Ⅴ 偽りと真実の平和より
*
「生を重んじる者は世を征すーーー」
人はこの世に生まれ落ちた瞬間から死へと時を刻みだす。
それは神が定めた理の元、誰にでも訪れるものである。
時間も内容も様々ではあるものの、
人に与えられたもので生と死のみが平等に与えられたものと言っても過言ではない。
特にこんな世界の中ではそうだ。
だが、そんな生と死をむやみに燃やす者がいる。
「死を重んじる者は思を征すーーー」
ジュウゥゥーー!
アッツアツの油を引いたフライパンに厚切りベーコンを数枚のせて手際よく卵を割り入れる。
忽ち色を変え不透明な白色に姿を変える。
この卵もこうして割られることさえなければすくすくと育ち立派な鶏になっていたことだろう。
しかしながら、生きとし生けるものは全て、多かれ少なかれ何かを犠牲に生きていかなくてはならない。
残酷で残忍で残虐なのが生命だ。
だが、それでいてとても美しい。
不完全美とでも言っておこうか。
その儚さも罪深さもとても、美しい。
使い古されたフライパンや鍋が吊る下げらたオレンジ色の煉瓦壁に囲まれた温かなキッチン。
カフェエプロンを腰に巻いた一人の青年は今日も忙しげに朝食を作っていた。
フライパンの隣、そこの焦げた鍋を木ベラでかき混ぜながら温かなコーンスープの味をみる。
「ん〜ん、まぁこんなもんかな」
サージカルテープを両頬につけた黒縁メガネの青年リャオ・カロ19才。
黒髪、褐色の肌に碧眼の瞳。
近所の叔母さんに貰った採れたてレタスにトマトを軽く切って、木のボウルに盛り付けると丁度オーブンからバターの良い香りが漂ってきた。
「カロ兄おはよ〜」
大欠伸しながら奥の階段から降りてきたのは二つ年下の次女エランである。
カロより少し背は低いが、それでも女性にしては背の高い方であろう。
褐色の長い手足はすらりと伸び、ほどよく鍛えた無駄のない身体つき。
彼女は“かっこいい”の部類に当たるのだろう。
そんな彼女は自慢の栗毛を高く結い上げると朝食の手伝いを始めた。
「スープ、もー出来てるから」
「持ってくね」
知性的な高く澄んだ声。
ふんわりとポニーテールを揺らすエランは、ふあぁ〜、とまた大欠伸をした。
「寝不足か?」
「だいほうふ(大丈夫)」
そう言うと居間へとスープを運ぶ。
ふっくらとした目玉焼きに程よく焼き目が付き、波の出来たベーコンはリャオ家に朝の香りを漂わせていた。
盛り付けの作業に取り掛かっていると
「カロー、カロー」
隣の部屋から女性の声がする。
と、同時にドタドタドタとボロ床をならして三人の弟達が元気良くカロへと飛びかかる。
「「「えーーい!」」」
その勢いでフライパンが火元からずれる。
「どあ、!っぶねー。火使ってんだからいきなり飛びつくな、っておい」
そのままよじ登りフライパンを覗く。
一人は腰に一人は背に一人はお腹に抱きついて
「目玉焼き!」
「目玉焼き!」
「目玉焼きー‼︎」
っと、後ろからスープを運び終わったエランの声をかける。
「カロ兄ママが呼んでる」
「あいよ」
人間ジャングルジムになりかかっているカロはそのままフライパンから卵焼きを人数分よそいわけ適当にパンを並べてく。
「お前ら重い〜」
「きゃははは」
「カロ兄〜、僕一番大きいのね!」
「あ、僕も」
「全部同じ大きさだよ」
目玉焼きを均等に分けた五つの皿を居間へと運び出した。その際も、もちろん弟達はしがみついたままだ。
「凄〜い!」
「カロ兄ちゃんウエイトレスさんみたい」
カロの手には傾く事なく五枚同時運びの目玉焼きが……。
カロの下には三人の弟と妹がいる。
上に三人の兄と一人の姉の合計11人兄妹だ。それ故にしなくてはならない事が沢山ある。そうして自然に身についた様々な技術…。
この時代、これだけの家族を養っていくのは骨が折れる。
赤茶の古びた長テーブルの上には既に並べられたスープとチーズやミルク瓶が仲良く並んでいた。
「これチビ達の飯な」
「ひゃっほー!」
「お腹減ったぁ」
「早く食べよーー兄」
カロにしがみついていた三人は今度は椅子によじ登って席に着く。
