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孕み人魚と惡の華(挿絵版)  作者: 陸一じゅん
人魚はまだ生きている
13/33

第苦話 けものみち 前編

ペルソナ【persona】

…心理学者ユングが提唱した概念。ヒトが外的に作り出す側面を、演劇の仮面ペルソナに例えている。ペルソナ(外面)とアニマ/アニムス(内面)のイメージの齟齬などによって、ヒトはしばしば苦悩するが、物語はその苦悩こそが面白いのだと多くの語り部は語る。


挿絵(By みてみん)



 おれの鮮明かつ、きらめく錦の記憶は、兄が死んだ日から始まる。


 我が家はそこそこに裕福な家庭だったのだと記憶している。兄貴はよく出来たやつで、ごくつぶしでしかないおれが中学まで通わせてもらえたのも、まず兄貴が有能だったからだ。兄貴が一つ、これはどうだと薦めれば、両親のみならず村のみんなが頷いていたし、逆らえばまるで非国民だった。そして、その非国民がおれだった。





 小さな村だったが、うちの家には金があった。村一番の富豪の庄屋。いわは村長のようなものなのだから、小さな独裁国家として見るならば、都会の富豪よりも権力はあったろう。


 兄がなぜあの森に入っていったのか、おれには分からない。……ああ、いや。『夢を見たのだ』と言っていたかな。なんにせよ、あの妖婦に誑かされたのだろう。


 ふらりと出て行ったまま、兄貴は帰らなかった。おれは兄を心配する両親に尻を叩かれて兄貴を探そうと森に入り、あの人魚の沼に辿り着いたのだ。


 兄は果たして、肉になっていた。成り果てていた。





 初めて見る人魚は、おれの母より年を取っていて、けれども綺麗な婆アだった。


 しけたビデオの煽り文句のようだけれど、腐りかけの華とでも謂うのだろうか。


 黒目がちで、青白いほどに肌は白く、それでもやや魚顔なのは否めなかったけれども髪は黒々と豊かで、背中から肩にたっぷりと掛けられて、結い上げれば立派な髷が出来たろう。日焼け止めなんて無い時代、うちの母親は日に焼け、齢と共に毛が細くなっていった赤毛の女で、まるで似つかない。


 いやしかし、あれが母親だったのならば、おれは道を踏み外しかけないな。


 あれが、後に瑞己と呼ばれる人魚だった。


 側らには兄貴の肉。沼の淵に座す彼女の胸はべっとりと赤く腫れ上がり、下肢は鱗が剥がれて斑となっている。猫が傷を舐めるように、彼女はしきりに禿げた鱗のあたりを撫でさすっていた。


 沼の淵に浸る柳の枝に着物を干し、瑞己は狩で負った傷の治療にあたっていたのだ。





 おれは、一目兄貴の遺骸が散らばっているのだけ見て、すぐにその場を去った。


 兄を喰った人魚が恐ろしかったし、おれも喰われちゃァかなわない。しかし逃げて家路につく道すがら、ふと冷静になって考えた。このころから、おれの記憶は昨日の事のように鮮明に色を差す。





 ――――もし、このまま兄貴が死んだと伝えれば、どうなるだろう。


 両親は民草を集め、人魚の討伐隊を組むに違いない。そしておれは、それに加入しなければならない。もしかしたら、先導する将軍として。


 でもおれは、そんなのはいやだった。おれは筋金の怠け者だったので、大層な役目は欲しくないし、てっぺんの方に立つだなんて目立つことはしたくない。手柄を取ればそりゃあ目立つけれど、ヘマをしても目立つではないか。


 おれは兄貴の陰で、怠惰に暮らすのが良かった。中学は詰まらなかったが、都会は良い。いつかはあそこに舞い戻りたかった。


 うちには妹がひとりいるだけ。もちろん、兄亡きあとはあの家の跡取りの役目はおれに取って代わろう。そうなれば、もうこの村からは一生涯出られない。


 ―――――しまったな。逃げ道が塞がれてしまった。






 おれは考えて、兄貴は見つからなかったことにした。「兄貴を探してくる」と言い訳をして、毎日あの人魚の沼に通った。女の背中を、時に沼を泳ぐしぶきを見つめると、なんだか怖いものなんて無いような気がしてきた。


