192日目(4)
192日目(4)
さっきワゴンが突っ込んだテラス側の反対側に当たる、木張りの壁に小さな窓が並んだ面。
1階屋根の中から2階の長いバルコニーが突き出している。
屋根まで梯子を掛け、屋根からバルコニーまでの間も、AAAの突入メンバーは軽々と登って行く。
最後の二人の男性が、千切れかけた下半身ごとケースに収められた状態の千尋を、器用に運び上げた。
「あの……」
「うん? なあに?」
バルコニー端の扉が解錠されている事を確かめ、中の様子を覗き込んでいた鎖弓。
千尋からの声に振り返り、優しげに聞き返す。
「そろそろ、どうして僕も連れて来たのか、聞いていいですか?」
「あら、一刻も早く雪子ちゃんを助けに行きたいでしょう?」
「確かにそうですが……今の僕では……」
「『スラッシャー』は、瓦礫の中に潜って来て、雪子ちゃんを連れて行ったのよね?」
「え? は、はい」
「千尋ちゃんの目の前で」
「はい」
「キモイ顔で笑いながら」
「ええ、キモかったっす……何ていうか、思ったより顔自体は綺麗だったんですけど、中身のヤバさがモロに出てるみたいな」
「綺麗な顔、だった」
鎖弓は千尋の言葉を抜き出して、繰り返し呟いて見せた。
「それが何か……」
「千尋ちゃん」
「はい」
鎖弓は苦笑しながら、千尋に言った。
「私たちはね、誰一人『スラッシャー』の顔を知らないの。マスク姿しか見た事ないのよ」
「えっ……」
「千尋ちゃんが連れて来られた理由、分かったかしら?」
「僕だけが……あいつの顔を見ているから」
千尋がそう答えると、にっと笑いながら鎖弓は頷いた。
左手と左足をついて、右半身はステンレスの上にへばりつかせて、雪子は『スラッシャー』から目を離さない。
「ううん、いいっ、素晴らしいよ、その非対称」
身体半分を浮かせた雪子は、解剖台の上で両肩を斜線にしていた。
たんっ
鋭く軽い音と共に、彼女の姿は台上から消えた。
次の瞬間、手前の床上を彼女の身体は滑っていく。
その目の前へ『スラッシャー』は踏み込むと、山刀みたいなナイフを彼女の頭上へ降り降ろす。
彼女は斜め後方に滑って斬撃を避け、床から拾った数センチ程度の小さいナイフを、彼へと投げつける。
きんっ
金属音と共に、簡単に彼のナイフでそれは弾き飛ばされた。
「その感じだ。遠慮せずにどんどん使ってよ。そのつもりで落としておいたんだから」
彼女は床を這いずったまま、更に彼から距離を取り、じりじりと向きを変えて行く。
彼は彼女の視線から逃げる様に、室内を横へと歩いて行きながら、やはり彼女を見続けていた。
だっ、だだだっ
左足で床を蹴って、一歩二歩と、彼女は彼との距離を詰める。
左手の人差し指と親指は口の端の糸を摘み、一気に引き抜いていた。
彼女の身体は一気に飛びあがり、低い放物線を描きながら、彼へ向かって行く。
顔いっぱいの巨大な口を開き、彼の手首を狙って。
かしゃんっ
耳慣れない金属音。彼は突然ナイフを前へ放り投げていた。
その落下音ではない。彼のシャツの袖口から右手が変形したかのように見えた。
そして、彼女の左目の眼球は綺麗にくり抜かれていた。
ざあああああっ
「…………!」
着地した雪子は、床を滑る様に彼から離れつつ、残った右目で彼の手を食い入る様に見ている。