三人の弟の向かい側に半泣きの三女を抱き抱えて慰めるエランが座りやっと朝食の準備が終わったカロはエランの背に揺られる赤子の妹を抱えてやる。
「エランも妹世話ばっかじゃなくて自分の飯も食えよ。ハジェは俺が世話しとくから」
「ありがとーカロ兄」
向かいの弟達に目を向けるとパンの取り合いが始まっていた。
「これ僕の〜」
「ヘジのだよ!」
「「ん〜‼︎」」
「こらこら喧嘩すんな」
二人の弟に握られたパンは原型をなくし既にぺっちゃんこになっていた。
「二人とも食べる前お祈りしなさい」
「「はーい」」
エランの声に諌められ、弟たちは椅子の上で足を揺らす。
それでも、エランが胸の前に手を組むと静かに目を閉じた。
「営みに感謝し、今日という日を大切にする事を誓います。リャオに世界の人々に聖なる加護があらんことをー」
「「「神の御心のままに」」」
祈りが終わった瞬間に食べ始める弟三人組み。
前は食事の前に祈りを捧げる事なんてしなかった。
「野菜もしっかり食べなさい」
5歳の妹に野菜をよそってやるエランの後ろ、カロは腕に抱く妹にミルクを与えた。
「カロ兄チーズとって」
「はいよ」
忙しない朝食をしばらく眺めたカロは母が呼んでいたことを思い出し、
背に妹を背負いながら両親のスープを部屋へ持っていく。
資料に半埋もれ気味の部屋に何とか空間を作ったような机と椅子。
それぞれを壁に向かい合わせたようにして父と母は仕事をしていた。
カロに気づくと
「気がきく〜。さっすがお兄ちゃん」
母リャオ・ラン。
ショートカットの栗毛。
歳を感じさせない身体はやはり妹と同じく適度に鍛え上げられていた。怒らすと怖いしやたら強い。
「いつもすまい。お前には苦労をかけるな、カロ」
父リャオ・ジュン。
柔らかな声音の通りほんわかとしている父だがやたら頑丈そうなガタイのいい男で白衣を着ていてもその肉体美は伺える。
「そんな事ないよ。それに父さんも母さんも忙しいでしょ。俺がやらないと」
背に抱く妹を揺らすカロ。
「妹弟たちの世話ばかりじゃなくてもっとお前もやりたい事をやっていいんだぞ」
「ありがと、父さん。でもやりたい事なんてないよ。」
片手のすくめるカロを母ランも見つめた。
「それに今は俺が一番上の兄貴なんだ。
家庭をまとめないと」
「頑張りすぎないでよカロ。」
「そうだ。今はなくてもやりたい事が見つかるかもしれないんだから。」
「うん。ありがとう」
そう言って照れくさそうに頬をかいた。
我が家は皆サジカルテープを頬につけている。そういう一族だと思ってほしい。
「さっ、患者さんが待ってるよ。早く食べてみてあげな」
「うむ」
父ジュンはそう言って優しく笑った。
両親は小さな街医者で居間とキッチン以外の一階部分をそのまま診療室として使っている。
温かなスープを片手にカルテを覗く父の隣母は疲れ顔で目の下にクマを作っていた。
「母さん大丈夫、寝てないんじゃないの?」
「大丈夫よ。最近五層階級で事件が多発しててそっちの件の仕事が多くてね〜」
街裏では治安が悪いせいか人さらいや殺人事件がここ4年でグンと増えた。
警察と絡んで現場検証をしている母は引っ切り無しに呼ばれ家でゆっくりする間もない。元気が取り柄の母もお手上げである。
「カロ、悪いんだけどディルさんとこに薬の配達してきてくれない?」
「噴水のところの?」
「そーそー。ママ、また警察からよびだしがあって届けられないのよ」
背にいる妹は寝てる。
「そうやってカロに頼むのやめなさいラン。」
「つい〜」
といって頭に手を当てて見せる母ラン。
「頑張りすぎないよう注意したばかりだろう」
「大丈夫。どっちにしろ街に出るようと思ってたから」
「ありがとうカロ!」
「…ラン」
「あ、最近気をつけてよ。人攫いとか、殺しとか流行ってるから」
黒縁メガネを少し上げ
「大丈夫だよ。こんな明るいうちから出やしないよ」
「全く…。」
少しの沈黙の後
「カロ」
「なぁに? 父さん」
薬の入った茶色の紙袋を手に取る。
「……いや。何でもない」
一瞬真剣な顔になった父ジュン。
カロは首をかしげ、迷ったが