 放蕩駄目息子でも、兄想いの弟ではあるのだと、周囲は少しおれに優しくなった。


 二日、三日とも経てば、両親は人を集めて捜索隊を出すことになる。おれももちろん加入させられたが、こっそり抜け出して、あの人魚のもとに行った。背後では「あいつはやっぱり駄目息子」やらと呆れた声が聞こえたが、今さら気にすまい。


 いちかばちかの賭けだった。


 このまま村に縛られるか、この人魚を使ってうまく村を逃げ出すか。





 おれは人魚の前に進み出た。彼女は沼の淵、岩の上に腰かけていたが、おれの脚が木陰から出るか出ないうちには、身を固めて牙をむいていた。


 ――――人魚さま、どうかお静かに。


 ―――――人が何の用です。


 人魚はあぶくを吐く口で、上手に言葉を操ってみせた。おれは都会で齧っただけの丁寧な言葉を思い出し、劇中の役者のような気分で口を動かした。


 ――――――わたしは五日も前にここを訪れた男の弟です。兄を探し、じきに両親の討伐隊がここに参ります。


 ―――――――おまえは斥候というわけか。


 ―――――――いいえ。あなたの助けに参りました。


 ―――――――……助け?


 ―――――――ソウ。あなた様をなくすのは惜しいと思いました次第です。


 ―――――――わたしに惚れたとでも。


 ―――――――そのとおりで構いません。あなたのその御身がわたしは惜しい。


 ―――――――わたしはこの沼からは離れられぬ。ホレ見ろ。この足だぞ。


 ―――――――わたしが担いで参りましょう。


 ―――――――その小さな痩せ木のような体でか? どうせ力尽きてほっぽりだすに違いない。水気のないところで捨てられるくらいなら、ここで討たれたほうがまだ苦しむまい。


 ―――――――近場の沼にお連れいたします。山向こうならば、大きな湖もございます。


 ―――――――母にここに産み落とされてから三十余年、ここ以外を見たこともない。余所にはいまさら行けぬ。


 ―――――――三十? あなたさまの齢は、三十ほどなのですか?


 ―――――――人魚の齢は人とは逆の方に廻るのさ。齢百ともなれば、尾を裂いて陸を歩くことも出来ようが、わたしはまだ血の道の通ったばかりの小娘だ。


 ―――――――では人魚とは、齢と共に若返るのですか。


 ―――――――不老の妙薬とはよくぞ謂ったものよと、そういうことさ。


 ―――――――その身を生きたままで絞られるかもしれません。それでも、逃げる気はございませぬのか。


 ―――――――来るのはみな男か?


 ―――――――みな雄健な男ばかりでございます。


 ―――――――子供はおらぬか。


 ―――――――子供など、森には入らせやしません。


 ―――――――ならば良い。何の心配も無い。おまえには気の毒なことだけれど、本当にわたしに惚れたというのならば、黙っていることだね。さっさとお帰り。今日は見逃してあげる。





 おれは森の木の上で一団を見送り、一晩を過ごしたのち、村に帰った。村では、男たちが帰って来ぬと女どもが騒いでいる。


 おれは村には顔を出さず、家に帰るや訝しむ母に飯を用意させ腹拵えだけをすませると、そっと道を引き返した。





 清水がなみなみと湛えられていた沼は、村人たちで死屍累々と赤く染まり、地獄の有様であった。


 血の池をゆうゆうと泳ぐ人魚は、鱗も剥がれ、柔肌は腫れ、髪もざんばらに絡まっていたけれど、楽しげに踊っているかのように見えて、おれはウットリその場に立ち尽くす。





 ―――――――また来たのか。今度はおまえが喰われにきたのか?