右手の袖口から、四本の奇怪な形状の刃が掌を囲みながら伸びていた。
指のリングからの極細の鎖で、角度や長さも調節できるらしい。
先端で曲がった刃先は、他の刃と交差し、明後日の方向を向いている。
その中の一本の先に串刺しになった白い球体。
「珍しいでしょう、この暗器。僕のコレクションの中でも、本当に大好きな一品なんだよ」
心の底から嬉しそうな声で、『スラッシャー』は雪子に解説を始めた。
「僕が『スラッシャー』なんて呼ばれる様になった理由もこれ。ゾンビ狩りにはいつもこれを着けて行って、ゾンビ共を美しくスラッシュしていたからさ」
彼は左手を刃先に近付けると、優雅な手つきで眼球を引き抜いて指先に転がす。
「ああ、雪子ちゃんの目玉だ。なんて可愛らしい、このまま食べちゃいたいくらいだ……いけないいけない」
とろんとした目つきで、何度も雪子の眼球に唇や舌を当てていた彼だが、かぶりを振りながら顔を離す。
「すぐに防腐処置しないと。切り離された変異体のパーツは、とても腐るのが早いんだもの。雪子ちゃんの右手右足は本当に残念だった」
左手を胸に抱える様にして、彼は目を泳がせる。その視線は部屋の隅の薬品棚に止まった。
「その事も反省して、あれから僕はもっと勉強したんだよ、君達について」
彼は躊躇わず、つかつかと棚へと向かって行く。
「切り離された部位だけじゃない。君達の一番の弱点は……そう、頭だ。一種も二種も変異体は、頭を潰されたら終わりだ。何故なのか、それまでは脳が生きているという事なのか。呆れた事に、その謎は未だに解明されていないんだよね」
刃を再び袖口にしまった右手で棚のガラス戸を引き開けると、空のガラス瓶と茶色い薬品の瓶を一つずつ取り出して、手前の台に置く。
「だって、変異体の頭蓋を開いて脳が外気に触れたとたん、ぐずぐずに崩れて腐り始めてしまうんだから。調べる事も出来ない。開かずにスキャンした限りでは、ただの死体の脳と同じ状態にしか見えないんだよ」
少量の薬品をガラス瓶に注いで、解剖台近くの蛇口の水で薄め、そこに雪子の眼球を入れて蓋を締める。
液体の中にゆっくりと沈んで行く眼球を見て、満足げに微笑んでから再び部屋を見渡す。
室内に雪子の姿は微塵もなかった。
「うん、そうだね。どこに隠れているかすぐ分かる様じゃ、勝負にはならない。僕が完全に油断したその瞬間、一撃必殺。そうでなくては君に勝機なんかないからね」
彼は頷きながら、新たな標本を棚に収める。
「どこかで君は僕をじいっと見守っているんだ。それを思うだけでも僕は幸せになるよ。わくわくして来たなあ」
床のナイフを一本右手で拾い上げると、彼は出口扉に向かう。
「その瞬間を楽しみにしているよ。僕はまず、頼りない仲間達の応援に行くとするか。ぼやぼやしていると、君の仲間が先に解体されちゃうかもね」
扉を開けて独り言の様にそう言ってから、廊下へと出て行った。
「前に来ました! どうしますか、そっちの部屋に……」
美也の声に梨乃は答えず、ハンマーを構えながら突進して行く。
廊下の突き当たりからバラバラと現れた男達は、『アーマゲドンクラブ南関東』公式サイトの写真そのままに、ホッケーマスクやガスマスクを被って、手に斧やハンマーを構え持っていた。
しかし、梨乃のハンマーは、見た目の破壊力がケタ違いだった。
だんっ!
