第十二夜 綿津見の木 前編
柳【やなぎ】
…おもに北半球に流布する樹木。湿潤を好み、よく根を張り、生命力が強いため、水害防止に水場に古くから植えられていた。古代の中国では、旅路の無事を願うまじないとして、旅人に柳を手渡す風習があったという。日本では江戸のころより幽霊の背景の代名詞とされ、『柳に幽霊』という言葉もある。
あかい、あかい、錆びた月が咲く。変な夢を見た気がする。夢の中では雨が降っていた。
今は代わりに、白いものが降る。
雪? いいや、違う。
輪郭の淡い花びらが、夜の空に降ってくる。耳元で、ちゃぷちゃぷと音がする。
寒い。顎が痙攣してがちがちと噛みあわない。何か温かいものが、背中を水面まで押し上げていた。
胴に絡むものがある。指を這わせて、肌に触れて気が付いた。
手だ。
おれはその細く冷たい手首をつかみあげ、水中で立とうとした。大きく水を掻いて波が立ち、下半身が下がる。おれの背中の下にいた温かなそいつは、おれから身を離し、手首をつかむおれの腕を強かに打った。錆に淀んだ水の奥は暗く、水面の上まで引き上げた手は、月明かりにも分かるほどずいぶん白い……と思ったのもつかの間、おれはそこに引きずり込まれた。
沈む――――――捕まれる―――――浮かぶ。
「―――――無礼者! 」
飛沫と一緒に頬を張られた。「ここをどこと心得る! 」
おれはぽかんとして、そこを見渡した。北風に枯れた水辺の草が群生して鬱蒼とし、おれは体は頭のてっぺんまで濡れ鼠である。引き上げられた時に握られたままだった二の腕を「立ちなさい」と引かれ、よろけながらも腰を上げる。後ろに引いた足が、ずぼりと脛まで水に浸かった。
そして頭上に淡い屋根ができる。月明かりに青白い、綿毛のような花の雲―――――桜の森。
「ここはどこだ? 」
「……瑞子沼だ。人魚の沼サ」
やれやれと首を振り、照朱朗さんはやっとおれの腕を離した。
その人は紺地に菖蒲が咲いている紬に銀鼠色の細めの帯を腰で締め、いつもは簪で飾っている赤毛もうなじのあたりで緩く纏めてあるだけだった。首を持ち上げると、喉仏があるから不思議である。化粧を落とした照朱朗さんの顔は、紅を差していないからか増して白く、瞳だけが黒々と、鋭利で厳つい、刺さって血が出るような、氷の眷属らしい雰囲気を併せ持っている。
人間のどんな綺麗な男でも、醜い女でも、持ちえない妖しさ……天女のように絢爛に着飾った昼の様子は、この妖気を隠すためだったのかもしれない。
「あんた、体は大丈夫かい」
「ええと、おれは」
確か。
確か、あいつに飲み込まれたんじゃあなかったか。
「おれは、どうなったんです」
「歩けるかい。歩けるなら、帰りながら少し話そうか。後の話はそれからだ」
照朱朗さんはそう言って、先だって湿地を歩き出す。
ほう、と、首の後ろで悪戯な吐息をかけられて、おれはその沼を振り向いた。桜の花弁と灰色の草に埋もれ、ぽっかりと黒い沼が空いている。風の手が撫でるように波紋が立った。
瑞々しい白い手が立つ。おどけるように水面を叩いている。
おれは、足早に照朱朗さんの背中を追った。
「悪かったねェ。叩いたりして。ああでもしなきゃあ、お嬢様たちはお前を離そうとしないだろうからサア」
隙間なく桜が植わっていた。にょきにょきと、白い頭をした灰色の木が立っている。項垂れるように。見上げるように。振り向くように。腕を広げるように。
「ここは瑞子さまの娘たちの墓なのサ……ひとつひとつの木に、人魚の遺灰が振りかけられている。瑞子さまは各地の娘の遺骸を集めて、それを肥料に木を育ててるンだ」
「さっき、水の中にいたのが瑞子さまですか? 」
「いいや、あれはたぶん、娘さまの一人だろう。人魚の意思は強いから」
「どうして瑞子さまはそんなことを」
