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孕み人魚と惡の華(挿絵版)  作者: 陸一じゅん
あなたはどうして生きている

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第十七夜 カルマシティ 中編

◐玖三帆十七歳/冬





 不幸な話をわざわざ言葉にしてぐちぐちと連ねるのは、一番嫌いだ。それが当事者の口からだったのならば、尚更に虫唾が奔る。





 教科書に載っていた有名な文豪の本だというから、長い道中の共にと買ったのに、ただひたすらに気鬱にしかならなかった。


 ごとごとと何時間も狭い座席に押し込められて、硝子越しに生温い陽気を浴び、おれはこの箱の中で煮こまれてすっかり佃煮にでもなってしまいそうだ。乗り物というものは、あまりいいものではない。


 降りる乗客は、おれの他には一人だけだった。木枯らし吹く冬の駅は、落ち葉にまみれて寂しかった。





 前にいた海沿いの町よりも北上しているはずなのに、不思議といくらかは暖かいように思う。


 ホームの屋根の下からでも分かるほど、山が張り出して迫っている。無人の駅の外に出れば、なおさら圧倒させられる存在感。駅前には売店と小さな神社があり、覗いてみたところ人気は感じられなかった。


 バスも通っていたけれど、次が明朝の五時だと書いてあった。このへんは雪も降らないらしいし、雨の気配も無い。おれは自身の若さに気合を入れて山に通る車道を歩き出す。陽が落ちるまでに到着出来たら良い。





 この十七の冬にここに来たのは、手短に済ませるのならば、天涯孤独と同じになったからだ。同級の学生が競っていい大学を目指している中、おれは途中退場して、母の実家だという山奥の集落に行くことになっていた。若者不足だという田舎は、十九のうら若かった母が飛び出してったっきりになった、唯一の縁ある地だという。


 おれはむしろ、わくわくしていた。


 年貢だ飢饉という時代でもなし、自給自足の生活だったのならば、そうそう食うに困るということはないだろうし、それなら骨を埋めてもいい。いい大学を出て、高給取りのエリートになりたい人間もいれば、おれのように特別偉くなりたくない人間もいるのである。





 おれの目下の問題は、村人は歓迎してくれるかということ、それだけだ。


 おれはよく、「清潔感のある金田一耕介」なんて言われたりしたもんだけれど、言いたいのはようするに……そこそこ下界との友好的な交流があり、開放的かつ、新参者に優しくしてくれて、奇妙な風習だとかに縛られていなくて、村人同士の陰湿ないじめだとかが無くて、定期的に人が死んでいなくて、とくに大事なポイントとして、書生さんスタイルの名探偵は間違っても訪れたりしない。いわば、そんなところでなければ良いのだ。





 車道として使われていそうな道を選びつつ、山を登り始めて一時間近くで、錆びたバス停留所の前を通り過ぎ、さらに三十分ほど歩いたあたりだった。


 空はいよいよ夜に傾きかけ、白い月が浮かんでいる。山の淵には、まだ太陽の尾が引いていたけれど、それだけに山影は濃紺に山道を染め、夜の月明かりよりもよっぽど見えづらい視界になっていた。逢魔が時というやつだろう。


 冬のことである。足を止めたら駄目だな、と判断し、おれはいっそう足を速めた。その時だった。


 おれの身体を、強く白い光が照らしだす。山肌に沿って直角にカーブになった坂道だ。真っ黒い小山のような影が、目の前に浮かび上がる。おれは荷物を抱えて、後ろへすっ転んだ。





 おれを突如襲ったずんぐりと丸い車におれは乗っていた。


「兄ちゃん、無茶しやるねェ」


 四角い輪郭の、若い運転手が苦笑してそう言った。


 回送中の表示がされたバスは、なんちゅうことか。おれ一人を迎えに来るために走ってきたのだという。


「売店のおばちゃんに来たら電話しとくれって頼ンどったんけえど、おばちゃんねェ、近所の人ンとこにお茶しに行っとったって。入れ違いなったんちゃうかって走ってみたけえど、見つかって良かった。アッ、ぼかぁマツヤっちゅうんや。木の松に、弥生の弥で、松弥ナ。クミホくんは十七かぁ。大人っぽいねェ」





