200日目(1)
200日目(1)
蛍光灯が二つおきにしか点いていない暗い通路を、美也は歩いて行く。
付き当たりの階段室の手前で、遥が待っていた。
彼女も美也と同じく、スーツ姿の対策部職員に付き添われている。
「お疲れ様です」
「まあね……そっちも色々大変だったよね」
遥がそう返すと美也は無言で顔を伏せる。
頷いたようにも見えるが、どことなく微妙な反応だった。
「大変なんてもんじゃないすよ。僕なんかまさに人間凶器って感じの活躍を――」
美也の後ろから、カラカラというキャスターの音。
銀色の台に横たわったままの千尋が口を挟む。
「ああ聞いてるよ。ロープアクションで雪子の境地を実体験したんだって?」
「そうっす。僕と雪子はあの一瞬、まさしく一心同体となって、あの変態クソ野郎を着実に窮地へ」
「盛る盛る……ククク、じゃあ、これからはそれで頑張ってもらおうかね。直す手間もいらんし」
「いやそれは勘弁して下さい。あの一体感も尊いですが、やっぱり僕には僕の戦い方ってものが」
「その分だと、あまり凹んではないみたいだね」
遥の言葉に、美也と千尋は顔を見合わせ、薄く微笑む。
「遥さん、私たち、一年以上ここで一緒だったじゃないですか」
「うん」
「自分で手に掛けるのが初めてだっただけで、何度も見て来た事です」
「何人だった?」
「十七人です」
「どこに?」
「鍾乳洞北側の採石場にショベルカー……ユンボっていうんですか? がありましたので、それを使って――」
淡々とした口調で尋ねる遥に、淡々と答える美也。
「そして、四人だけ残った」
「はい。雪子さん達も無事だとは思いますが、みんなのスマホが壊れてしまい、連絡も今の所」
対策部の監視の中、示し合わせたやり取りを交わす二人。
雪子と梨乃、もみじとぽぷらや稲荷神社の子供達は、外で隠れていると事前に伝えてあった。
勿論、AAAから受け取っていたデータや書類についても、既に話は済ませてある。
遥達と合流する為に、この医大付属病院へ姿を見せたのは四人だけだった。
千尋の台を二人がかりで押している白衣の女性は、生きた人間ではなかった。
更にその後ろを、深緑色の帽子と作業服姿の男が二人ついて来ている。
女性たちが階段を降りる為に台のキャスター部分を折り畳むと、彼らも台前方を持つのを手伝った。
横たわった千尋の身体は、ベルトで固定されている。
遥が先頭に立って階段を降りる。
階段の照明も光量を落としてある。
足元が見えない程ではなかったが、かなり暗い。
「じゃあ、丸さんや匠くんも」
「そう、ヘリで拾えなかった。どの辺逃げ回ってるんだか」
遥は背後の美也の問いに答える。
これも示し合わせてある嘘だった。
対策部と行動を共にし続ければこうなるというのを見越し、彼らは最初からヘリには乗せなかった。
山中を逃げ回らせ、今は、市内外に散らばっている他のフロート達の安否確認とフォローを任せてある。
「市中央の総合病院よりも大きいですね……でも、大学病院の地下にこんな所があったなんて」
「本来は、献体の保管や大学の解剖教習に使うエリアみたいだけどね。今は使ってないし、外と繋がってもいないんだってさ」
「向伏の対策部は、今までここにフロートを……」
「だね。私も、こんな所があるだろうとは思ってたけど、実際に来たのは初めてだよ」
地下階への入口に、黒スーツの女が立っている。
上の廊下でも何度か、立哨している対策部の人間を見かけた。
一見自由そうにしていても遥達は、対策部によってこの病院の地下区画に軟禁されているのだ。
これからは、美也達もそれに加わる事になる。
「こういう状況だから……千尋の修理は、ちょっと待ってほしいんだわ」
「『修理』って……僕、ひょっとしてロボ扱いですか。まあ、構わないっすけど」
「それで――何か、変化はありましたか?」
「変わった事は何もないね……私らの知ってる事しか起きていない」
遥の答えに、美也は沈黙する。
聞こえないふりをしていても、ここまで来ると、はっきりと聞こえていた。
