは大学に行っても、就職しても、家の中でも、老人になっても、この町で、この国で、こうやって過ごして行くのだと。

 だから、あいつらは、私達を放置し、覆い隠そうとする。

 私たちに何か言おうとすれば、自分達も大して変わらない事を露わにするだけだったから。

 隠し損ねた奴が時々、ニュースで大騒ぎになるが、それだって結局忘れ去られる。

 何かの対策や解決方法が考えられた事なんて一度もない。

 学校がこれだけ、中で起きている事を放任し、かつ隠蔽しようとしたのは、あいつの母親――市教育委員会も仕切るあの女の圧力によるものが大きかった。

 あのババアの力は、向坂家の企業グループだけでなく、地元の様々な人脈にも支えられていた――何とか会の会長だの、何とかの社長や総合病院の理事、市や県の議員。

 その一端に――『向伏最後の弱者の味方』と呼ばれた県会議員、森椎菜の名前があった。

 椎菜の後援会に、NGO時代からの支援者だというあのババアは何度も顔を出し、西高のみならず市内の公立学校にババアが掛けまくっている圧力について囁かれ始めた時、森椎菜はコメントした。

「彼女が地域の教育行政に長年誠実に取り組んで来た事を、私は証言します。根も葉もない誹謗中傷に負けず、今後も頑張って頂けるよう応援して行きたいです」

 何であいつとうちの母さんがつるんでいたのか、そんな政治的に正しい何かの事情は知らない。

 だけど、社会正義や政治的な正しさとやらが、私達の闇を照らす事は絶対にないのだと理解するには、それだけでも十分だった。

 森椎菜や新聞が書き立てる『寄り添うべき弱者』に、津衣菜の知る限りだけでも、二年間で五人いる、心身を破壊されて学校から消えた少年少女達は含まれていない。

 彼らはクラスやあいつらや私達の犠牲者で、学校や社会からその存在を揉み消され、私の母もそれに加担していた。

 あんな大人が作った社会なら、こいつらが大人になって作る社会なら、ここを出ても延々こうなんだ。

 友達を切り捨てて生き延びた私も、手いっぱいだった仕方がなかったと、聞く者もいない弁明に埋もれ、これからもこうして行くだけだろう。

「学校が社会に出た時の訓練」で「私自身もこの社会の一員」だというのはある意味で本当だ。

 めそめそ泣いた揚句、頭の中が赤ちゃんに戻っちゃったあの子なんて、ただの落伍者でしょ。

 私こそがこの社会の、この町の、この国の適応者だった筈。

 そして、それが、もうどうしようなく、うんざりだった。

 謝りながらこいつは泣いている。

 さっきまで女だった様な気がするけど、目の前で泣いているのは男の様な気がする。

 性別や年齢がバラバラに移り変わる。

 60歳位の老人だった様な気もするし、

 生者か死者なのかも、はっきりしない。

 西高ではない、ノーネクタイに黒ズボンのそいつは、泥だらけのくしゃくしゃな顔で、蛙の様に泣いている。

 どうして右腕を胸の前に出して、変な風に曲げているんだ。

 私が捻って、そうしてろと言った気がする。

 いや、そんな事言ってなくて、黙ってもぎ取ろうとしたんじゃなかったっけか。

 ていうか、いつまで泣いているんだろう。

 謝るのは良いけど、泣くのは良くないんだよね。

 ターゲットが泣いていると、私達が何か酷い事をしているみたいで、空気が悪くなる。

 ひたすら謝らせるか、無理にでも笑ってもらう。

 いつも私たちはそうやってきた。

 相手に笑わせて、私達も笑うのだ。

 笑い声は平和な集団生活の象徴だ。

 教師も、外の大人も、私達が笑い声を立てていると安心する。

 何の問題も起きず、みんなで仲良くやっているのだと、状況証拠が成立するから。

 泣くな、笑え。

 お前が泣いていたって、場の空気が悪くなって、みんなが迷惑するだけなんだ。

 お前の鳴き声に心を動かす人間など、もうここにはいない。

 謝りながら、さあ逃げろ逃げろ。

 目玉をぐるぐるあちこち見回しながら、舌を出して走れ。

 おまえをゆるすやつは、どこにもいない。

 その後ろ姿が何かとかぶる。

 去っていった人達。

 笑っていたはずなのに、いつの間にかそれに手を伸ばす。

 ねえ、どこにいくの

 いかないで

 いいえ、わたしもつれていって、そこへ

 笑い声はひずみ、重なり合って、別の音に変わって行く。

