第十三夜 平成百鬼夜行の事情 前編
鬼【おに】
…『怖いもの』『強いもの』『悪いもの』を象徴する霊、妖怪、神などの形をとる概念である。日本では語源を『隠』とする。
古代日本ではこの世ならざるもの、悪さをする死霊や、現代で言う『幽霊』『妖怪』を含め、姿を隠し目に見えず、厄や病を運んでくる悪しきもの全般を指し、非常に概念的なものであった。
主なパターンとして、『古典物語に多く見られる恨みをもった人物や霊がヒトとしてのかたちを捨てた(荒魂と化した)例』『地獄の極卒のような、最初から鬼というものとして存在する例』『悪しき性質の神の眷属、または神そのものの例』がある。
中国では現在も『鬼』とは死霊や広義での『とても悪いもの』全般を指す。日本では現代に至るまでの人々の宗教に対する環境や概念の変化から、やがて『筋骨隆々で虎柄の腰巻を纏った角の生えた大男』というイメージになったといわれる。
十畳の部屋が並んで三つある。部屋と部屋とを仕切る襖が外され、鴨居の下にはいくつもの卓が整列し、長い長い宴席となった。どこからともなく食事と酒が運ばれてきて、魑魅魍魎共が姿を晒して取り囲む。
無礼講だ、酒池肉林だ、と口々に叫び、早くも座布団を抱いて寝こけるものもおれば、卓の上で踊りだすものもあり、唐突にそこらで相撲を取って縺れ合う影もある。
時は、平成も三十路である。魔と云う生き物は、かつて闇夜において栄華を極めた。彼奴等は街灯とネオンに追いやられて久しく、衰退へと進路を取りつつある。
狭く短くなった闇では、生まれる怪異もたかが知れている。ゆるやかに数を減らしていく中、過去に伝説を作った古老たちの所業は語り継がれる。
人間たちと少し違うのは、そういった伝説の古老たちが、いまだ健在だということである。
あやかしは、時が経てば、それだけで自然と技や能を持つ。人とは違い、若さでは補えない壁が存在する。そもそも彼らは、ヒトのような秩序を持たない。
狭く光の届かない山奥の里に古老が引きこもり、古代そのままのピラミッド型の権力体勢のままで、今。
古老が老害となっている例も少なくはなく、里に古老に勝てるほど強い力を持った後継者が出てくれば万事解決するのであるが、それがなかなか育たない。
そうなるとやはり、古老の力なくては秩序が保てない。悪循環である。
時は平成。現代のあやかしも、少子高齢化の時代である。
数少ない若人に背負われた責務はなお重くなる一方で、それを憂いた一部の中堅あやかし衆が一念発起、数名の古老の後押しで、数百年ぶりに組織を作った。
それがこの学舎。各地の里より招集された次代の若手が集い、技を磨こうという集団だ。
旗揚げの中心となったのは、孤独の沼人魚の長『瑞子』が養い児。
人間社会にも目端が利くという雪女の息子、『天華の照朱朗』。
その旗の名を、『新時代百鬼夜行連盟』という。
時刻は二時をまわっていた。人魚が去ってすぐ、わらわらと姿を現したこれらが、何の号令もなしに始めたことだった。おれは列になった座の尻尾の方に陣取り、大皿に盛られたから揚げを齧る。スーパーの特売ものの味がした。
「ぎゃっ! どこ触ってんのよエロガッパ! 」
「だって幽霊先生、なんでもするって言っただろぉ! 」
「逆ギレすんのか馬鹿モンっ! さっきも言ったでしょ、そういうことするやつには何にもしないっての! 永遠の十七歳よ! この価値がアンタにわかってんのっ」
「ご、五万! いや、十万出すから! 」
「ふざけんな! 安すぎるわよ! 頭カチ割られたいの! 」
