202日目(2)
202日目(2)
時計の針は、9時ちょうどを指していた。
午前か午後かは、津衣菜にも分からなかった。
わざわざスマホで確認するつもりにもならない。
「美也」
一人用のソファに身体を沈めていた美也に、小声で呼びかける。
薄く眼を開いた美也は、目の前に膝をついている津衣菜を見て、その視線の向けられた先に気付くと、戸惑いを浮かべる。
彼女の腕の中には、まだ灰色の皮のへばりついた骨が抱かれ続けていた。
身をよじって、津衣菜の視線から花紀の足を隠そうとする。
だが、津衣菜は右手のギブスで彼女を制して言った。
「起きて。手伝ってもらう」
「てつだ……う……?」
「連れ出すよ」
ぼんやりとした目で聞いていた美也は、数秒後に瞼を見開いた。
「つ―――」
再び津衣菜は右手を美也の前にかざす。
「一体何を……」
「花紀を助けるの。ここの奴らじゃ出来ない事」
小声で言い直した美也に、津衣菜は囁いた。
「津衣菜さん……」
美也は引強張った顔を小さく横に振った。
津衣菜が何をしようとしているのか、花紀に何をさせようとしているのか、何となく分かっていた。
「どうして?」
津衣菜は怒るでもなく、きょとんとした顔で美也に尋ねる。
「どうしてって……それだけは、ダメですよ……」
「どうして、そこまで我慢しなきゃならない?」
津衣菜は美也の目を覗き込む。
赤い瞳は揺れていたが、津衣菜の言葉を受け入れている様子じゃない。
「美也なら分かると思ったんだけど」
「私……が?」
「おかしいと思ってたでしょう……遥たちに騙されてるんじゃないかって」
美也の口元に力が入る。
目を見開いた彼女の視線に、津衣菜は頷き返す。
「あいつのルールは、私たちの為のものじゃない。あいつの都合でいいように使うものだ。生者の理屈で私達は救われない。あんただって知っている」
「そんな問題じゃないです。遥さんやコミュニティどうこうじゃなく、何よりも花紀さんが、そんな事は……」
「この子が望まなくてもやるのよ。例え恨まれようと、憎まれようと」
小声で食ってかかる美也に、津衣菜ははっきりとそう言い放つ。
少し経って、付け加えるように言いかけた。
「説得はする……花紀だってきっと、分かってくれる――」
「―――無茶苦茶言わないで下さい」
背後からの声が、津衣菜の言葉を遮った。
津衣菜は美也から一歩下がって、ゆっくりと身体の向きを移す。
花紀の横たわる台と津衣菜とを塞ぐ様に、キャスター上の千尋、その横に日香里が立っていた。
「黙って聞いてれば、ホント、いい加減にしてほしいすね」
うつ伏せに寝たままの千尋に、津衣菜は低い声で返す。
「たまたま聞こえる様な大声で、話してたつもりはないけど」
津衣菜の嫌味に構わず、日香里が一歩進みながら尋ねた。
「津衣菜さん、苗海町で見たものを忘れてしまったんですか?」
「あの、教会に住みついた連中……教会裏の小屋……のこと?」
「分かってるのなら!」
抑えながらも声が高くなった日香里。
だが、津衣菜は彼女の顔を見ながら、更に尋ねる。
「あんたは対策部の研究所で、何を見て、何を忘れて来たの?」
「え?」
「発現者は人間を食う事で、ある程度は実際に苦痛も緩和する。進行も押さえられる。もし一定量を継続して摂った場合、回復する可能性もあると」
日香里は表情を失くし、津衣菜を凝視する。
「そんな話、どこで……」
「対策部の研究部門の、最新の報告書ではそうなんでしょ? あんたもそれを聞いた筈だ……『忘れろ』って言われたの? 遥に」
「だから、そっちに賭けるって言うんすか……花紀姉さんの願いも踏みにじって、穢して」
「何度でも言うけど、あの子の為よ」
「自分の為だろ。自分の心の隙間を埋めたいだけ……姉さんのことを何も考えてない、先輩の独りよがりな夢の為!」
千尋が津衣菜を詰る声は、室内に響いた。
すぐに抑えた声で、すみませんと日香里に謝る。
「あの、津衣菜さんが思う以上に、ここの監視は厳重なんです。絶対に逃げられません」
背後から聞こえる美也の声。