 ここには誰もいない。

 さっきまで泣いていた奴が、いなくなっている。

 さっきの場所じゃない、ここはどこだ。

 いいや、わたしはここにきたことがある。

 この音をいつかどこかで聞いた事がある。

 これは羽音だ。

 何十何百の虫が立てる、羽の振動。

 そうだ。

 半年前、ビルから飛び降りて死んだ私の、死体の耳元で飛び回っていた蠅の音。

 違う。

 私にじゃない。

 思い出せ。

 どうでもいい事みたいだけど、今は多分重大な事だ。




 津衣菜の視覚も、今は、目の前で乱舞する無数の蠅を認めていた。

 記憶も意識も混濁したままなのに関わらず、彼女は見覚えある場所に戻っていた。

 蠅は津衣菜にも容赦なく襲いかかり、カーテンの内側にまで入り込んでいた。

 乱暴に手で振り払いながら、その先の光景に叫び声を立ててしまった。

 蠅の群れの中心に、棺桶の様なアイスボックスが横たわり、その蓋が半開きになっている。

 蠅はそこへと集まっていたのだ。

「わあアああアアっ!?」

 髪を振り乱しながら、津衣菜は蠅の群れへ飛びかかる。

 ばっと散らばる様に、カーテンの外側へ黒い靄が広がった。

「花紀!」

 津衣菜は何度も花紀の名を呼びながら、左手も右手のギブスも振り上げる。

「あああああああ! どけっ、どけええっ、あっちいけよおおおおおおっ!」

 ようやく大半を追い払う事が出来て、津衣菜はアイスボックスへ詰め寄った。

「どの位こうしていたの? どれだけ集られたの?」

 津衣菜は焦った――正気の戻った声で、花紀を問い詰めてしまう。

 あの病院の中でさえも、津衣菜達は交代しながら花紀から蛆を摘み出していたのだ。

 声に反応して、花紀の右目がゆっくりと津衣菜に向けられた。

「どうして開けたの!?」

 花紀の反応を見て、一番の疑問が口に出る。

「……出ようとしたの? いや……逃げようとしたの?」

 無言で見返して来る花紀に、口元を震えさせながら掠れた声で聞いた。

 施錠してなかったとは言え、殆ど骨だけとなった腕で内側から開けるとなれば、渾身の力だっただろう。

 花紀はとても小さく口を開いた。

 口と言っても、唇も頬の肉も半分以上失い、顎の骨の動きまで見えているのが痛々し過ぎたが。

「…………」

 そこからの空気が漏れる様な音を、津衣菜は声として聞き取った。

「ほしを、みる?」

「ここのほし……きれい…だったね」

 続いた一言に、津衣菜は視線を泳がす。

 花紀は、ここがどこだか分かっている。

 津衣菜も覚えている。

 花紀はかつて、ここで暇な時は良く夜空を見上げていたと。

「夜空を……見たかったの?」

「うん」

 首も動かさず、正確には喉を鳴らしてさえいない『ふうっ』という空気音だった。

 津衣菜の声は、徐々に柔らかさを取り戻す。

「でも、今は昼間だよ」

「うん……ごめんなさい」

「見たければ、ちゃんと連れてってあげるよ。でもまだ早いし、今夜はちょっと我慢して」

 この分だと、生者の肉だけではない、薬ももっともっと必要だ。

 きっと今頃自分を探し回っている連中の前にも、こちらから出向かなければならなくなるだろう。

 自首する為じゃなく、通常の数倍の投与を続けられるだけの維持アンプルを、奪い取る為に。

 何故、数倍の投与なんかで『もっと保たせられる』と考えたのか、今逃げ回っているフロート達や対策部相手に『逆に薬を奪える』と考えたのか。

 津衣菜自身も自分の思考の異常さには、もう自覚がなかった。

「………」

「え?」

「………」

 今度は、二三回聞き返して、ようやく花紀の言葉が分かった。

「プラネタリウムも、みたかったね」

 彼女の言っているのが、織子山で見た球形のプラネタリウムホールの事だと、津衣菜が思い出すのに少しかかった。

「行こうよ」

 津衣菜は、あの日の様に(・・・・・・)優しげな声と微笑で呼びかける。

「全部解決して、夏が終わった頃にでも」

 全身に泥と埃の貼りつけた真っ黒な姿に、瞳に爛々とした金色を宿したままの笑みには、獰猛さと狂気しか浮かんでいなかったが。

 花紀の目には、殆ど見えていなかっただろうとしても。

「ううん、いい……の」

「いいって何? 身体を直して、そしたら、きちんと行けるようになるよ」