「じゃ、行ってくる」
「朝食食べてからでいいのよ」
「もーとっくだよ」
奥の玄関からだった。
「先生ーーー」
「母さん呼んでるよ」
おそらくは警察だろう。
母も忙しい。
本当ならこんな所で街医者をするような腕ではないが両親はあえてここにとどまり、安上がりの治療をおこなっている。
おかげで生活はきちきちで新しい服を買う余裕もない。
弟も妹もいつも上のお下がりだ。
穴が開けば当て布をし、繕い糸でいっぱいだった。
それでもカロは幸せだった。
月一で兄と姉からの資金が届く。
彼らのおかげで何とかやっている。
母ランにはよく思われていないがカロにとっては尊敬する兄姉だ。
貴族ばかりの騎士団に入り揉め事があれば駆けつけ鬼が出れば狩る。
戦争にだって行かなくてはならない。そんな危険な仕事。
「行ってきます」
背に抱いていた妹を布団へ下ろすと静かに囁いた。
木の床。
エランによってよく掃除がいき届いている。
細い廊下を真っ直ぐ抜ければ玄関だ。
古びたドアを開けると同時に、ドアベルが勢いよく鳴る。
ガヤガヤとした心地よい街の声が聞こえてくる。
特に、今日の街は普段より活気に溢れかえっていた。
街では赤旗の国旗がいくつも揺らぎ至る所の花壇で赤や黄、青の花が咲き乱れていた。
音楽団が街の広場で陽気な音楽を奏で食べ物屋では安売りセールの声が聞こえる。
煉瓦造りの道を鳴らし踊るタップダンスを披露する者。
そして、その周りで盛り上げる住民。
風船なんかを持って親と手をつなぐ子供達も見て取れた。
今日、王都でハルヒ=アスフィニアント=カイロ新王の王位継承の儀が行われるためだ。
街は新たな王を歓迎し祝い盛り上がっていた。
しかし、カロは誰が王になっても正直関係ないと思っていた。
なにせこの街は、この国は、王が変わった程度では何も変わりはしないのだから。
国王は王都から出ることはない。また、街の人の為に何かを成した試しがないからだ。王族や貴族は自分達のことしか考えていない。
彼らは武勲をあげ上の位につく事ばかりに知を使い、王も自分の身可愛さに周りの命を燃やすばかりで鬼と戦った試しがない。上から命令し民から税を奪い血奴隷を使って国に結界を張る。
別にそれが悪いと思っているわけじゃない。ただ、“自分には関係ない”そう思っているのだ。
たかが平民の家の出であるカロが王や貴族などどというお偉いさんに合うなどということはまずないだろう。
何重にも壁や結界で分け隔てられた国家状態はただでさえ目立つ階級の差に負い目をかけて身分差を強調していた。
人々との線引き。
王も貴族も知らないだろう。
この街の14年前の惨劇を。
歩いて数分で目的地が見えてきた。
アテナ像の噴水ーー。
改めて街の風景を見てみるとこの街の平和を実感できる。
煉瓦造りの暖色の家が連なる先に開けた場所がある。そこが噴水。街の人には“聖なる木の泉”と呼ばれ親しまれている。
聖なる木。
つまりはこの国でいうオリーブの木の事だ。
噴水の上、中央。
大きな円盤の上で守護神である女神が手を広げる。その女神の背後、および身体と同化するようオリーブの木があるためそう呼ばれている。
円盤から高々に水が滴りアーチを築く。水はスカイブルーの澄んだ輝きを放ち、落水するたびに涼しげな音を奏でる。その水には多くのコインが沈んでいた。
夕方になると夕日に照らされて真っ赤に染まることから“恋叶いの場”とも呼ばれている。
願いを成就し
背を押してくれると言い伝えられている。
そんな人通りの多い噴水でひときは大きな叫び声が聞こえた。
一つ言っておくと悲鳴ではない。
「団長ーーーー!」
男だ。
こげ茶の焼けた肌の左頬に傷のある男。
噴水の周りを何度も周ったと思えば駆け出し反対の道から再び現れる怪しい男……。そしてまた駆け出す…。
「……。」
配達。それが母からの依頼だ。
気を取り直して片手の紙袋を確認する。
クリップで留めたメモには“ディル”とだけ書かれていた。
再び視線を前へと向けると
果物屋や魚屋が並ぶ市場から出てきた男女が目にとまった。
旅行だろうか?
