32 愛の挨拶
今年の三月十四日は昨年よりも忙しかった。今年はマカロンが人気で、特にピンク色のものがよく売れた。女の子はピンクが好きな人が多いものなあ、と思いながら、色とりどりのマカロンを販売した。
ホワイトデーが終了すると、洋菓子店としては忙しい日々が終わりを告げる。クリスマスから始まり、バレンタイン、ひな祭り、ホワイトデーと混み合う時期が続くからである。翌日の三月十五日はお休みだった。
私はお昼に銀杏の並木道で拓也くんと待ち合わせをしていた。一日遅れのホワイトデーのプレゼントをくれるというのである。昨日も仕事で会ったけれど、デートということでできるだけお洒落をして、私は出かけた。
待ち合わせ時間より少し早めに着いたのに、拓也くんは既に待っていた。肩にかけているのは黒いヴァイオリンケース。拓也くんのヴァイオリンの音色を聴けると思うと、それだけでわくわくした気分になる。
「早いね、拓也くん」
「浅岡さんとの待ち合わせですからね」
二人で笑い合ってから、彼は銀杏の木の下のベンチでヴァイオリンケースを開けた。この並木道で演奏してくれるらしい。ここは人通りも少ないので、多少音が響いても大丈夫だろう。
チューナーでチューニングして軽く奏でる。美しい音がきらきら周囲を舞っているように感じた。
「では弾きます」
宣言して拓也くんが弾いてくれたのは、先日も聴いたエルガーの『愛の挨拶』。素晴らしい音色にうっとりして聴き入っていると、並木道を歩いていた男女の二人組が足を止めた。
「こんにちは。二人で演奏会かな?」
話しかけてきたのは、見たこともないほど恐ろしく顔立ちが整っている男性だった。美貌に圧倒されながら、私は頷く。
「はい。……あの、うるさかったですか?」
「いや、そんなことないよ。上手だな、と思ってね。──『愛の挨拶』か。お願いなんだけど、もう一度最初から弾いてくれないかな?」
男性の隣にいる髪の長い女性も私たちを見る。女性は艶やかな黒髪が印象的だった。男性とお似合いの、優しそうで綺麗な女性である。
「……征士くん。いきなりお願いしたら悪いんじゃないかしら」
「月乃さん。できることなら、僕が『愛の挨拶』を月乃さんのために演奏したかったんですよ」
何かわけがありそうな様子に、困惑して拓也くんを振り返った。拓也くんも男女を興味深そうに眺めてから口を開く。
「いいですよ、もう一回弾きます」
拓也くんはヴァイオリンを構えて、『愛の挨拶』を最初から弾き始めた。優美な旋律が辺りを包み込む。三人で音色を聴いて、曲が終わると同時に手が痛くなるほど拍手をした。
「素敵な演奏だったね。僕の我儘を聞いてくれてありがとう」
男性が褒めてくれたので、私と拓也くんも笑顔になる。
「いいえ。俺のヴァイオリンでよかったら、いくらでも弾きますよ。──『愛の挨拶』を演奏したくなるようなことがあったんですか?」
「ああ、それは……。否定はできないな」
苦笑いする男性に対して、連れの女性が不思議そうな顔をする。私も疑問に思った。この曲は、何かを意味しているのだろうか。
「征士くん。わざわざ弾いてもらったのには理由があるの?」
先程「月乃さん」と呼ばれた女性が男性に尋ねる。男性は照れたように、自らの髪をかき上げた。
「はい。『愛の挨拶』は、作曲家のエルガーがキャロライン・アリス・ロバーツとの婚約記念に贈った曲です。キャロラインはエルガーより八歳年上で身分が高かったので、結婚が困難だったようですよ。でも……二人の結婚生活は幸せなものだったらしいですね」
「よく知っているのね、征士くん。そう……年の差……身分差……」