 車内のミラーに映る松弥さんは、小柄でがたいのいい体格をして、大きな顔に大ぶりな目鼻が収まっている。そうとうに若く見え、天真爛漫なのも相まって、おれと同じくらいに見えた。


「松弥さんは、おいくつなんですか」


「ぼくぅ? あはは、二十一やあで」


「そんなに若くで、この山道の運転手なんですか? 」


「瀧川ンとこまで行く運転手は、おれの叔父とで二人だけなんや。下の山道のバス停ンとこまでは、下のバスがいくつか終点やねんけどね。そン前は叔父一人やった。ぼくの弟が入ったら三人になるかもしれんけど、あと何年かは二人きりやなぁ」





 松弥さんはよく喋った。珍しいおれの名前のことや、今の村人の人口、毎月小さな祭事があること、祭事には是非とも参加してほしいこと、名所は山中の滝だとか、ウチの母ちゃんは大根煮が美味いだとか、そういうことを喋り続けた。バスに乗って到着までに二時間。おれは本当にこのバスが来てくれたことに感謝して、松弥さんのお喋りに相槌を打った。





 集落の口にある松弥さんの実家兼バス始発停留所で、おれは荷物を抱えて降りる。


 一部屋ほどもある広く高い土間(玄関)のある家に行き、挨拶をした村長は、温和そうな腰の曲がった老女だった。その周りを囲んでいた村人も、手を叩いて「よう来てくれた」と言って、暖かい夕食をごちそうしてくれた。


「難儀やったねェ。今日はもう遅いから、家に送りましょ」


 婦人会のさと子さんという女性が、提灯を片手に坂道を登っていく。歩くたび、足元を道の草がくすぐった。高いところから村を見ると、階段状になっているのが良くわかる。重なる山の間に見える黒い塊は、もしかして海だろうか。





「克巳ちゃんは、ちょっと変わってるけど、まあ良くしてやってね」


「はい」 





 坂を登りきった終着に、満天の星空を背にして屋根が見えた。


 家を巻く土塀のシルエットに、角のようなものがある……いやあれは、人影だ。





 おれがそれを、アッと今にも指さそうとしたとたん、ひゅるりとそいつは土塀を降りて影の中に埋まってしまった。


 さと子さんは鍵の掛けられていない玄関を開け、手慣れた手つきで電気をつけ、おれを中に招き入れる。


「あンらぁ克巳、寝ちゃったみたいねぇ。さすがに今日くらいは起きとるやろって思うとったんに……ごめんねえ。あの子、年寄りみたいに早寝だから」


 そんなわけはない。おれは確かに、人影を見たのだから。


「いえ……あの、じゃあぼく、明日の朝にでも挨拶することにします」


「起きたらびっくりしやるやろうね。あの子、たいがいは自分で出来る子ぉやから、わからんことは訊ねたって。玖三帆くん、くれぐれもお願いね」


「はい」


 実を言うと、おれはここで、とある仕事をすることになっていた。


 五つも年下の子供が、この家には一人で住んでいる。食事をして、風呂を沸かして、自分の世話をする片手間に、その子供を見てやってほしい。そういう仕事だ。


 その子供の名前を、矢又克巳という。





 ◐





 克巳の持つ、独特の異常さを理解するのには、そうはかからなかった。


 坂の突き当りにある同じ家に、一緒に住んで七日になる。


 食事を共にしたことは一度もないまま、六夜が過ぎていた。それどころか、克巳とやらと顔を合わせたこともない。


 足音はする。頭の上を、時折トコトコ、キシキシと。


 そう、天井裏だ。こいつは天井裏にいる。





 矢又克巳というガキは、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』の変態殺人鬼のごとく、屋根裏に潜んで、こっちのことを伺っているらしかった。


 どこぞに抜け道があるのだろう。克巳は昼間にはきちんと通学しているようで、気配が消える。しかし昼の三時にもなってくると、台所にある勝手口が開く音がして、軽い足音の残響とともに部屋の奥に消えてしまう。


 勝手口に張ってみたが、今度は玄関から上がってしまったようだった。





 克巳には、先住者として独自に開拓したルートがある。勝手口、玄関、縁側を基本の初手として、裏手の崖から窓に侵入するなどとおれの度肝を抜き、二階の窓に差す木を伝った形跡があったころに、おれはあいつと顔を合わせて挨拶をすることを諦めた。