花紀の足首を抱いたまま、美也は立ち上がって津衣菜の背中に声をかける。
強気ではないが、さっきまでの迷いもない自信の感じられる声。
「もしここを出ても、外には、梨乃さんや雪子さん、匠くんもいます……私がここへ来る前、花紀さんのことも話し合いました」
美也は、津衣菜のすぐ後ろに立ち、静かな声で続ける。
「思い詰めて行動に出る人もいるかもしれないって」
素早く踵を返した津衣菜は、美也の袖を左手で掴んでしまう。
「あんた……」
「その時どうするかも、決めておかないといけないって」
津衣菜の変化に怖気ずく様子もなく、冷静に美也は見返した。
「あんたらだって自分達の為じゃないの……私よりも花紀の事思っているみたいなこと言わないで」
津衣菜は吐き捨てるように言うと、足を三人のいない左方向に向ける。
そのまま彼女達から離れた壁際へ向かって、足を引きずるように歩いて行く。
「花紀さんにこんな会話も、津衣菜さんが連れて行かれるのも見せたくありません。自分で自分を見つめ直して下さい」
後ろから日香里の声が追い打ちをかけ、千尋がそれに続いた。
「僕たちも先輩をきちんと見てるっすから」
それから、多分だが一日半ぐらいが過ぎた。
三回、花紀が呻きながら暴れて、総がかりで押さえ投薬した。
呻きながらだ――もう叫ぶ力も、胸や腹の筋肉も残っていない。
首から上は腐敗の進行状況に変化はなかった。
彼女の顔右半分は、むしろ異様な程に可愛らしさを残していた。
津衣菜が予想していた、自分への処罰や非難は、一日経っても全然見られない。
日香里たちは、津衣菜について遥や他のフロートに喋っていなかった様だ。
あの時に言った通り、花紀に配慮して彼女達だけの胸にしまっておくつもりらしい。
嵐が過ぎ、静かになった薄暗い検体室。
近くに誰もいないが、複数の視線は感じる。
三人の少女達は、津衣菜から注意を外してはいないらしかった。
部屋の隅に座り込んだままの津衣菜は、気にしないそぶりでスマホを開く。
自分に賛成するフロートを数人集め、彼らと一緒に、花紀を連れ出す。
連れ出して、そして――
漠然と思い描いていた稚拙なプラン。
本気で成功すると思っていたのか自分でも定かじゃない。
だが、実際に失敗して、次どうすればいいのか彼女には分からなくなっていた。
諦めるという選択肢はない。それだけははっきりしていた。
メインのメールボックスには、椎菜からのメールばかりが二百通以上も溜まっていた。
フロート同士のメールは相手ごとのラベルでカテゴリ分けしていたし、そもそもそんなに多くない。
彼女のメールアドレスを親指でタップすると、送信フォームが現れる。
本文欄に文字を入れようとする。
「ど」「う」
次の瞬間、素早く文字を削除すると送信フォームを閉じてしまう。
画面も消し、スマホを傍らの床に置くと、両手で膝を抱えた。
何故、今、彼女に相談しようとしたのか。
自分でも分からなかったが、2分以上経ってから、津衣菜は口に出さずに呟いた。
「この人に、何が出来る」
自分の母親、森椎菜が具体的にどんな仕事をしていたのかは知らないけど、どんな評価を受けていたのか、本当はある程度知っていた。
遥や高地の前では、それすら知らないふりをしたが。
「弱者の味方。不平等や抑圧と戦う人権の守護者。この街での抵抗勢力の最後の希望。この人をそんな風に言って持ち上げる大人たちがいたのは知っている」
敵も多かったし、持ち上げる声以上に非難や誹謗中傷も多かった。
それでも、どっちかと言えば、支持する声の方がより正確で現実的な評価だろうとは思っていた。
森椎菜は確かに、向伏の地元議員の中では稀有な位に、『弱者寄り』であり『人権や平等の味方』と言える人物だっただろう。
「だけど、あの人は、自分のキャリアになる正義や弱者にしか関心がなかった」
心の中の声は素早く、津衣菜の意識を滑って行く。
「彼女の視界にあった『解決すべき問題』はわずかな種類に限られていた。もっとも、それは彼女だけの事じゃない」
それがどうかしたの?