「そうだよなあ。その三倍はいるよな」
「……それは高すぎじゃない? 」
「失礼ね! 誰か一億出すってやつはいないっての! 」
「それは現実味がないよなあ」
「なァ。身の丈に合った金額の方が真剣な感じがするよな。給料三か月分って表現は適格だと思うんだァ」
「そうだな。確かに、河童野郎は三月で十万くらいだもんな。身の丈に合った金額だよ」
「おい、なんでおいらを例に出したんだよ」
「じゃあお前なら? 」
「……。五百円かな。お前は? 」
「葉っぱでいいなら……死ぬ気で化けて六十枚かなあ」
「おい、無視すんな葉っぱ隊! 」
「ははあ、そこが小妖怪の世知辛さよな」
「幽霊先生、五百円の葉っぱ隊でも可愛がってくれるかい」
「幽霊先生、今を逃すと嫁の貰い手が無いぜ」
「ワンコインとかナメてんの。その汚い金玉踏み潰すわよ」
「エッ、五百円で踏んでくれるの……あ、今のナシナシ! 」
「今日から毎日エロガッパの皿を割ろうぜ」
「そのあと水掻きを破って井戸に放り込もう」
「報酬は河童のへそくりだけ? 」
「河童の手は高ウ売れるというが」
「あれだろ、猿の手とか人魚のミイラとおんなじだ。パチモンだと思われる」
「しけてんな。わし、きゅうりは要らねえ……」
「河童だけに、シケてるって? プププッ」
「……つまらん」
「審議するまでもない」
「はい! ピン芸人アサコは予選落ち~」
「あたしピンだったの!? 」
「えむわんは諦めような」
「河童がМだけに? 」
「くやしい! 弄ばれたわ! あーるわんでテッペンとってやるんだから~! 」
「姐さんボケ拾ってよォ! 」
呆れ半分、感嘆半分、おれはその光景を横目に、ちびちびとビールを舐めた。
どうしてこうなったのか、サッパリ意味がわからない。
「ごめんねえ。馬鹿ばっかりで」
楚々とした仕草のお面の女妖怪が、瓶を握って酌の仕草をする。おれは素直にコップを向けた。
「……こんなことしていて、いいんでしょうか」
「大丈夫、大丈夫。こうしている間にも、ちゃんと働いてる者はいるもの」
「本当に? 」
「ええ。夜は宴か喧嘩か謀と、決まっているものよ」
言った先から襖が開き、にゅっと背の高い黒影が、もさもさに覆われた頭を出した。長い腕が軽く手招くと、卓の前方端にいた赤毛の頭が立ち上がって、宴席を抜け出すのが見える。そんな照朱朗さんを、誰も気にしていない。
腰を上げかけるおれを制し、女妖怪は自分もグラスを取った。
「これを飲んでからにしましょうよ、ね? 」
「でも……」
「じゃあ、あたくしにちょっと付き合ってちょうだい」彼女は言うや、握った杯を逆さにすると、一気にそれを喉に流し込んだ。ごくごくと白い喉が動き、たっぷりの黄金色が凄まじい勢いで流れ落ちていく。
彼女は空のグラスをおれの胸元に突き付け、にっこり笑った。
「ほら、今度はあんたがお酌してよ」
酒瓶がおれの前に壁を作るころ、照朱朗さんが足早に宴席に戻ってきた。
「あんたら酒は蓄えたかい! 宴会はいったん切り上げだよ! 」
号令をかけるや、赤ら顔の一団は立ち上がって照朱朗さんの方を見やる。おれも慌てて膝を立てるが、ふと周囲を見上げて後悔する。
……これは、怖い。
彼らはもはや、陽気で面白い異形の生き物たちではなくなっていた。
どの顔も目玉がぎらぎらと黄色く光り、口元は酒気に緩みながらも闘志が見える。天井では嫌な音がして軋みと共に明かりが消え、かわりにいくつかの鬼火が灯った。
どいつもこいつも、舌舐めずりをして爪を研いでいる。
