番外編 幸せのピンキーリング(柿本由良視点)
会社の上司の披露宴に招かれた私は、幸せそうに微笑んでいる新郎新婦を遠くの席から眺めていた。
一年前にも結婚式に招待されたことを、どうしても思い出してしまう。
私は柿本由良。大学を卒業したばかりの社会人一年生だ。
大学時代にアルバイトをしていた洋菓子店の【パティスリーフカミ】で、以前片想いしていた杉浦拓也先輩と、社員の浅岡薫さんの結婚式が沖縄で行われた。
青い海と青い空が眩しく輝いていたのが強く印象に残っている。チャペルから戻ったら、式場が用意していた白いウェディングケーキの横に、なぜか美しく飾りつけられたチョコレートデコレーションケーキも並んでいて、みんなで驚いたのもよく覚えていた。
杉浦先輩と浅岡さん──もう杉浦薫さんだけど──二人は顔を見合わせて、得心したように笑っていたっけ。なんだか二人だけの秘密を共有しているようで羨ましかったなあ。
憧れだった杉浦先輩に振られてしまったことは、もうすでに吹っ切れていたけれど……。お似合いの二人を見ていたら、私も早く結婚したいなあって思ってしまった。
新婦がお色直しで席を離れている時間に、私もそっと席から立ち上がって化粧室に向かった。
少しお酒を飲んだせいか、顔が赤くなっている気がする。手持ちのファンデーションとチークで誤魔化せるかな。
鏡を覗き込むと、綺麗にセットした黒髪は乱れていなかったが、やはり少々頬が紅潮している。手早くメイクを直して、化粧室を出た。
「柿本さぁーん」
「……いつもお世話になっております」
化粧室の外で待ち構えていたように、男性からねっとりした声をかけられる。会社の先輩の男性社員だった。彼も披露宴に出席していたのか。
溜息をつきたくなったが、そこは社会人なので代わりに微笑みを浮かべる。会釈してそのまま脇を通過しようとしたら、強い力で腕を掴まれた。
「何をするんですか、放してください」
男性社員は酔っ払っているのか、赤ら顔でニヤニヤしたまま腕を放さない。前から私に付きまとい気味だったから苦手なのに。
「今日は来ていたんだな。会社で俺のこと避けてるみたいだけど、もしかして意識しちゃってる? 別に俺は柿本さんのこと嫌いじゃないよ。むしろ好意を持ってるっていうか……」
「すみません、放してもらえませんか? 人を呼びますよ」
ぞっとして早口で答えるが、男性社員はなぜか顔を近づけてくる。気持ち悪いっ!
「この後って、二次会行くんだろ? 俺も行くから一緒に行こう」
「私は行きません!」
思わず大きな声が出てしまった。するとその声を聞きつけたのか、披露宴会場から出てきたばかりの人が近寄ってきた。
「何してるの? 嫌がる女性に無理強いはよくないよ……あれ?」
「あ……」
特徴的な長い銀髪を結った彼が私を見下ろす。止められたことに憤ったらしい男性社員が、私の腕を更に強く掴んだ。
「俺は彼女と話しているだけなんだよ。部外者は口出しすんな!」
「うわ、乱暴な言い方だなあ。営業二課の斉藤大地さんだよね」
フルネームを呼ばれた男性社員──斉藤大地先輩は血走った目を見開く。にっこりと笑う銀髪の彼は自分の顔を指した。
「俺のこと覚えていない? うちの会社によく営業に来ていたから、俺は斉藤さんを覚えていたんだけど」
「は、萩原透……専務取締役……」
「あ、覚えていてくれたんだ? よかった、俺は彼女と話したいことがあってね。痛そうだから、腕を放してあげてくれないかな」
慌てて斉藤先輩が私の腕を放す。呆然としている先輩を置いて、私は彼に連れられてその場を離れた。
「大丈夫だった? 由良ちゃんだよね?」
「ありがとうございます。……萩原様」
私は深くお辞儀してから顔を上げる。洋菓子店の常連客だった萩原透さんは、心配そうな眼差しを私に向けていた。
◇ ◇ ◇
