33 送別会
ホワイトデーから少し経つと、人事異動の時期である。今回の人事異動では、岩波英二さんがこのお店の副店長から、隣駅の三号店の店長になることが決まった。責任が重くなるからと岩波さんは今まで店長職を拒否していたのだが、三号店店長の打診を、今回はすんなり受け入れたらしい。
拓也くんも大学卒業とともにお店を辞めるので、深見店長は二人の送別会を開くことにした。
送別会の場所は【ムーンライト】である。【パティスリーフカミ】の従業員に未成年者はいないので、全員が遠慮なくお酒を楽しめる。恐らく拓也くんが希望したのだろう。彼の就職先なのだから。
送別会の日、私は早番の仕事を終えると、すぐに【ムーンライト】に向かった。遅番の人は来るのが二十二時以降になってしまうけど、それまでにお休みの人や、私と同じ早番や中番の人たちが早めに来店する。今日のシフトは、深見店長と岩波さんは遅番なので、私が早く来た人たちをまとめなければいけない。既に到着しているはずの依子さんとラインを交わしながら、【ムーンライト】へ急いだ。
♦ ♦ ♦
【ムーンライト】の扉を開けると、依子さんと景歌が話している声が聞こえてきたので、私はそちらに近づいた。
「依子さん、遅くなっちゃってごめんなさい」
「大丈夫だよ。新条さんがすっかり整えてくれたからね」
依子さんの言葉に周りを見回すと、すぐにでも送別会が開けそうに準備されていた。景歌を見ると、彼女はにっこりして頷く。
「今回は薫のところの貸し切りだからね。張り切って準備したわよ」
「ありがとう、景歌。わあ、すっごく綺麗なお花がこんなに……」
カウンターには大きな花瓶に豪華な花が生けられていて、華やかな雰囲気を演出していた。置かれているグラスも輝いていて、店内全体が明るく見える。普段は仄暗い感じだが、今夜は「明るさ」を意識しているように思えた。送別会が暗くならないように、ということを考慮してくれたのだと景歌に感謝する。私も二人の側に腰を下ろした。
「えーと、もう準備は終わっていて……。依子さんと私が来て、次に来るのは誰でしょうね」
「誰だろうね。今日の遅番は……」
依子さんと話しているうちに段々従業員たちが訪れはじめ、主役は不在だが、私は最初の乾杯を行うことにした。
「ではみんな! 乾杯をしまーす!」
それぞれビールを手にし、乾杯をする。
「乾ぱーい!」
「乾杯!」
みんなは笑顔で乾杯をした。ビールを口に運ぶと、美味しく冷えた液体が喉に染み渡る。仕事上がりのビールは格別である。
「美味しいよ、景歌」
側にいた景歌に顔を向ける。景歌はてきぱきと働きながら、私とも会話をしてくれた。
「それはよかったわ。うちはカクテルばかりじゃなくて、ビールも売りなのよ」
景歌の仕事ぶりを見るのは二回目だが、相変わらず無駄のない動きで、同じ接客業として感心した。遅番の人たちが来るまで、依子さんや景歌、他の従業員たちとおしゃべりをしていると、あっという間に時間は経って二十二時を回っていた。扉が開き、深見店長を始めとした遅番の人たちが現れる。岩波さんは既にお祝いでもらっていたのか、花束を手に持っていた。
「こんばんはー」
「お疲れ様です。深見店長、岩波さん」
今日の遅番は深見店長や岩波さん、拓也くんや由良ちゃんたちだった。みんながお店に入ると【ムーンライト】店内はいっぱいになり、三月という時期にもかかわらず暑さを覚え、景歌に冷房をつけてもらうよう頼んだ。ほどなく涼しい風が辺りを包み込む。ビールの入ったグラスを再び全員に配り、改めて乾杯を行うことにした。深見店長がお店の中心でグラスを掲げる。
「みんな、待たせたな。それでは岩波と杉浦の送別会を行う。乾杯!」
「乾杯!」
深見店長のかけ声で、隣にいた依子さんと軽くグラスを合わせた。岩波さんのグラスには、あふれんばかりにビールが注がれている。彼の周りには別れを惜しむ従業員がたくさん集まっていて、私も挨拶をしようと近寄った。
「岩波さん。このたびは店長昇進おめでとうございます」
「ああ、薫ちゃんか。ありがとう」
岩波さんはみんなにお祝いされて照れているようだったが、私を見て真面目な顔になり、そっと耳打ちしてきた。
「あ、あのさ、薫ちゃん」
「はい? なんでしょう?」
「悪いんだけど……新条さんとお話できないかな?」
不意に景歌の名前を出されて私は驚く。しかしながら岩波さんの瞳がいつになく真剣だったので、私は了承した。
「いいですよ。すぐに呼びますね」
周りを見渡すと、カウンターで働いている景歌の姿が目に入った。カウンターに近づき、景歌に話があると伝える。彼女は不思議そうにしながらも、私や岩波さんがいるところに来てくれた。
「新条さん、来てくれてありがとう」
「いえ。何かご用ですか?」
「ああ……実は……」
岩波さんは少し躊躇う素振りを見せながら、それでも手にしていた大きな花束を景歌に差し出した。
「前に新条さんは甲斐性のない男性は嫌だって言っていたよね。俺、それを聞いて店長になることを決めたんだ。お願いします、付き合ってください!」
岩波さんはお店の中心にいたので、その発言に場が水を打ったようになる。景歌も常の冷静さとかけ離れた様子で顔を真っ赤にしていた。
「な、何をいきなり……」
「いきなりだったかな、ごめん。でも……薫ちゃんにこのバーに連れてきてもらってから何回か来たけど、新条さんの仕事ぶりというか……お客さんのことをよく見ている姿に惹かれていったんだ。返事はすぐでなくてもいいよ。ずっと待っているから」
景歌は白い手を彷徨わせてから、岩波さんの花束を受け取った。まだ頬を染めたまま──それでもどことなく嬉しそうに見えた。
「……岩波様が何回も来店してくださって、私もお会いするのが楽しみでした。お酒のことをたくさん話せて……。今は混乱していますので、後日改めてお返事いたします」
そう景歌が答えた途端、周囲がざわめきを取り戻した。先程とは異なるざわめきは、岩波さんと景歌を祝福しているようにも思える。周りのみんなは笑顔になって岩波さんの肩を叩いていた。
「いい返事がもらえるように頑張ってください、岩波さん!」
「私たち、応援していますよ」
岩波さんが【ムーンライト】に通っていたことは私も知らなかったのでかなり驚いたが、それでも真っ直ぐに景歌を想ってもらえたことは、二人の知り合いとしてとても嬉しい。みんなに冷やかされて恥ずかしそうにしている岩波さんと景歌を見つめ、二人が幸せになるよう願った。私の隣にグラスを持った拓也くんが座る。
「薫さんはお二人のこと気づいていなかったんですか? 今日【ムーンライト】で岩波さんが告白すること、俺は聞かされていたんですけど」
「え、そうなの? なんだか私だけ仲間外れみたい」
「仲間外れというか……。岩波さんが告白を受けてもらえる自信がなかったんじゃないでしょうか」
私たちはくすくす笑い、それからテーブルに置いていたグラスを持ち上げて、彼のグラスに合わせた。
「拓也くんも……。長い間【パティスリーフカミ】でのお勤め、お疲れ様。社会人になっても頑張ってね」
「薫さんの励ましに応えられるよう、頑張ります」
お店の中心はまだ岩波さんと景歌を取り囲んで賑わっている。私と拓也くんはその光景を眺めながら、誰にも気づかれないように手を重ねた。