おれは立ち上がることなく中腰のまま、ちょっと後ろへかかとを引き、歯列の間からか細い息をした。
「人の子供が一人、瑞子さまの謀りにかかった。そこにいる空船の片割れだ」ぎらつく目玉たちが、一斉にこちらに向き直る。
「……今回のこれは、あたしの不始末でもある。息子として、あの人に恩義あるがため、あたしは長くあの人に付き従ってきた。今もその恩は返せちゃいないと思っている。しかし思っているからこそ、間違えは正さねばならぬ。これこそは良い機会。あたしと母上様との一世一代の大勝負、あたしの宝であるあんたたちが、あたしの力として奮ってくれるンなら、こんなに面白いことはない」
扇を取り出した照朱朗さんが、それを突きつけて言う。
「ここでお母上様に勝ったら宴会は毎日だ。毎日二日酔いで苦労するだろう。いいかい、あんたたち。気張るんだよ! 」
次の瞬間、爆竹のような歓声があがった。「まったく、単純なんだから」「違いねえ」「でも人魚様は酒のにおいがお嫌いだからなぁ」
おれはエッ、と目を剥いた。
「まさか、そのために戦うんですか」
「大多数はそうじゃないか。あとは恩か義理かね」
「おれらは楽しきゃいいや。ひさびさに祭だぁ」
「矜持を張るなら楽しまにゃ意味がなかろ」
「アル中の矜持じゃろが」
「うへへ違ぇねェ」
宴席をそのままにして、百鬼は影に戻り、めいめいに散らばっていった。空になって転がる酒瓶の脇に立ち、閑散とした二十四畳を見渡す。あっという間のことだった。
「ほら、あたくしの言った通りだったでしょう」
隣の女妖怪が得意げな顔をして袖を引く。
散らばるごみを避けながら廊下に出ると、風呂場で世話になった市松人形のような少女が立っていた。
「あなたはこっちに」
玄関先には、どうしてかおれの汚い靴が揃えてあった。空は黒く垂れこめ、庭もまた、霧のように闇が立ち込めて蠢いているように見える。
庭には、先ほど照朱朗さんを呼びに来た男と、照朱朗さんその人がいた。逞しい肩幅をした痩躯を丸めた大男で、顔には猿の面がかかっている。腕もまた、猿のように異様に長かった。
「斥候役のしょうけらだ」
「瑞子人魚は援軍を呼びやった。つっても、一人だけだがな。今は雀が張り付いとる」
おどけた猿の面の下から、地獄の閻魔様のような声が聞こえた。この針金のような頼りない細長さから出たものだとは俄かに信じがたい。しょうけらはおれを一瞥もせず、照朱朗さんへの報告を続けた。
「どんな輩だい」
「男だ。刀ぁ持ってンが、そう強そうには見えねえな。まるで人間みてえだ。能面かけてやがる」
「……能面? 」
おれの頭に浮かんだのは、不本意ながらも親しんだ、あの扱い辛い一枚である。
「そいつ、うろうろと落ち着かなくてよ」気が短くて臆病な男面の気質を思い出す。あいつは刃物がお気に入りで、何かというと白刃を振りかざす。あれは今、クウが持ち去ったはずだ。
……いや。おれは頭を振る。
面の行方なんて、今考えても仕方が無かった。
「いつ攻める? 夜明けが来ると、こっちは不利になるだろ。あっちは水気さえありゃいいんだから……」
その時だった。庭先の杉の梢が、がさがさと大きく揺れる。梢の影から、か細い半分泣いているような子供の声が呼びかけてきた。「雪ちゃん」
「雀かい。どうした」
「瑞子さまが移動するんだって。お山を下りるんだって言ってるよぅ」
「なんだって? 沼を離れてどうする。いったいどこへ……」
「『ミズキのところに行く』って言ってた」
照朱朗さんは舌を打った。「あの宿か! 」