床を蹴って、彼らの目の前の宙空でハンマーを振りかぶる梨乃。
彼らも悲鳴を上げながら左右に散る以外、出来る事はなかった。
「はしれ!」
累が叫ぶ。身を縮めている彼らの横を、三人の子供達が駆け抜けた。
「……あ」
美也の目の前で、体勢を取り戻しかけた彼らが廊下に立ち塞がり始めていた。
もみじとぽぷら、美也、フナコシの四人は、動きが遅過ぎたのだ。
「どいて下さい!」
美也は怒鳴りながら、人質兼案内役の青年の袖を掴んで前に立てる。
彼らの動きが止まる。
「す……すみません。どうかお願いします」
青年も前方の彼らに謝りつつ懇願する。
彼らの表情は見えないが、困惑している様にも見えた。
後ろでも、さっきから彼女達を追っていた足音が近付いて来る。
挟み撃ちにされる事は予想出来ていた。
そこで部屋に逃げようとした美也だったが、梨乃は突貫を選び無事前へ進んだ。
フロート狩り達は攻撃して来ないが、進路を空けてくれる気配もなかった。
挟まれたままで膠着する事が目に見えていた。
フロート狩りの一人が、突然自分の背後へハンマーを振った。
「ぎゃっ!」
「―――累くんっ!」
美也も叫んでいた。
「歴戦の精鋭舐めんじゃねえ、くそがきゃあ」
ガードを取ったまま廊下を転がった累を、男は更に何度も蹴りあげる。
駆け出そうとした美也を背後からフナコシが、前からもみじとぽぷらの二人が制止する。
「ぐ……が……なのねきいっ、くるんじゃねえぞ……おまえらも……行けえ!」
蹴られながら累は前の仲間と梨乃に叫ぶ。
だが、次の瞬間、空気が乱れる。
他のフロート狩りも、一斉に振り返り構えていた。
人間には捉えにくい程の駿足の子供達も、アーマゲドンクラブの古い武闘派には、ワンパターンのイージーキャラでしかなかった。
「ばかやろー、くるなって……」
「なかまをみすてねえのがおれらだ」
「ばかや……ろ……」
もう一人が累へ手斧を振り上げる。
「離して下さい! 離して! 累くんの……あの子達の所に行ってあげないと!」
もがきながら叫ぶ美也へフナコシが言う。
「分かんねえのか。今はあんたがボスなんだ。あんたがやられたら全員終わりなんだよ。あのクソ女もガキも、俺も、洞窟に残ってる奴らも」
「だって……だって……」
「落ち着けって。いいか、ゾンビ狩りには共通の弱点がある。これは、なってみねえと分かんねえかもしれねえけどな」
フナコシは美也を羽交い絞めにしたまま、小声で囁く。
美也も抵抗を止め、小声で彼に聞き返す。
「彼らの弱点……?」
フナコシは更に彼女へ耳打ちを続ける。
「だけど、じゃあ具体的に何を……」
フナコシの言葉が終わった時、不安げに美也がそう呟く。
がこんっ!
天井から異音が聞こえたのはその直後だった。
送風口の枠が外れてぶら下がり、穴から何か細いものが飛び出して来る。
ガスッ!
見た目によらず重い音を床で刻み、それは突き刺さっていた。
後少しずれていたら、誰かの頭や肩に刺さっていた刃渡り20センチ程の解体用ナイフ。
男達が凍りついたその瞬間、美也は制止も解かれ駆け出していた。
累を蹴りかけたままの姿勢で固まっていた彼の右膝に腕を絡め、胸の所まで持ち上げる。
「うわあっ!?」
そのまま彼を前へ押し出しつつ、左足に自分の右足を引っ掛け、斧を持った手は掴んで捻り上げる。
バランスを崩した彼と美也は一緒に倒れ込む。
床の上で彼の上になって押さえ込んでいるのは、美也だった。
「ナイフだ!」
「こいつ何かやってるぞ! 何だ? まさか近接格……」
「上にも誰かいるぞ!」
「みや姉!」
もみじが声を掛けて手を伸ばし、その手を取って美也は起き上がる。
起き上がるついでに、男の顔の横にさっき奪い取った手斧を叩きつけて。
「よし、よくやった!」
フナコシがそう言ってから、美也と人質を押し出す様にして前へ行かせ、それによろけながら続く。