ざわめきの様な複数の叫ぶ声と、途切れることなく続く一つの絶叫が。
それは廊下へのドアを開けた時、鮮明さを増す。
「花紀! 花紀! 見える? 苦しかったら私に掴まってて……大丈夫、大丈夫だから!」
「頼む……手を! 落ち着いてくれ! 痛くねえって! 頼むぜクソッタレ!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛い゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛が あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛お゛あ゛あ゛あ゛あ゛ば あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
フローティア 最終章
第11章 「フローティア」
台の上、幾つものベルトで全身を拘束された花紀は、今にもそれらを引き千切ってしまいそうだった。
何度も痙攣しながら暴れる両腕は、指先から半袖の中までどす黒く変色し、いくつもの傷口から白い虫と腐汁が滲み出ている。
着ていたワンピースはドロドロに汚れ、両足は既に肉が腐り落ちかけていた。
だが、こちらも骨だけになっても続けそうな勢いで、ベルトをガチャガチャ揺らしている。
そんな花紀に、叫ぶように呼びかけながら津衣菜と鏡子が押さえつけていた。
津衣菜が右手のギブスまで使って、上半身全体で彼女の肩を押さえ、鏡子は彼女の腰をやはり上半身で押さえながら、脇腹に何か注射しようとしている。
扉を開けて入って来た、美也と千尋にも気付かなかった。
「う゛あああああ゛あ゛……あ゛あうう゛う……うううああ……」
「痛くないでしょ? 頑張って、大丈夫だから、絶対良くなるから」
津衣菜は優しい声と笑顔を作って、呻き続けている花紀へ語りかける。
じたばたと暴れていた花紀の動きが止まった。
台の周りで待機していた成人女性のフロート数人が、花紀の身体中に注射や、塗布、様々な応急処置を始める。
髪を振り乱していた花紀の顔、右半分は元のままの少女の寝顔だった。
しかし、左半分は茶灰色の皮膚がぶよぶよとふやけ、溶けかけた皮下脂肪の上で波打っている。
眼球もとっくに落ち、頬から顎骨の奥が覗いていた。
彼女が暴れて叫ぶたび、腐った部分の裂け目や溶け落ちは広がっている様だ。
「身体を、拭いて……シートと衣類を、替えましょう……」
日香里がそう言いながら、ハサミを手に花紀へ近付く。
「あ、ああ、そうだな……待っててくんない……?」
一仕事終えてぐったりしかけていた鏡子が、慌てた声でそう言いながらも、のろのろとした動作で立ち上がる。
続いて、津衣菜も部屋の隅へ行って、大量の布や防腐シートを片手に抱えて持って来る。
津衣菜の顔から、さっきまで花紀に見せていた笑みは、すっかり消え失せていた。
それだけではない。
手慣れた動作で残っている皮膚の水分を拭き、蛆を摘み出し、シートを貼って行く作業をこなす津衣菜は、その間一言も喋る事はなかった。
「ありがとうございます……津衣菜さん」
作業を一通り終えると、日香里の労いの声にも答えず、背を向けて歩き出す。
美也と千尋の姿も視界に入った筈だが、彼女の瞳は全く反応を見せなかった。
ずっ……ずずっ……
引きずるような足音と共に部屋の隅へ行くと、そのままそこにしゃがみ込んだ。
虚ろな目でじっと花紀の横たわる台を見つめている。
「あれでも、花紀の声がしたら、またダダダって駆けて来るから」
「これで……何日目なんですか?」
ようやく美也が口を開いた。
花紀が暴れている間も、その後の作業の間でも、美也と千尋は無言でその光景を凝視していた。
「ちょうど一週間だよ、あの子らは頑張ってて、ずっとあんな感じさ」
「花紀さんは」
「倒れてからどんどん症状は進んで、良くなった所はない。私らの知ってる通りにね」
私には、もう見る夢はない。