 けれどもこれでは、住み着いた野良猫の世話をしているのと変わらない。





 克巳の私室は、屋敷のいちばん奥の部屋にある。


 窓を開けると、右下に崖、左には竹を荒縄で組んだだけのおざなりな柵に仕切られて、鬱蒼とした緑が迫るという大迫力の角部屋である。


 ここに早朝、奇襲を仕掛けてみたこともあったが、無駄討ちに終わってしまった。


 部屋には大きな姿見と、ガラス戸のついた本棚には子供らしくがらくたのようなものが詰まっており、壁際には布団の詰まった押入れがあった。寝起きしているのは、おそらくこの押入れの中だ。


 昼間、押入れの壁を探ってみると、乱歩の小説と同じように、天井の板が外れることを確認できた。


 その板は、おれの両掌をちょうど並べたほどの正方形をしていて、なるほど。小柄で身軽な子供ならば難なく肩を抜けて入り込めるであろう。


 頭と腕だけ突っ込んでみたところ、意外と埃っぽいということもない。


 掃除をしているのか、それとも本来は埃が立とうもない場所だからか。板はざらりと、木そのものの乾いた感触があるだけで、鼠や蜘蛛がいる気配も無かった。





 しかしまあ、寝床が分かっただけでも上々の成果である。


 野良猫にだって寝床はある。


 それが人となれば、日々の生活をこなすためには、上質な睡眠がかかせない。まさか天井裏で眠るというわけにもいくまい。


 この七日の攻防によって、おれはちょっと楽しくなっていることは否めなかった。


 さて、待ち伏せ、奇襲ときて、おれの次の作戦がこうして決まったわけだ。





 夜襲である。







 その日、おれは師走も間近の昼間っから、のこぎりを片手に、押入れに頭を突っ込んだ。


 仕込みは上々。食事はいつも通り、台所にある卓に置いておくと、いつのまにか勝手に無くなっている。自らもいつも通り、味気ない食事を平らげた。


 しかし眠い。ひたすら眠い。昼間、ひとりだということを自覚すると、とたんに重石を頭に乗せたように眠たくなる。





 この七日は、屋根裏の徘徊者が気になって気になって、不可思議な夢ばかり見るようになっていた。


 もともと夢も見ないほど眠りが深いというのに、これはかなり体にガタがきている気がする。旅の疲れだって、取れていないのだ。


 解決を急がなくては。





 そして草木も寝静まる丑三つ時……よりも一刻も前。ようするに日付が変わる頃。


 おれは懐中電灯を片手に、自室にいた。


 空っぽの押入れの上段に潜ると、膝立ちになり、頭上に開いた暗い穴に頭を差し込む。昼間にギコギコ拡張していたので、大人でも難なく通過できる。





 はたしてそこは、異界であった。


 昼間、準備したときとは一線を駕すヒンヤリとした感覚が、頭の先から背中を滑り落ちていった。


 例えるならば、水の中で目を開けるような感覚で、おれはしばらく何も見えない暗闇を見つめていた。はっとして懐中電灯で照らし出してみて、やっと心臓が思い出したかのように早鐘を打ち始める。


 天井は、どうやらなだらかな屋根型になっている。おれの部屋の上の高さは、おれが四つん這いになって、頭半分高いほどというくらいだった。いくつもの柱が等間隔に並んでいて、横たわったあばら骨を見ている気分になる。


 昼間に上ってみて、意外に足場がしっかりしていることは分かっていた。


 それでもなるべく体重を一か所にかけないよう、ずりずりと這って進む。





 ここらか……。


 電灯で手元を照らし上げながら、さぐりさぐりそれを見つけた。掌で押すと、たわむほど板が薄い箇所がある。穴を塞いでいるそれだ。


 懐中電灯を一度消し、息を潜め、ソッと板を――――――と、その瞬間。





 シィィ……―――――――。


 ……耳の後ろに、生暖かい息がかけられた。






 おれの心臓が、体ごと跳ね上がる。肩を一回転させて起き上がろうとしたおれは、そこが狭い屋根裏だということが頭からすっぽ抜けていた。穴を塞いでいた板が落っこちる音がする。肘が沈み、手が空を掻いた。