両手いっぱいの荷物を持つ男の隣、金の髪を二つに結い上げた身軽な少女。
なにやらもめている。
痴話喧嘩……。
平和、だ。
円を描く噴水をつたって右手が送り主の家だ。
暖色の煉瓦造りの家。
ここら一帯は統一感あるのオレンジ屋根が特徴でそんな家が真っ直ぐ並んでいた。
もちろんカロの家も。
ここ数十年で建て直されたばかりでどの家も綺麗な白壁だ。
ドアノッカーを叩く。
コンコンッ。
「おはようございますディルさん。薬の配達です」
呼びかけの少し後、ゆっくりとドアが開かれた。
鮮やかな緑色のそのドアから対照的な白い髪の老婆が顔を覗かせる。
「おやおや、カロ君。おつかいかい?」
ゆっくりとそれでいてハッキリとした優しい声音。
「はい、母の代わりに。脚、まだ痛むんですか?」
しわくちゃの温かな笑顔の老女は杖に目を向ける。
「これかい?少しだけさ。でも、リャオ先生んとこの薬があれば何ともないから大丈夫だよ」
優しい声音の老女はまたニッコリと笑った。彼女はリャオ家のお得意さんでカロが幼い時からよく可愛がってくれるお婆さんだった。
「何か手伝うことがあったら言ってください。力仕事から掃除、洗濯まで何でもやりますよ」
「ありがとさん」
紙袋に入った薬を手渡すとサインを貰い会釈した。
「ご苦労さん。また、弟達をつれて遊びにいらっしゃいな」
「はい、脚をお大事にディルさん」
優しく微笑むと緑色のドアはゆっくりと閉じた。
配達を終えてすぐ
「おや、カロ君じゃないか」
声の方向を見ると林檎を詰めた紙袋を抱えた男が立っていた。
「マーテルさんこんにちは」
彼は少し先にある林檎農家だ。ディルと同じく昔から縁のあるお客で付き合いが長い。
「娘の件は世話になったよ」
「娘さんの風邪、あらからどうですか?」
「お陰様ですっかりよくなったよ」
そう言うと抱えていた袋いっぱいの林檎をカロに渡す。
「これ、さっき取れたばかりなんだ。皆んなで食べてくれ」
「ありがとうございます。弟達も喜びます」
「カロ君、うちの店寄ってかないかい?サービスしとくよ」
そう言って荷台の魚を掲げる男。
「今日はビーフシチューなんだ。また今度」
「あいなぁ〜」
残念そうに、でも笑いながらいった若い男。
「カロ坊、レザーク花商店にいかがかな?」
「レザークさん」
リャオの家はここ3番通りで知らない人はいない。
一歩外に出ればいろいろな人に話しかけられる。
王族や貴族がどんなで、この国の平和が多くの犠牲の上で成り立つ偽りの平和であっても、この街の平和は本物であることをカロは知っている。
14年前のことだ。
鬼襲撃により大飢饉が発生した。
当日の街は生きてるのか死んでるのか分からない人々が道端で倒れこみ虚ろな瞳で曇天を眺めるだけの毎日を過ごしていた。
街自体、戦場になる場も少なくなかった。
やがて、体力低下で疫病が蔓延し始め街中は地獄絵図とかした。
死体の山を燃やす隣でリャオの家は死にかけた街の人を治療し続けた。
それでも、王族も貴族も動くことはなかった。
でも、カロは分かっていた。
当日カロは5歳だった。
高い身分にこがれる事も憎む事もしなかった。
黒刀血者として鬼と戦う騎士達や民の事をそっちのけで王宮に籠る王族も飢えに苦しみ明日を迎えることが出来るかわからない民も皆が皆生き抜くことに必死である事を分かっていた。
だから、カロは誰も何も攻めない。
我がままは言わない。
生と死は平等だから
残酷で残忍で残虐だと知っているから
せめて、自分が救えるだけ、手に届くほんの少しでいいから“助けたい”そう思った。
だからカロは助けを求める人を放ってはおけない。
「生を重んじる者は世を征すーーー」
「死を重んじる者は思を征すーーー」
そしてまた、カロは一人の男に手を差し伸べるのだった。
アテナの噴水。
頬に傷のある男へ
「お困りですか?」
これが彼の始まり。