「ううん、そんなことより……ついにゃ、かえろうよ」

「え?」

 聞こえなかったのではなく、言っている事が理解出来なくて聞き返す。

「みんなのところに、もうかえろ。わたしさいごは、みんなや、ついにゃといっしょがいい」

「最後じゃないって、何度も言ってるじゃない! ほら、ちょっとうまく行かなかったけど、覚悟決めて……今度こそ」

「そんなかくご、いらないよ」

 薄灰色に濁った瞳は、それでもしっかりと津衣菜から離れなかった。

 津衣菜を見据えたまま、彼女の弁明をきっぱりと拒んだ。

「わたしがわたしじゃなくなる、ついにゃがついにゃじゃなくなる、そんなかくごなんて」

「違うよ花紀! そうじゃ……ナイっ……」

 ボックスの縁を割れそうな程に握りながら、津衣菜は言い返そうとする。

「津衣菜、覚えてる?」

 発音を一字一字はっきりと区切って、津衣菜の名前が呼ばれた。

「わたしは……わたしのまま、わたしのすきなひとのところに……わたしをすきでいてくれるひとのところに……もどりたい」

「だカら! 戻るたメに――」

「もどれなく……なることは……しないもん」

 津衣菜の張り上げた声は途切れる。

 その声も、普段より発音や抑揚が怪しく、きちんとコントロールされていない感じだった。

 生前とほとんど同じ喋り方になるまで、何十日もかかったのだ。

 それが、フロートとして復活した第一日目まで、戻ってしまったかの様だった。

「ソンナンじゃなイって……それレも、私らは普通の生きた人間と違うンダヨ……別に、大事な人のトココに帰るオに、人オ殺し食ってテタって構わないんだ」

 殺人鬼が幸せな場所に帰れないなんて、ただの誰かの願望だった。

 任務だから、隣国の人間は危険だから、正当防衛だから、証拠がないから、訴えられてないから。

 そんな理由で、大勢の人間を焼き殺しても、母親に赤ちゃんの首を絞めるよう強制しても、子供達の首を捥いで回っても。

 それで、家族の元に帰れなくなった奴なんて、いない。

「あの時は大変だったね」

 そんな言葉で笑いながら、優しい日々を取り戻し、善良な人間に戻ればいいだけの話だった。

 立件されなければ、法に問われなければ、結局何をどうしようが何の問題もなかったのだ。

 ここに生まれ育ったなら、そんな事は常識の筈。

 命の倫理だの良心の呵責の問題なんて、幻想でしかなかったのだから。

「大体ソンナノ、生者だッテ、ずト……そうやってテているジァない」

 そして、何よりも、私たちは死者なんだ。

 死者ならば、ますますもって、そんな生者の願望や幻想なんかとは無縁の筈だった。

 どれだけ花紀がそれを信じ、縋っていようとも。

 そんなこの子のありようが、どれだけ尊いものであっても。

 だから私が必要なんだ。

 この子の為にゴミを消費する、彼岸からの代理人が。

 その為に、私は死にぞこなっているんだ。

「ついにゃだって……ほんとうは、わかってるもの。だから……ほんとうには……できないの」

 更に何か言おうとしていた、津衣菜の口が止まる。

「デ……キ……ナイ………?」

 しばらく経って津衣菜が口にしたのは、一際しわがれた、低い掠れ声。

 喉と歯から絞り出す様な、軋んだ空気音だった。

「まちがっているって……わかるから……」

「動カナイって言うノ……? だからズット失敗スルって……ちが」

「そうだよ」

「違うっ!」

 津衣菜は更に軋んだ声で叫んだ。

 その声で、再びアイスボックスの周りを飛び回り始めた蠅が、散らばって逃げて行く。

「私ワ間違っゼナイ゛――間違イダなんデ思っデナイ゛! タマタマダッテ。次は失敗シナイから、カナラズ――」

「ダメだよ。もどれなく……なっちゃう………………津衣菜が」

「戻れナくナリソウなのはアンタだって! 私には、戻ルトコロなんて――」

 本当はこれまでだって聞こえていた。

 花紀の『ダメだよ』『やめよう』と言う声が。

 運んでいた時も、ここに辿り着いて、語りかけていた時も。

 必ず、花紀を癒せる、『いらない奴ら』をここへ連れて来ると約束していた時も。

 聞こえていたのに、聞いてはいなかった。

 その時、津衣菜は彼女を見ていなかった。

 だけど、いつかの段階で、説得しなければならないとは思っていた。