あまりそういう問題に矮小化するのも、私たちの問題上、どうかと思うのよ。
彼女達の話す『人権』や『平等』は、『現代』の『改革』とかは、
私たちのいた所までは降りて来なかった。
かたんと、物音が響いて津衣菜は顔を上げた。
さっきまで感じていた視線は消え失せている。
室内を見回して津衣菜は、揃って眠る少女達に苦笑する。
次に、音のした場所――花紀の台の横で床に落ちた小さなピンセットを見る。
つまり、固定されたままの花紀が身じろぎしたのだ。
気付いた津衣菜は立ち上がり、台へと駆け寄る。
髪に覆い隠された左顔を下に傾け、花紀の丸い右目が津衣菜を捉える。
彼女が正気で、状況も安定しているのを知り、津衣菜は安堵しながら優しく尋ねる。
「起きたの?」
「うん」
「今の具合はどう? あまり痛くないかな……?」
「凄くじゃないけど痛い……さっきまで凄く苦しくなった」
「え? だって何も声を――」
「声も……出なかったの……多分もう、あまり……」
思わず津衣菜が声を失う。
「それで、身体を動かしたの……」
「また意識が変わって……いろんなことをわすれそうになって……だから」
首を傾げる津衣菜に、花紀は顔を少し動かして、右目で台の下に置かれたバッグを示す。
花紀の視線に気付き、津衣菜はバッグを拾い上げて花紀の目の前へ掲げる。
「うん……」
花紀は喉で頷くと、腕をもぞもぞと動かす。
袖口から出ている手首の、腐った真っ黒な皮膚は僅かな動きで剥がれそうだった。
ベルトを外さない限りバッグへは手が届かないが、今の花紀では外すのも怖かった。
「無理はしないで」
津衣菜は言いながら、取っ手を右のギブスに掛けてバッグの中に手を突っ込む。
「あんたに悪いけど、代わりに取るから……ほしい……ものを……」
言いかけた津衣菜の言葉が途中で途切れる。
バッグの中に入っている物は、一つしかなかった。
彼女が欲しがっていた物はこれしかないと、認めるしかない。
津衣菜は表情を消してそれを取り出した。
何故ここにこんなものが持ち込まれているのか。
ここへ収容されたフロートからは、残らず押収された筈じゃなかったのか。
花紀は津衣菜の手にある自分のショートリボルバーを見て、掠れた声を上げる。
「もしも……もしものとき……にはね」
津衣菜が手元の銃を凝視している間に、花紀は言葉を続けた。
「次の班長に……ついにゃーを……指名します……そして、それでおねが」
「―――な」
「……映画とおなじだよ、ついな……ゾンビの弱点は頭部なの」
「ふざけんなっ!」
銃を握ったまま津衣菜は怒鳴った。
その声で、室内で眠っていたフロートが次々と目を開く。
その内の何人かは、銃を構えて花紀の横に立つ津衣菜を見て、慌てて立ち上がる。
「津衣菜……おこってるの?」
「そうじゃない……あんたは……そうじゃないだろ。あんたが生き返ってあんたの場所に帰るって夢に向かってなければ、私はどうしたらいいのか分かんないよ」
左手の銃を顔の前まで上げて、津衣菜は花紀を見下ろす。
「どうしてもこれを使えって言うなら……私はあんたを生かす為に使う。いなくてもいい奴に……いない方がいい奴らに、こいつを向ける」
「やめてっ!」
小さな声でだが、花紀は怒りの声を上げる。
津衣菜は視線を銃口から花紀へ戻す。
津衣菜へ駆け寄ろうとしていた鏡子や日香里、医療班のフロートもその声で足を止めた。
「ごめんねついにゃ……すこしこわくなって……こんなこともう言わない……だから……ついにゃーも……もうそんなこと言わないで」
津衣菜は答えない。
だが無言のまま銃を下ろし、床に置いた鞄に放り込む。
「何してやがんだ、このクソ自殺女」
ゆっくり近付いて来た鏡子が、険しい表情で津衣菜を睨みつける。
津衣菜は銃の落ちた鞄の中に視線を落したまま、黙っている。
「無視してんじゃねえよ、答えろ」
「これが何でここにあるの。あんた、知ってただろ」
口を開いた津衣菜は鏡子へ聞き返す。
「ああ!?」
「あーじゃなくて、何でここにこれがあるのって聞いている」
「お前に関係あるかよ。何しようとしてやがった、それで自殺するってんなら手伝ってやるけどよ……」
「花紀にも?」
津衣菜の問いに、鏡子は言葉を呑み込む。
「花紀に頼まれたら、あの銃であの子を撃つつもりだったの?」
「だって……どうしようもない時だって……あるだろ……遥さんからも」
「そんなものが、『あんたの役割』とやらだったの? 呆れるね」
鏡子は、覗き込んで来る様な津衣菜の目から、身体ごとそらして後退する。
明らかに、津衣菜の金色の目は、彼女を嘲っていた。
「私は、あんたとは違う。花紀をそんなものに易々と引き渡したりしない、絶対に……」
津衣菜は鏡子に背を向けると、悲しげな目の花紀へ視線を戻し、静かに髪を数回撫でた。
「津衣菜……おねがい……こたえて……さっきみたいな事はもう言わないって」
「大丈夫だよ、花紀」
津衣菜は珍しい程の微笑みを浮かべ、優しい声で花紀に答えた。
「助けてあげる。あんたのバッドエンドなんて跳ね返してあげるから」
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