「鎮魂さ。あのひとの娘は、みな軒並み短命で虚弱だった。もともと人魚は弱点が多すぎる。瑞子さまほどの力があれば、五百年でも千年でも生き延びられたんだろうがね。その瑞子さまだって、安住の地を求めて方々をさ迷った。晩年といえる今になって、ようやくあの方はこの地に根を張り、娘たちを呼び寄せることが出来る」
「でも、その娘はみんな死んでる……」
「ああ。根絶さ。ひとりを除いてはね……ああ、やっと出た」
不意に木々の隙間から、蒼い瓦屋根が目前に現れた。生成り色をした壁に、曇りガラスのはまった黒檀の戸があり、それを視とめた瞬間、待ってましたとばかりに黒髪をひるがえしてセーラー服の少女が飛び出してくる。がらんごろんと、引っかけたポックリ下駄の鈴がけたたましく鳴った。
「アッ! 泥んこジャアないですか! いい年した男どもが泥遊びですか! 」
くっきりとした切れ長の目に、厚ぼったい唇。ゆで卵のようにつるりとした頬を膨らませ、少女は走って乱れた黒髪を背にはらう。
「ああもう、うるさいうるさい。とっとと風呂沸かしとくれ、アサコ」
「雪ちゃんは沸かしたら溶けちゃうでしょ。何言ってるの」
「上げ足取って遊ぶんじゃあない。カツ助にだよ。あたしゃア疲れてンだ」
「アラ、精力旺盛な雪ちゃんが。何したってのよ」
おれは首を捻り捻り、ぽよんと胸元のリボンが揺れたのを見て、アッと少女を指さした。
「あの幽霊の! 」
「あらっ! よく気が付きましたねェ」
「そうだよ。なんだい、いきなり」
おゆうはしたり顔で、ウッフンと効果音がつくであろうポーズを取った。
「あたしのスッピンに気が付く人って珍しいんですよォ。どこで気づきました? 顔? 声? 服装? 」
「……声とおっぱいだろ」
おゆうが一瞬にして般若をかける。麗人に向かって振り上げた右手は、見事に空振り三振に幽霊の地団太で終わった。
風呂に入り、浴衣を着せてもらい、久々にさっぱりとしたような気がした。あの沼で目が覚める前は、肌の上に一枚粘液が張り付いて骨が錆びついたような心地だったのに、なんだかやけに体が軽くて頭もはっきりとしている。これは夜だからだろうか。
浴衣を着せてくれたのは、クウよりも五つは下に見える女児だった。おかっぱ頭に可愛らしい桃色の着物を着て、床の間にでもガラス箱にちんまりと鎮座している人形に似ている。彼女はおれを長い廊下の先にある一室に通すと、音もなく下がって消えた。
室内には畳ではなく、目の詰まったすだれのような材質の床材が敷かれていた。つるつるとして冷たく、おゆうが座布団を勧めてくれる。一人、窓際の文机に肘をつく照朱朗さんだけが、じかに裸足を伸ばして窓の外を見ていた。
「ここに男はいなんですか」
「いるさァ。でも今は瑞子さまが御帰りなんだ。だからあまり目につかないところに引っ込んでいる」
「瑞子さま? 人魚さまですか」
「そう。ああ、でも。まだ屋敷の若衆には、あんたのことを話してない。あんまり出歩くんじゃないよ」
「ここは、人魚の里なんじゃあ」
「人魚の里であり、我らの学び舎、または疎開地だ。神域ではない、あやかしのための地だから、ただの人間は入れない。おゆうみたいに人間をやめたんでなければね」
ふうっ、と、照朱朗さんは煙を吐いた。その手には、いつのまにか煙管が握られている。薄荷のような匂いがした。
「あんたは面に飲まれかけたね」
おれは頷いた。
「間に合ったのは本当に良かった。あと数瞬遅かったら、あんたはここにはいない」
照朱朗さんが振り返る。汚れを落とし、薄く紅を差して、いつもの格好と極めて近い。おれはうなじで曲線を描いて肩に落ちている赤髪の束を、無心でジッと見ていた。
「……あんたが知りたいことを、まず話そうか。ここにあんたが来る前、何があったのか」
おれがおやじの屋敷に運ばれたこと。女面、おもかげが、人の形で屋敷に来たこと。照朱朗さんは滔々と主観を交えて語り、最後にこう締めくくった。
「……すまない。最初に雲児をここに誘ったのは、あたしだったんだ」
膝の上で煙管が強く握られている。おれは黙って、視線を床に下げた。