第十六話 Black box M & Way out. About me 中編
メサイア【Messiah】
…メシア。救世主。『油を塗られたもの』を意味し、聖書においてのキリストを意味することが多い。そのため予言者を意味する場合もある。
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「いやよ。わたし、克巳とまた会うから」
それは年々増していく巽の我儘の最たるものだった。
巽のいる洞窟は、水の道を通って地上に通じている。巽が時折、その道を通って外に出ているのは黙認していた。克巳とはその先で出会ったのだろう。
おれはしぶしぶ克巳との交流を認めた。最初は克巳の方から会いに来させていたのだが、それがいつしか、巽の方からあの高台に赴くようになっていた。
送り迎えをするのは、もちろんおれである。
そんな面倒なことまで、おれは了承した記憶はないのだが、どうやら巽たちはおれの言質を取ったつもりでいるらしい。
おれがこの口で快く了解したのを、聞いたというのである。
『柳』の『前の名前』を思い出せないことに、気が付いたのもこのあたりだ。
おれは、おれ自身の異常に、頭のどこかで気が付いていたが、しかしそれを疑問にまで思わなかった。
恐怖も混乱も無い。ただ波風一つ立たない脳みその表面で「そうか」と納得しただけだった。
なぜ?
そんなのは決まっている。
巽だ。あの人魚だ。
おれは巽にけっして逆らわない『柳』という生き物に、作り替わっていっているのだ。
おれは人魚の奴隷である。忘れかけていたその事実は、巽の成長とともに、再びおれに圧し掛かってきた。
幸いなのは、それに苦痛を覚えないほどには、おれは自我を保っていたことだ。
そのころから、恐ろしい夢を見るようになった。数は日を重ねるごとに増していき、眠る時間が長くなる。目が覚めるとまた、知らずうちに時が過ぎていた。
暗く何も見えない、凍えるように冷たい場所。そこにあるのは満たされた水だ。肌にあたる氷のような風は、冬の海の波である。
おれの腕はそこではやけに短く、動かせる部位は、頭のてっぺんにようやく付くほどしかなかった。
おれは深く深く沈んでいき、体中の穴という穴に浸み込んでくる冷たい水を、撫でる様に短い腕で掻くしかない。
さらにおれの下肢は、まるで大きな重石でも括られているかのようだった。脚は凍えているのか、感覚が無いといっていい。
隙間なく満たされた闇が、この重い足を引きずりこもうとしている気がした。
……やがて黒く塗りつぶされた視界に、ひとすじの赤い光がパッと差す。
花火に似ていた。しかしそんなものは一度も見たことが無い。そのはずだ。
おれは、稲妻の刹那のような光に照らされた自身の下肢を見て、慄き恐怖するのだ。
ずるりと長く伸びた、骨の無い萎えた脚。
その脚はまるで骨の無い蛇……いいや、白い巨大な蛭。
おれは赤ん坊だ。脚の萎えた赤ん坊だ。白い肉団子のような、出来損ないの赤ん坊だ。
冷たい、冷たい水が……波が……赤ん坊のおれを含み、今まさに嚥下する。
胃袋の奥では、いくつもの冷たい手がおれの肌に触れてきた。
そして。
……そして。
おれは理解した。
こいつこそが、おれを乗っ取ろうとしているのだ。克巳の人魚としての血が、おれを支配しようとしていたわけじゃあなかった。
こいつは、あの洞窟の底にいたのだ。そこにいて、出てくる機会を伺っていた。
この水底の醜い怪物は、いまやおれ自身だった。
こいつはおれと成り替わりたい。だってあの人魚が欲しいから。あの克巳とかいう子供がほしいから。おれという存在が羨ましいから。
それは、おれを頭から飲み込むような、貪欲な欲望だった。
ほんとうは、もっと早くに始まっていたのだ。
遠い母の顔、父の顔、兄の顔、あの人魚と視線を交したことも、おれの親からもらった名も、この手のひらの上の砂粒のように流れ落ちて、あいつのものになる。
そうしておれは……わたしは、すべてを忘れる……。
いや……そんなのは嫌だ。許せない。
おれはここに居たくない。
眠ったままで、叫んだのかもしれない。
自分の声で、黒い海から泡のようにおれの意識は浮かび上がった。
ドウドウドウドウ………。
聴き慣れた水音がする。そこは暗く冷たかったが、けっして水の中などではない。慣れた自分の寝床であった。
起き上がると、死体のように冷たかった指先に血の気が通っていく感覚がする。血のめぐりの音すら、聞こえてくるかのようだった。
おれは布団を跳ね上げると、草履を引っかけて寝床を出た。おれの寝床は、巽のいる洞窟を出てすぐの場所にある。まだ夜は明けておらず、梢が腕を伸ばす影の山が重なるさらに奥、針のような月に照らされて、小指の爪ほどしかない海だけが黒く輝いていた。
ぷん、と潮の匂いが自分から漂う気がする。おれはそれを振り払うように、生温い夜気を肩で切った。
おれは尻に火が付いたように、暗い山の中に踏み入っていく。
何があったのか、ちょっとの間だけ、おれはおれとして開放されたらしい。
いつのまにか、季節は夏になっていた。
こんもりと茂った緑の木々が、頭の上にいくつも重なって分厚い屋根を作っている。
月明かりも届かない山道を、おれは滑るように進むことができた。篝火が照らすように、おれには闇の中で行くべき方向がわかる。
これは夢の続きか?
いや、そうじゃあない。呼気は激しくなり、腹が痛むし、汗みずくである。この感覚が、夢のわけがない。
一歩進むごとに、あの集落から離れるごとに、胸が高揚に高鳴った。
人魚を背負って歩き出したあの瞬間と同じ感覚。しかし今度は、ほんとうのほんとうに自由になるのだから。
これは最後の好機だ。
遠ざからなければ、逃げなければ。また捕まってしまう……。そうなれば、またおれは操り人形だ。
おれはそんなのは嫌だ。
おれが自分で決めて、自分を殺すのはまだいい。死なないためなら、どんなことだってする。けれどおれがおれで無いのなら、そんなもの生きていても意味がないではないか!
いいや、それだけじゃあない。
暗闇に、走馬燈が駆け巡る。
憎らしい兄貴の後ろに引っ付いていた幼少期―――――その死―――――思い出せない両親の顔―――――憎らしい母の目―――――父の目―――――人魚の青い肌―――――その、朗々と腹の底に沈む声―――――。
あの声はもう聞こえない。
人魚の呪いが遠ざかっていく。喉は飢えることがなかった。
犬のように舌を出して喘ぎながら、おれは笑っていた。
尻を叩かれて逃げ出した犬ッコロみたいだ。滑稽じゃあねえか!
おれは笑いながら、無様にも鼻を啜っている。
くそっ! くそっ!
あの集落も、克巳も、何より今ここにいるおれ自身も、すべておれが築き上げてきたものだ。あいつはそれを、まとめて掻っ攫おうとしやがった。
あんなものは簒奪だ。こんな屈辱は許せない。
おれにはもう、簒奪者の名前が分かっていた。
あの洞窟の奥にいたもの。そんなものは一つしかいない。
『龗様さま』だ。あいつが簒奪者だ。
―――――絶対に許さねえ。
気が付くとおれは、来た道を戻っていた。逃げだした時よりもずっと早く、ずっと苦々しく、降り出した雨粒を噛みながら、生まれて初めて血を吐くような気分で走っていた。