 『奴らのハラワタや脳みそを口に無理矢理押し込む』というのは避けたかったから。

「コノ世にワサ……あんたミタイな子や、あンタの好キナ人達ダケが……イルんじゃない」

 再び口を開いた津衣菜は、出来るだけ喋り方を思い出して、花紀へ語りかける。

 津衣菜の声が戻って来た様だったが、それでもかなりしわがれ、機械的な抑揚が占めていた。

「あんたを生かす為に、殺シテ良イ様ナ人間も存在するンダ。そういウノを何人食ってデも、保チコタエるんだ。ダッテ……帰るンデショ? 大事ナ人ノトコロヘ!」

「津衣菜は……やっぱり、なにも……わかってないよ……」

「いいや、ワカッテルヨ……カノリを救ウ為ニ、シナクチャイケナイコトヲ、ワタシワゼンブシッテル……」

 声に力が入ると同時に、また津衣菜の言葉から抑揚がなくなる。

 ボックスにしがみ付きながら花紀を覗き込んでいる津衣菜は、花紀を襲おうとしているようにすら見えた。

「ううん……ほんとうは、津衣菜が救われたがってるんだよ」

「エ………」

「それでいい、それでいいよ……かのりおねーさんも、ついにゃにすくわれてほしい……でもね」

 花紀は話している間、残っている顔半分の表情も変わらなかった。

 それだけ周りの腐敗が進行し、変える事が出来なくなっているのだとは一目瞭然だった。

 しかし、その時、津衣菜は花紀から睨まれた様に感じた。

「わたしをだれかのかわりにしないで」

「ナ……ナ……ナニイッテルノ……」

 津衣菜は、花紀を凝視したまま、もごもごと問いを繰り返した。

「わたしをきちんとみて。うめられないことのうめあわせにしないで」

「何言ッテルノヨ……見テル……ッテバアッ!」

 花紀を見下ろしたまま、津衣菜は肩から上を痙攣したみたいに震わせる。

 そんな津衣菜に花紀はもう何も言わなかった。

 無言のまま、彼女を見上げ返している。

「ヤメテヨ……」

 津衣菜は一言そう呟くと、這いずってボックスから離れ、低い声で唸る。

「ヤメテ……ソンナ目デ、見ナイデヨ……」

 直後、犬の様に身構えながら叫んでいた。

「見ルナアッ! ソンナザマデ……ワカッタコト言ウナアアアアアアッ!」


「余計に騒ぎ立てる事が問題を大きくするのです。それによって不快になる人もいます。子供じゃないのですから、この学校という社会に参加している、その一員であるという意識を持ちましょう。トラブルがあった時は、当人の問題である事が一番多いのです。個人の問題は個人で解決する事に努めましょう」


「――いじめが嫌なら、学校から出て行けばいいだろ。そうやって文句しか言わない奴が、一番分かっていないんだ」


 別に反論することもない。

 ただ、もううんざりだった。

 こんな未来ならこれ以上いらないし、こんな自分ならもういらない。

 そういう結論だっただけなんだ。


 四つん這いのままボックスの花紀を睨みつけていた津衣菜だが、やがて肩を縮めながら顔を下に向け、ううううと、ますます獣じみた唸り声を立て始める。

「ううううううう……ううう………う……ふふ……ふふふふ……はははっ」

 唸り声は次第に笑い声に変わって行く。

 津衣菜は、唐突に上半身を上げ、顔を花紀へ向けた。

「ソウダ……花紀……マダ信ジラレナインダヨネ。ワタシガ、何モ獲ッテ来テナイカラ……」

「ちがうよ……ね……待って…ついにゃ……」

 花紀は微かな声で津衣菜へ呼びかけるが、もう彼女の耳に入っている様子はなかった。

「確カニ邪魔バカリ入ッテタケド、コンナ言イ訳バカリジャ、信ジラレナイノモ仕方ナイヨネ。デモ大丈夫……今度コソキチント捕マエテ来ルカラ」

 ふらふらと立ち上がった津衣菜は、夢遊病者の様な足取りで出口へ向かう。

 真っ黒な顔にぎらつく金色の双眸。

 だけど、津衣菜が浮かべていた表情は、フロートにも……生前にも見せた事のない様な幼く安心しきった様な笑顔だった。

「ソシタラ認メテクレルヨネ。私ガ花紀オ救ウンダッテ」

「ついにゃ……つい…にゃぁ……………っぃ………ぁ……」

 何度も呼ばれる津衣菜の名は、もう樹木のざわめきに紛れて聞こえない。




 copyright ゆらぎからすin 小説家になろう

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