 ―――――――いいえ。どうしても心配になって。


 ―――――――今は気分が良い。おまえの警告で準備ができたから、こうして一網打尽にできた。これであの子の腹もくちくなろう。


 ―――――――あの子とは。


 ―――――――人魚とて、あぶくとへその緒で繋がっているわけではないのさ。


 おれはそこで、気が付いた。沼が清水の様を取り戻しつつあることに。こんなに骸が散らばっているというのに、空気にさほどの生臭さがないことに。


 ―――――――おお、よしよし……。


 ―――――――よい子だね……おなかはいっぱいになった?


 人魚の手ずから沼から拾い上げられたそれは、大きく立派な白い鯉に見えた。きらきらと雲母のように鱗が西日に反射して、長いひれが帯のように長く、水のつぶを滴らせて垂れた。しかし。


 ―――――――そ、それは、なんですか!


 ―――――――人魚の赤子サァ。


 まるで小人の老人が、つるつるの毛の無い老猿が、腰の下から鯉を履いているような。青白く血管が脈打つ小さな人魚はひたすらに醜悪で、口を開けると歯の無い白い歯茎があり、舌ばかりがぬらぬら赤く、流木のように擦り切れた皺皺の爪の長い手が目前の懐をまさぐり、乳房に爪を立てて吸いつこうとするのである。


 おぞましい生き物がそこにいた。





 ―――――――おまえ、本当にわたしに惚れてる?


 娘を撫でながら、人魚はおれに言った。





 ―――――――山の向こうに湖があるというのは本当?


 ―――――――ほ、本当です。行ったことがあります。まるで海原のように広い湖がございます。


 ―――――――なるほど。それは良い。では、この子をそこに連れて行ってやくれやしないかい。


 ―――――――なんですって。


 ―――――――この子一人なら、おまえでもそう荷物にはなるまい。今たらふく喰わせたもの。水さえ絶えなければ、一月は喰わずとも死にはしない。


 ―――――――な、なぜ“それ”をわたしに……。


 ―――――――五百川の倅や。かわりに、おまえの旅路に守をつけてやろう。なあに。追手はおまえに辿り着かず、病の虫はおまえに憑かず、災厄の種もおまえに寄り付かない。そういう守だ。


 人魚は側らの柳の木にすいすい泳いでいき、水に浸る葉を、いくつか手折った。


 ―――――――葉についた水をお舐め。わたしが産湯がわりに育った水を吸い、若木の頃から育った木だ。人魚の肉ほどとはいかずとも、健常な若者を健常なままにしとくには十分だろう。


 おれはおそるおそる、その葉を受け取った。人魚の水かきのついた手は厚く細い爪があり、とても冷たかった。彼女の手はおれを掠めた瞬間、逃げるように水の中に浸される。





 ―――――――お飲み。


 ―――――――いや、しかし……。


 ―――――――飲まねばここで、おまえを喰うてやろう。


 ―――――――ええい!


 おれはぺろりと、葉についた滴を一粒舐めとった。





 ―――――――これでいいか!


 ―――――――よぅし。よいよい。柳は旅の護の木よ。わたしはすでに罪人となった。清めきれぬほどの血膿で水を汚し、いずれ血の毒でわたしは病となる。母の教えに従い、わたしはここで死ぬ。しかし娘がいる以上、この子を生かすことが先立つことだったのだ。五百川の倅、おまえ、五十年も待てば、この猿はたいそうな美人に化けるぞ。人魚に愛される男は至福の時を過ごすという。おまえがあと五十年生きのびれば、最期の幸福は悠久ともなろうぞ。なにせ我らは、もともと天女なのだからな。


 ―――――――こ、ここでおれが逃げればどうなる。


 ―――――――その時はその時。人魚は呪い殺すも得意なのさァ。


 静かな昼の沼地に、けらけらと人魚の笑い声が響く。


 ―――――――ああ、なんてことだ。とんだ荷物を引き受けてしまった。






 おれは一度村に帰ると、旅支度のための道具をいくつも盗み出した。


 人魚は一日で帰らねば呪い殺すと脅したから、それはもう、死にもの狂いで道具をかき集めた。家にある小金を手に取るのも忘れなかったのは、まさしくおれの臨機応変な機転であろう。