「そうだ……ゾンビ狩りは、経験者ほど、ゾンビの動きのパターンに慣れちまってるんだ……だから……予想してねえ動きって奴に、凄い弱えんだ」
「今みたいな……」
「ああ、簡単な護身術程度でも、ああいう組技やられるなんて普通ねえからな。それに、上からナイフ投げた奴もGJだった……」
「そ、そうでした……今、天井にいたのは、まさか」
「まさかも何もぱっくねきだろ。うまくにげてきたんだよ」
「その呼び方やめようよ、本当に雪姉怒るよ」
「ナイフ投げた後、すぐどこかへ行ったみたい」
ぽぷらがそう言った時、美也のスマホが振動した。
取って見ると、雪子からのメッセージが届いていた。
『スラッシャーはこの辺に来ている。気を付けて』
「当分、静観しててもいいんじゃないかなと思うんだけど」
「ふうん……当分と言うなら、それでもいいけど、それは、いつまでだい?」
「え……」
曽根木に聞き返され、遥は言葉を詰まらせながら困った顔をする。
「恐らく、今の対策部は、以前のみたいにはフロートへの酷い扱いをしない」
しばらく経って、慎重な様子で彼女は言った。曽根木は小さく頷く。
「現状、一番の問題はアーマゲで、それは結局向伏に行って、そのまま自滅するだろう流れだ」
「ふん」
「そして……足がかりが、今全くないんだ。まず何をどうすればいいか、目処が立たない」
「救出について?」
「うん……曽根木さんも分かるだろ。人数差がもう圧倒的過ぎる。以前の様な、『手薄な所を突く』という発想が全く通用しないんだ」
「だから……静観すると?」
「うん、もう、仕方ないんじゃないかなって」
織子山市の中心から逃れ、郊外の鉄塔で市内を見下ろしながら、逃げ延びたフロート達は待機していた。
ショッピングセンターに対策部が押し寄せてから半日が経過していた。
「この面子も、そう言うの向きじゃないだろ。せいぜい私と曽根木さん位じゃない」
「うん、高地くんや津衣菜さん、匠くん、牧浦さんたち、梨乃さんや千尋さんと合流出来るまで、待つかい?」
「その位じゃないと――」
「合流出来るとは限らないよ? 彼らとは今生の別れかもしれない」
眼鏡の奥で、曽根木の目が赤く揺らめく。
否定しようとした遥も、返す言葉はなく黙り込む。
「それなら、戦力が揃うまで……揃わなかったら、ずっと日香里さんたちは捕まったまま?」
「いや、ずっとってつもりじゃないけど……」
「つもりじゃなくても、そうなったらずっとだよね」
「どうしたのさ曽根木さん。今日はちょっと……」
「感じ悪いって? 仲間を見殺しにしようとしている君ほどじゃないさ」
「だから……!」
掴みかかろうとする遥を、片手で突き飛ばす。
「取りあえず、二度と言わないかもしれないけど……甘ったれてんなよ」
遥はすぐに立ち上がるが、その動きはどこか力がない。
他のフロート達は鉄塔根元の付近で休憩していて、このやり取りに加わっていない。
こんな余裕がなく力もない遥を見た事のあるフロートも、今では殆どいないだろう。
「確かに、放っておいても、当分は安全かもしれない」
曽根木は近くの鉄骨に腰を降ろして、淡々とした声で言う。
「だけど、そう言うのと関係なく、あんたがここで仲間を見捨てたというのは残るよ。あんたは国を作るんだろ? フロートも色々だけど、そんな奴の国について来るフロートはどこにもいない」
遥は顔を上げて曽根木を凝視する。
俯いていた曽根木も、彼女の視線を受け止めて頷く。
「シンクの国ではそんなリーダーでも通用するかもしれないけど、フロートがそんな国で死ぬ必然性なんてどこにもない。あんたは岸末信継じゃない」
「曽根木さん、私は……」
「今も、この先も、あんたはそれだけはやっちゃいけない。あんたは多少不合理でも、ハイリスクローリターンでも、仲間が囚われた時、孤立している時は、愚直に全力で助けようとしなくちゃならないんだ」