斉藤先輩が力任せに掴んだせいか、腕に熱を伴った痛みが走る。私の異変に気づいた萩原さんが、会場の人に声をかけてから病院へ連れて行ってくれた。
「腫れているので湿布と痛み止めを処方しますね。骨に異常はないので、安静にしていればすぐに治りますよ」
お医者さんの診断に安堵した様子の萩原さん。そっと見上げた先の横顔は、以前と変わらず整っていて格好良い。
「とりあえず、そこまで大きな怪我じゃなくてよかったけれど。由良ちゃんの会社には乱暴な社員がいるんだね」
「申し訳ございません……」
「由良ちゃんは被害者なんだから謝る必要はないよ。後で営業二課に俺から抗議するからさ」
この病院までの道のりで知ったことは、萩原さんは私が勤める会社の特に重要な取引相手らしい。しかも専務取締役で、実質的な経営者だと聞いたときには、顔が引き攣るほど驚いた。
そんな人に抗議されたら、斉藤先輩は左遷間違いなしだろう。場合によっては懲戒解雇もあり得るかもしれない。
「あ、その指輪。まだ持っていてくれたんだ」
萩原さんは私の左手小指に目を向ける。彼からのプレゼントであるピンキーリングは、お守りみたいに手放さず身につけていた。
「とても気に入っていまして」
「嬉しいな。……ねえ、柿本由良ちゃん」
病院を出てから萩原さんが改まって私を呼んだ。彼は少し躊躇った後、思い切ったように口を開く。
「……俺と付き合ってくれないかな?」
「え?」
私はびっくりして背の高い彼を見上げる。冗談かと思ったけれど、彼の真剣な表情は変わらなかった。
「いきなりで驚きました……。何か事情があるんですか?」
「ああ、うん。やっぱりそう思うよね」
だってアルバイトを辞めてから、萩原さんとは接点がなくなった。それくらいの遠い関係だと思っていたのに、突然「付き合ってくれ」というのはきっと事情があるのだろう。
「俺が専務になったのは今年からでさ。親の会社だからね、ずっと仕事はやっていたからいいんだけど。でも、周りが『そろそろ結婚しろー!』ってうるさいんだよね」
「会社を継いで、身を固めろみたいな感じですか?」
「そうそう。だけど、親や周囲が持ってくる縁談には乗り気になれなくてさ」
そこで萩原さんは言葉を切る。かがんで私と視線を合わせた。
「今、由良ちゃんに会って思い出したんだ。君の丁寧な接客が好きだったなって。いつも笑顔が可愛かったなって」
「そんな、だって私は」
「言わなくていいよ。少なくとも俺は由良ちゃんのミスを気にしていないからね」
一回だけやってしまったケーキの入れ間違いミス。浅岡さんも萩原さんも誰も怒らなかったけど、私はアルバイトを辞めるまで引きずっていた。仕事でのミスが忘れられず、社会人になったら余計に気を張っていた。
斉藤先輩からセクハラまがいの行為をされても、私に隙があるからだと自分のせいにしていた。だけど、萩原さんは「君が被害者なんだから謝る必要はない」と言ってくれて。仕事ぶりも褒めてくれて。
ぽろりと涙が頬を伝う。
「ありがとう、ございます」
彼は私の張り詰めていた気持ちを和らげてくれた。救われた気分になって、感情が溢れ出す。
「あの、私こそ、ずっと萩原様を素敵だと思っていました。私でよかったら、お付き合い、したいです」
泣きながら途切れ途切れに返事を紡ぐ。ハンカチを取り出した萩原さんが涙を拭ってくれた。
「こっちこそありがとう。そんな真面目な由良ちゃんだから、俺は付き合いたいと思ったんだよ」
◇ ◇ ◇
萩原さんから「透って呼んで」と言われたので、私は「透さん」と呼ぶようになった。
透さんは宣言通り、営業二課にきつく抗議したらしい。
「自分の婚約者に怪我させるなんて許さない~って言ったら、課長を通り越して営業部長が会社まで謝りにきたよ」
「ひぃぃっ!」