 ずるん! 肩と首が、穴に引っかかる。生ぬるく重いものが、無防備に晒された腹に覆いかぶさってきた。


 片腕を振り回そうともがいた瞬間、ばりばりと不穏な破壊音。






「うわーっ! 」





「きゃふんっ」






 後ろ頭を強かに打ち付けた。押し潰した何ものかが、尻を叩かれた犬のような音を出す。


 おれは、未だ腰にある謎の物体から逃げたい一心で、暗闇の中で襖を蹴り破って外に転がり出る。





「ぎゃふんっ」……ここが押入れだということをスッカリ忘れていた。





 押入れの上段から、下の畳にまで落っこちたおれは、つきたての餅のように井草の香りに包まれながら、暫しへばり付いていた。鼻がつーんとする。鼻血と涙が合流して汚い水がおれの顔から滴った。


 そんなおれの頭の横を、何某かの足が、ぺたぺたと歩き回る。


「……おい。おまえ」おれは、目玉の前をウロチョロする二本の白い棒っキレを掴む。


「ヒイッ! 」


「捕まえたぞ座敷童子め! おれの勝ちだからな! 」





 がばりと起き上がったおれは、そいつに唾を飛ばして叫んだ。気張ると血で詰まった鼻の孔から、勢いよく赤い栓が飛び出した。


 キャアアア……夜更けに絹を裂くような悲鳴がしたが、そんなものはおれの怒りの前には些事である。


「ヤマタカツミだな! 名を名乗れ! 」


「やっ、矢又克巳です……」


 おれは肺一杯に息を込める。





「そうか! ヨロシク! 」


 その瞬間、スッキリと爽快な気持ちになった。ひどく疲れているが、それすら清々しい。七日の苦労が報われた瞬間だった。


 おれはやり遂げたのだ。


 意気揚々と、おれは重い体を引きづって部屋に戻る。ひどく疲れていた。


 そしてそのまま、泥に沈むような眠りについた。





 ◐





 夢を見る。


 夢と云っても、見えるのは暗闇だ。


 耳ばかりが夢中を彷徨っては、暗闇のなかにある音を拾う。


 聴き慣れた潮騒と、遠くの踏切の遮断機、襖越しの布団で眠っている母親の寝息、裏の爺さんが、五時ぴったりに自転車で出勤していく音……。


 そうしたすべての音が、潮の音に飲まれて遠ざかる。


 ざざあ――――――ん……


 ざざあ――――――ん……


 それにやがて混ざるのは、こぽこぽとアブクを吹いて、深海から闊歩してくる何者かの呼気……――――――。





 気配を感じて瞼を持ち上げてみると、そこには朝の青い影に浮かび上がる、生白い膝小僧があった。


 見上げてみると、黒々としたでっかい目が、ジイッとおれを見下ろしている。時刻は真逆だが、夕日の斜光の中でできる影は、ともすれば夜闇よりも濃いという。そんな時刻には、濃くなった陰から魔が湧いて出るのだとか。だから昼と夜の間のことを、逢魔が時というのだそうだ。


「だ、だれ……? 」おれは尋ねた。


 囁くような声で、そいつは言った。


「矢又克巳」


「ヤマタカツミ……」おれは名詞を口の中で反芻する。「おまえが? 」





 克巳の陶器のようなつるりと白い顔は、朝方の明かりの中で浮かび上がって見えた。その黒い瞳の上澄みには、感情が見えない。


 ……こいつが屋根裏の散歩者?


 お人形のような面は、屋根裏に上ってうろつくような真似をするように見えない。縮緬の帯でも締めて、床の間にいるほうがよっぽどらしい(・・・)


 克巳はジッと、その整った顔を近づけておれの顔を覗き込む。


 なぜか鼻っ柱を覆うように、大きな絆創膏が貼ってあった。


「あんたの名前は? 」


「葦児玖三帆」


「くみほ……しやったら、クウちゃんやんな」


 言うと、克巳は人形のような小作りの顔を一転、ニンマリと三日月形に歪めてみせた。頬はいっそ血の気が引いて青白く、白い歯は玩具のように唇の裏に整列している。


「うふふ……クウちゃん、ぼくとナカヨくしたってねぇ」


 ……こいつはやはり、妖怪か何かなんだろうか。


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