年上女性との婚約記念の曲……。『愛の挨拶』が、そんな背景を持っているとは知らなかった。美貌の男性が女性に微笑む。
「僕と月乃さんも、年の差と身分の差があったじゃないですか。ですが、僕たちも幸福な結婚生活を送っています。きみたちも何かが……?」
問われた拓也くんはふわりと笑った。そして、小さな箱を取り出す。
「あなたたちは、相当な障害があった末の結婚のようですね。彼女は二歳年上ですが、身分差はありません。もう一曲弾いてから渡そうと思っていたんですが──お二人の幸せそうな姿を見て、今渡したくなりました」
拓也くんは白く小さい箱を私に手渡した。なんだろうと思って箱を開けると、虹色に輝くダイヤモンドがあしらわれた白金の指輪が入っていた。
「浅岡さん。俺からの婚約の証として、曲と指輪を受け取ってもらえませんか?」
「え……」
私は驚きのあまり絶句する。月乃という女性と、征士という男性は、そんな様をにこにこしながら見守っていた。
「もしかして……プロポーズ?」
「もしかしなくてもプロポーズですよ」
真剣な面持ちで拓也くんはそう言い、再びヴァイオリンの音程を合わせた。そうして奏でられた曲は「スイーツブーケ」──。
『あなたと甘いお菓子が食べたいの
秘密の恋の甘い味
二人きりで煌めくケーキを食べる
あなたの綺麗な瞳に見つめられながら食べると
恋の魔法で何倍も美味しくなるの
ずっと私の側にいてね
砂糖を溶かしたような甘いお菓子を一緒に食べましょう』
拓也くんは──卑怯だ。「スイーツブーケ」を聴いたら、私はプロポーズを受けてしまうことを確信しているに違いない。思い通りになってしまうことは悔しいけれど──ここまで整えられたプロポーズにNOと言えるはずがないではないか。泣いてしまった私の肩を月乃さんが柔らかく抱いてくれた。
「お返事は……決まっているみたいね」
「はい……はい。プロポーズ受けます。拓也くん、曲と指輪をありがとう。これから──よろしくね」
私が泣き笑いで答えると、拓也くんはヴァイオリンを置いて手を握った。
「こちらこそ、ありがとうございます。俺が社会人になって落ち着いたら、結婚しましょう」
「結婚……。嬉しい……」
未だ泣いている私の涙を、月乃さんがハンカチで拭ってくれた。優しくお祝いをしてくれる。
「おめでとう。二人がいつまでも幸せなことを祈っているわ。ねえ、征士くん」
「そうですね、月乃さん。必ず幸せになれますよ。僕も祈っています」
じゃあ、と手を振って、二人は去っていった。拓也くんは私の手を引き、抱き寄せる。
「幸せそうな人たちから祈られてしまいましたね」
「そうだね。私たちもきっと幸せになれるよ」
彼の温かな身体が心地いい。こんなに心地いい拓也くんと一生をともにできるという幸福が、今更ながら実感できた。
「あの……浅岡さん」
拓也くんに名を呼ばれ、私は微かに違和感を覚えた。
「……結婚するんだったら、『浅岡さん』じゃ駄目だよね」
「俺、それを言おうとしていたんですよ」
僅かに考え、ふと「月乃さん」という呼び方を思い出す。あの優しい女性みたいに私はなれるだろうか。
「『薫さん』って呼んで?」
そう提案すると、拓也くんにきつく抱きしめられた。
「薫さん、ですか。それ、いいですね。さっきの二人みたいになれますね」
「うん、そう思ったの」
顔を仰向けさせられ、そっとキスをされる。
「改めまして……薫さん。俺との結婚を決意してくれてありがとうございます」
「ううん。私のほうがお礼を言わなくちゃいけないよ。こんな素敵なプロポーズ、どうもありがとう」
愛しい身体を抱きしめ返し、私は精一杯の喜びを拓也くんに伝えた。