この数日の記憶はバラバラで、順番もはっきりしていない。
今が何日なのかも分からないし、そんな事に関心も持てなかった。
花紀が叫ぶ声、何度も台の上で跳ね暴れる姿。
彼女の傷を塞げない事。
幾ら取っても虫が湧いてくる事。
薬を何度も身体中に塗ってあげた事。
それでもどんどん広がって行く、嫌な色の事。
そんなものが何度も意識の上に散らばっては、新たに増えて行く。
「迷惑かけちゃったよう、ごめんね……」
突然差し挟まれる、悲しい声。
苦痛が沈静化してしばらく経つと、突然、花紀の意識が戻る事もあった。
「本当にごめんなさい……せっかくいい事あったのに」
「花紀が謝る事なんて何もないじゃない」
「そうだぞ、花紀はそんな事気にしなくていいんだ、余計な心配しないで後はあたしらに任せろ」
「いてくれるだけでいいの。それとね、出来るだけいい子にしてるから……もう少し、ここにいさせてほしいの、それが花紀お姉さんからみんなへのお願いです」
「花紀……」
「それが、あんたの希望なんだね。分かった」
何故かその時だけ、静かな声で花紀に言葉を掛けた遥。
「では、最終処置は」
「そういう事さ。あの子は自分へのとどめを拒否した」
「出来るだけここにいる……ここで、苦しみ続けるっていうんですか」
「あまり暴れ過ぎる様なら、希望に沿うって訳にも行かんし、あの子の気が変わるって事もあるかもしれんけどね」
一旦部屋を出て、廊下で遥と美也は話を続ける。
「やっぱりすか」
千尋が呟く様に言うと、遥は彼女に視線を移す。
「あんたは予想出来たのかい? 花紀がそうするって」
「何となくっすけど。こんな時、花紀姉さんは、最後まで頑張りたがるんじゃないかなって」
「そうですね……言われてみれば、私も花紀さんはそうだなって思います」
遠くを見る様な表情を浮かべた美也の横顔を見て、遥は尋ねる。
「あんたでやろうと思ってたんか、あの子の処置」
「ええ、まあ……猟銃は置いて来ましたけど、ありますよね、あれ?」
「まあね。でも曽根木さんのしかないよ。私も置いてくしかなかったし、ましてあの子のも……ていうか、あってもあんたには使わせんよ」
「そうですか……」
「あんた、ちょっと変わったかもね」
「どうでしょう……やっぱりそうですね。麻痺しちゃってるのかもしれません」
「私らは元々麻痺してるだろう」
遥は茶化す様に笑い、その後にかぶりを振った。
「そうじゃなくて、あんたはもっと、なすがままあるがままで、何にも関わらず引きこもりたがってた様な気がするんだけど」
「そうですね、生者に干渉されない、皆の静かに過ごせる場所を作りたいと思った。それは変わってません。でも……それって、残酷でなくちゃ出来ない事ですよね。私はそれを知ったんです」
遥の問いに美也は愁いを含んだ微笑で答えた。
「遥さんは、知っていたんですね」
「口で教えられる事じゃないから、微妙にムダ知識っぽいけどね」
遥はそう言って頷く。
「すばらしい。何のマニュアルもなしに、これだけの連携が取れるのか」
何日目の事だったか、首から二枚のIDカードをぶら下げた白衣とマスクの男達が、場違いな笑い声と共にぞろぞろと入室して来た。
一枚はこの大学病院のカード、もう一枚は『指定変異対策局』の関係者のカード。
両方がない者は、このエリアには立ち入れない様になっていた。
「末期の第一種変異症者への対応は、部局内でも施設ごとに対応がまちまちでね、ボロボロになるまで手荒に扱っている所があると思えば、暴れてるのをまともに押さえる事も出来なかったりとか」
鏡子や津衣菜に向かって話しかけているらしい男は、後ろの者が用意したモニターで、さっきまでの室内を撮った映像を再生する。
「仲間同士だからなのかね、触れちゃいけない所と押さえるべき所をここまでしっかり心得て、末期の腐乱死体を適切に扱えるのは――だが、我々もこの動きは学ばなくては」
室内でぐったりと座り込んでいるフロート達に、男の声に答える者はいない。
男は落ち着きなく辺りを見回して、津衣菜に視線を止めた。