そのお話を聞いて、私はいろいろな意味で内心が大変なことになった。
会社でどんな顔をすればいいのと思ったけれど、それより「婚約者」という言葉に反応してしまう。
「お付き合いするだけじゃなくて、すでに婚約者なんですか?」
「当たり前でしょ。付き合ったらちゃんと責任を取るに決まっているよ」
「ええっ? もしかして結納とかするんですか……?」
銀髪の彼は見た目に反して古風な考えを持つらしい。婚約自体は嬉しいけれど、きちんと結納などの手順を踏むのだろうか。
うーんと首を傾げた透さんは、少し間を置いてから何かを閃いたように悪戯っぽく笑った。
「そうだ。結納はいいから、とにかく一度うちに遊びにこない? 一緒にケーキを食べようよ」
「ああ、それはいいですね。もちろん食べたいのはシフォンケーキですよね?」
私たちは顔を見合わせて、秘密を共有するように微笑み合う。
透さんがシフォンケーキ好きなのは、あの【パティスリーフカミ】で接客している人なら知っているけれど。
「一番好きなケーキはティラミスシフォンケーキですよね」
「そうなんだよ」
彼がお店に電話してまで食べたがった、私の入れ間違いケーキが一番好きだと付き合ってから教えてくれた。そのことは私だけの特別な秘密。
優しい透さんは、普段は電話をしてまでミスを指摘しない。だけど、あのときだけはどうしてもティラミスシフォンケーキが食べたくて、思い切って電話したらしい。
「由良ちゃんには悪いとは思ったんだけどね。美味しそうだったし、実際食べたら美味しかったし」
「もういいんですよ。じゃあ、私がティラミスシフォンケーキを作っていきましょうか。実演販売で腕を磨いたんです」
「えっ! それは嬉しいな。期待して待っているね」
アルバイト先で身につけた技術に、婚約者が喜んでくれるなんて思ってもみなかったけれど。
人生、どこでどんなご縁があるかわからないから、技術を持っていて損することはない。
後日、腕によりをかけて作ったティラミスシフォンケーキをお土産に、透さんのお宅にお邪魔したら、彼よりも早くご両親が喜んで食べ尽くしてしまった。
透さんの部屋に通されて二人きりになると、未だに悔しがっている彼の隣に私は腰を下ろした。
「せっかく由良ちゃんが作ってくれたのに……!」
「いえ、こんな豪邸に招かれるなら、もっとちゃんとしたお土産を持ってくるべきでした」
私は透さんの住まいである豪華な和風邸宅にびっくりして、最初は引き返そうと思ってしまったくらいだった。彼と彼のご両親が揃ってお迎えしてくれたので、帰れなくなった経緯を振り返る。
「ううん、絶対次のお土産も由良ちゃん特製ティラミスシフォンケーキがいい! もう両親に食べ尽くされないくらい大きいのがいい!」
年上なのに子どもっぽい透さんには、どうしても甘くなってしまう。私も恋する乙女だなあ。
「わかりましたよ。次はもっとたくさん作ってきますね」
「ありがとう、楽しみにしているね。うちの両親も由良ちゃんを気に入ってくれてよかった。ケーキのお陰もあるかな」
「ええっ? そうなんですか?」
確かにご両親はにこにこしていたけれど、私を気に入ってくれていたとは知らなかった。そう思うと低くなっていた自己肯定感が薄れて自信も湧いてくる。
「私、透さんにもご両親にも、また気に入ってもらえるケーキを持ってきますね」
「ああ~、持ってくるんじゃなくて、早くうちで作ってほしいなあ」
ええっと、それは早く結婚したいってことかな……? 意味ありげに見つめられると顔が熱くなってしまう。
「由良ちゃんは思っていることが顔に出て可愛いなあ。早く結婚しようね」
透さんに抱き寄せられて柔らかいキスをされる。私は目を閉じて応じた。
ピンキーリングが運んでくれた幸せ。私が早く結婚したいと願った夢は、近い未来で叶えられるだろう。




