0になるはずだった日
0になるはずだった日
階段を二段飛びする感じで、踏み出した。
数十メートル下の地面が、高速のリールで巻き上げられたみたいに迫って来る。
それで――――――終わり。
何もなかった。
痛みと衝撃とかもない。
どこかで『ドン』とか『ぐちゃ』とかいう音を聞いたりする、なんて事もなかった。
満足も後悔もなく、何の感情も、それまでの記憶もなく。
『何もない』と認識する自分自身が、そもそもなかった。
駅前のビルが並ぶ狭い裏道。
市内の高校の制服を着た女子生徒が、街灯に照らされてうつ伏せに倒れているだけ。
昼間でも人通りの少ないその辺りには、彼女を目撃する事になる者の姿もない。
テナントビルの外付けされた非常階段、最上階の踊り場から、森津衣菜はアスファルトの路面へと真っ逆さまに落下し、全身を叩き付けていた。
即死だった。
彼女が『起きた』のは、そのおよそ150秒後だった。
最初に彼女が思ったのは、『面倒な事になった』
自分に何が起こったのか全く分からなかったが、『思った通りに死んでいない』事だけは理解出来た。
全身の感覚がない。目も見えない。
音はやけにはっきりと聞こえていた。
どういう訳か、皮膚が「空気の流れ」を感じていた。
痛みも熱も感じないにもかかわらず。
意識を集中すると、何も感じないまま手足は勝手に動いた。
膝をついた姿勢から、バネ仕掛けの様に上半身が跳ね上がる。
再び前に倒れそうになった身体を、左手が支えた。
首と右腕が重力に逆らわず、ぐにゃりと崩れて垂れ下がってしまう。
半開きの瞼、瞳孔が広がったままの瞳に光が宿った。
どこかが死ぬ前と違う色の光。視界が像を結ぶ。
目に映った世界の上下は逆さまで、それ以外にもどこか違和感があった。
喉が鳴って声が漏れる。
『まいったな』と呟こうとしたが、口の筋肉は思った様に動かない。
「お……ああ……あうああ…………」
それは、奇妙な声音の呻き声になった。
地面に触れている膝や左手に、感覚が戻って来る。
しかし、これも生きている人間の触覚や痛覚とは、どこかが違う。
さっきから伝わって来る、『空気の流れ』と近い種類の情報に感じられた。
そして、熱さも冷たさもない。
連日の雨で肌寒かった筈なのに、その寒さは彼女に戻っては来なかった。
引きずる音を立てながら、津衣菜は左手と膝だけで前へと這い進んだ。
道沿いのビルの手前、金網のフェンスまで辿り着くと柵へ手をかける。
柵にもたれながら、時間を掛けて彼女は立ち上がった。
背中ではなくうつ伏せにもたれているのだから、まだ傍目に不自然な姿勢だった。
それでも、倒れたり這いずったりしているよりは目立たない。
空いた左手を垂れ下がった自分の頭へ伸ばすと、それを持ち上げて首の元あった所へ戻す。
折れた頸椎に首がうまく座る事はなく、そのまま持っていなければならない事を悟った。
(何だっての、もう面倒臭い)
「ああー……ああ……ああああ」
忌々しげに、うんざりした様に毒づくが、口からはやはり呂律の回らない呻きしか出ない。
頭を支えながら、津衣菜はようやくここがどこなのかを考えた。
天国でも地獄でもなければ、それ以外の『この世じゃない世界』とやらでもない。
見覚えのある駅前の裏道。周りに人の姿がないが、それはこの時間この辺りでは普通の事だ。
国道や駅前のロータリーを行き交う、車の音が微かに聞こえる。
次に自分がどうなっているのかを確かめる。
あちこち折れた身体をぶら下げ、引きずって歩いている。
『肉体を離れ、魂だけの何かになった』という訳でもない。
脈拍がなく呼吸がないのは確認済みだった。
つまり、きちんと死んでいる。
にもかかわらず彼女は身体を動かし、ものを見て聞いている。
そして何かを思ったり考えている。
断ち切られた筈の時間が流れている。
「…………」
舌打ちはせず、奥歯を強く噛みしめるだけにしておいた。
この先どうするかを考えなければならない。
取りあえず、いつまでもこんな明るい所に、このまま留まっている訳にはいかない。
真夜中のこの場所だって、絶対に人が通らないとは限らないのだから。
フェンスにもたれたまま、津衣菜は一歩足を前へ踏み出した。
「あー……ああ……ぐ…」
おぼつかない歩みを進める度に、声が漏れる。
痛覚はないのに、得体の知れぬ不快感が込み上げる。
デッドマン・ウォーキング。どこかで聞きかじった単語。
男じゃない、ならばデッドガール・ウォーキングだろうか。
そんなどうでもいい感じの疑問を意識に浮かべたら、幾分吐き気が和らいだ。
ビルの角の先に、街灯の光の届かない闇が広がっていた。
津衣菜は、次第に寄りかかる身体と左手を壁から離す。
よろよろと二足歩行を取りながら、彼女は暗がりへと消えて行った。
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