「ねえ、君でいいや。君も第二種の変異体だよね。少し聞きたい事が――」
男の声は言葉途中で途切れた。
津衣菜は動かない。顔も上げずに視線を少し上げただけだった。
それでも、白衣の男達は全員が、自分達に向けられている尋常ではない殺気を感じ取る事が出来たらしい。
「おや、お帰りかい」
彼らが慌ただしく出口に向かうと、扉の横に立っていた遥は一言、苦笑混じりの声をかける。
「み、みなさん、お、お疲れの様ですからね。また後日聞かせてもらうとしますよ」
そう答えながらもすっかり逃げ足になっている彼らを、遥は小さく手を振って見送った。
廊下の足音が遠ざかり聞こえなくなると、遥は花紀の横たわる台へと一人近付いて行った。
虚ろな目を台へ向けている津衣菜は、彼女が花紀にかけている声を聞いているのかいないのか、傍目には見分けがつかない。
「どうか、花紀さんの最後が悲し過ぎたり、苦し過ぎたりしない様にと願います」
美也の言葉に、千尋も頷く。
「僕もそうっす。梨乃さんにも雪子にも、聞いときました。同じ答えです」
「そうだね。戸塚山班だけでも、去年一昨年で数人出てたもんね。花紀が来た頃からなくなってたけど――当時からの子達は、みんな冷静か」
「仕方ないですよ。『フロートは泣けない』んですから」
「それ言ったのも花紀だったね。私も、上手い事言うと思ったよ」
「私たちは花紀さんのその言葉を汲んで、最後まで一緒に頑張ってあげなくちゃと思うんです」
「これも一致してる話なんすけど……不安なのはむしろ、津衣菜先輩っす」
「ああ、まあね……」
「ずっと、ああなんですね? 津衣菜さん」
「そうさね。花紀としか喋らない……花紀の声しか聞いてないし、花紀しか見えていないのかもしれないね」
「え……まさかそこまでは……いや、そこまでかもしれない……っすかね」
「津衣菜さんは、自分がここにいる理由も花紀さんの為なんだって言っていました」
「そう思いたいのさ」
「それって、悪い事なんでしょうか?」
「悪くはないかもしれないけど、いつかは目を背けず、自覚しなくちゃいけない事だろう?」
「でも、こんな時に問われなくちゃいけない事なんでしょうか?」
「別に津衣菜の試練の為に、花紀はああなった訳じゃない」
遥が少しトーンの低い声でそう答えた。
「こんな時もくそもないさ。私らがどんなつもりでいようが、そんなの関係なしでフロートは現れ、狩られ、発現するのさ。生きている人間だってそうだろう?」
美也は無言のまま遥をじっと見返す。
彼女の視線を受け止めながら、遥は続けて言った。
「あんただけの話じゃないけど、何にでも『相応の因果がある』と思い過ぎたらいかんと思うよ」
「そうっすね……先輩も、そういう拘り強そうっすね。自殺とかするくせに、ムダな所でメンタル強いんすよ、あの人」
「津衣菜さんは、何でもしようとするでしょうね……花紀さんを救えると思ったなら」
「この結末を受け入れない為ならね」
「ねえ花紀、こんなのおかしいよね。どうしてあんたがこんな目にあうのさ」
どこから入り込んだのか、ずっと蝿の羽音が響いている。
津衣菜が話しかけると、花紀の右目がうっすらと開いた。
津衣菜を見ているのかどうか分からなかったが、首が微かに動く。
「おかしいよね。こんな目に会う奴なら、他にいくらでもいるでしょう?」
優しい声で津衣菜は花紀に聞く。
虚ろな瞳に、澱の様なオレンジの鈍光が宿る。
「何かがすごく歪んでる感じする、そうでしょう?」
腐敗の進行した部分の皮膚を傷つけない様に、弾力を失いかけた右側の髪を愛おしげに撫ぜた。
花紀の頭を撫でながら津衣菜は笑い、囁く様に話しかける。
「考えたんだよ、私。やっぱり何かがバグってるんだ。だからあんたが発現したりするんだ。発現して腐るべき奴は他にいるんだ。直さなくちゃ。私があんたを助けなくちゃいけないんだって」
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