 赤子を沼の水を含ませた布でくるみ、油紙を敷いた桶に入れた。桶にはたくさんの水筒も敷き詰め、蓋を閉め、急ごしらえで縄をつけたそれを背負って山を下る。


 ―――――――ああ、でもこれで悲願は果たされた。この人魚を見世物小屋にでも売ってしまえば、カネは手に入ろう。


 人魚は沼を離れたことがないから、追ってくることはできまいし、この道がどこに続いているかも知らぬだろう。


 ―――――――都会だ! 都会に行くぞ! ははは………。


 体は確かに疲れ知らずに歩けたし、水さえたくさんあれば、三日歩いても腹は減らない。


 黙々と都会を目指して歩いた。一刻ごとに、乳の代わりに赤子に清水を含ませてやりながら。


 醜い赤子は腹ばかりは丸々と太り、その小枝のような腕で、差し出した布を吸った。歩けば時折、ぴちゃぴちゃと尾が跳ねる。やんちゃ盛りにかかったばかりの赤子は、巻いた布を跳ね飛ばすことも日にしばしばだった。


 そうなると、人の多い街道は歩くわけにはいかない。用心に用心を重ねて、獣道を潜みながらの道中。


 不思議と、人を襲うような獣にも出会わなかった。


 しかしそれは、恋しいかの地を目前としたところで止まる。





 ―――――――おまえ、約束を違えたな。





 桶の中から、あの人魚の声がした。


 とたん、胸が痛みだし、腑が捩れたほどの痛み、胃袋をひっくり返すほどの嘔吐、汗は噴き出し、水の一滴ほども残さぬというような、からからに絞りつくさんというような……。


 おれは仕方なく、もと来た道を戻り、山に入った。途中にあった雨水のたっぷり溜まった古い馬槽を見つけ、顔を突っ込んで夢中で飲んだ。孑孑(ぼうふら)の溜まった水であることに気が付いたのは、濁った水の底が透けてきた頃であった。


 おれは清い水を求めて山を彷徨った。


 喉が渇く。そうか、これが人魚の呪いと云うものなのだ。





 ―――――――水気のないところで捨てられるくらいなら……――――。


 人魚の言葉が蘇る。





 朦朧としながら、川を見つけた。顔を付けて飲んだけれども、もっと清い水でなければならなかった。


 そのうち、桶の中で赤子が泣きだした。


 赤子の泣き声は耳に入っていたけれど、おれには水が必要だった。着物の裾をからげては獣のように山道を分け入り、川を見つければ水を啜る。しかし満たされない。空かぬはずの腹も悲鳴をあげだした。


 ついに、とある川に顔をつけようとしたとたん、足を滑らせて真っ逆さま。ふたたび浮き上がる気力もなく流される。


 ぽっかり開いた黒い穴が見えた。ごつごつと白い牙が穴を取り囲み、おれはその牙の隙間を滑り落ちていく。


 白いいくつもの泡に紛れて、経が聞こえた。兄貴の顔の皮がびらびらと目の前を浮かんでは消え、赤い筋がいくつもさす。黒い水面を空にして、あぶくを星に、人魚の長いひれが天女の袖のように翻った。





 ―――――――ぼちゃん!


 ―――――――ひぃぃいいっ


 ―――――――人が流れてきたぞ


 ―――――――な、なんだこの男は


 ―――――――おや、あそこで、何か大きな魚が流れて………。


 曇った視界。暗い洞窟を照らす赤い火が、てらてらと水面の波紋を撫でている。飛沫が赤い星屑のように、おれの目の前をきらきらと舞った。男たちの野太い悲鳴も気にならない。萎れた身が、あっというまに潤っていくのを感じていた。


 ああ、水だ。きれいな水だ。


 おれは助かった―――――――。


タイトル元ネタ/けもの道(COCCO)

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