29 泊まり込み勤務
乙女ゲームの世界から抜け出したと言っても、現実のクリスマスが待ち構えている。タクヤくんとの余韻に浸りながら、それでも集中してクリスマスの準備を進めていく。大量のクリスマス菓子の陳列、包装材料の管理などをしているうちに、二十二日になった。
【パティスリーフカミ】では正社員と日にちが空いているアルバイトが、近所のビジネスホテルに二十五日まで泊まり込みである。泊まりといっても、平均三時間ほどしか眠れないが。
私はバッグに荷物を詰めて、ビジネスホテルに向かった。今回の泊まり込みメンバーは深見麻人店長と岩波英二副店長、杉浦拓也くんと私である。それぞれシングルルームのキーをもらい、荷物を整理した。
荷物を片付け終わった頃、部屋のドアがノックされた。私は返事をする。
「はーい。どなたですか?」
「浅岡さん、俺です。よかったら職場に戻る前に食事に行きませんか?」
ドアの外にいるのは拓也くんであるようだった。私は少し考えてから了承する。
「いいよ。何か食べないと体力持たないもんね」
部屋の外に出て、拓也くんと二人で歩いた。何を食べようかと話し合う。なるべくなら時間のかからない食べ物がいいと思い、近くの中華料理屋さんに入った。
テーブル席に座ろうとしたのだが、何故か拓也くんはカウンター席に誘ってきたので、断る理由もなく並んで座った。
油淋鶏と広東麺を拓也くんとともに頼んで、分け合って食べる。美味しい油淋鶏と広東麺を夢中で食べた。食べ終わって満足した溜息をついていると、不意に拓也くんが私の手を握った。
「美味しかったですか? 浅岡さん」
「美味しかったけど……どうして手を握るの?」
「俺も浅岡さんの手を握っていると気持ちが安らぐからです」
にっこりと言い切られ、私は顔が熱くなった。拓也くんと手をつなぐのは私も落ち着く気分になるが……それでも彼の好意の感情を知っている身としては、触れ合うことが恥ずかしい。私は手を離すと、そそくさとお会計を済ませてお店を出た。
【パティスリーフカミ】に入ると、二十二日にもかかわらず、多くのお客さんで混み合っていた。私と拓也くんは素早く制服に着替え、接客をする。既にクリスマスデコレーションケーキは入荷している。その日は売店だけで六十万円売り上げて終わった。
「明日からもっと気合い入れていこう!」
深見店長の声は明るい気持ちにさせてくれる。二十三日から二十五日までが勝負だ。私は深見店長の言葉通り、改めて気合いを入れた。
二十三日も入荷数が多いが、深見店長の采配で万事うまくいった。店長とはかくあるべき、という見本のような姿である。私があんなに思い悩んでいた店長職を軽々こなしているように見えた。──実際の店長職は厳しいものだと、身をもって体験したことであるので、余計にそう感じたのかもしれない。なんにせよ、二十三日は無事に営業終了した。
翌日のイヴは午前三時出勤である。あまり眠れていないが、興奮状態にあるようで、眠気はなかった。張り切って品出しを始める。依子さんも私と同じく三時出勤である。些か心配そうに私に声をかけてきた。
「寒いね……。朝早いけど、薫ちゃんは大丈夫?」
「大丈夫ですよ。頑張ってイヴを乗り切りましょう!」
深見店長は、前年三百万円売り上げに対して四百万円分オーダーしていた。強気な発注にみんなは唖然としながらも、一生懸命予約取り分けや商品をしまう作業に没頭した。
開店時間には品出しや清掃も間に合い、お客さんをお迎えする。朝からたくさんのお客さんがお店にやってきた。私は間違えないよう注意深く注文を伺いながら、ケーキを箱詰めした。クリスマスイヴは忙しい分、どうしてもミスが多くなる。ミスはしないよう心がけて接客をした。
十二時になると萩原透さんが来店した。柿本由良ちゃんが応対している。
「いつもありがとうございます。三号サイズから七号サイズまでのクリスマスデコレーションケーキをご用意していますが、いかがでしょうか?」
「う~ん、種類が多くて迷うなあ。この苺たっぷりクリスマスデコレーション五号サイズにしようかな」
「一番人気の商品です。味は保証いたします」
由良ちゃんが笑顔で接客していると、つられたように萩原さんも笑顔になった。
「じゃあ、その一番人気商品で。おすすめしてくれて嬉しいな」
「ありがとうございます。少々お待ちくださいませ」
萩原さんの笑みに、由良ちゃんが僅かに頬を染めている気がした。それでも手際よく箱詰めをしてお会計をする。萩原さんが扉から去っていくとき、銀髪が綺麗に輝いていた。
交代で休憩しながら、夜のピークへ向けてみんなで予約の受け渡しや商品補充、接客などを代わる代わる行う。十九時からベルトパーテーションを置き、お客さんに並んでもらった。お客さんは順番を守って並んでくれたので、スムーズに接客することができた。
「いらっしゃいませ」
「お待たせいたしました。ありがとうございます」
深見店長が店員に教育熱心なので、みんな接客態度はいい。売店に並んだお客さんも不快感を見せず、整理番号順に洋菓子を購入してくれた。私も拓也くんも、丁寧にお客さんと接する。拓也くんは最後のクリスマスだと思うと、彼のきちんとしたミスをしない接客応対が惜しくなってしまう。
「どうかしました? 浅岡さん」
「ううん。なんでもない」
少しばかり拓也くんを見ていたことに気づかれてしまった。でも、もう閉店が近い。ケーキの残数も少なくなっている。
二十二時に閉店することができた。クリスマスデコレーションやカットケーキはほとんど残っていない。深見店長と岩波さんが売り上げ計算をして、そして売上額をみんなに伝えた。
「四百万円売り上げた! みんなお疲れ様!」
「四百万円……」
私は呆然として売り上げを呟いてしまった。イヴの売り上げ四百万円は素直にすごいと思う。【ローズスイーツ】でも二百万円がやっとだった。
「すごい売り上げですね」
隣にいた拓也くんが、また私の手を握った。私は無意識に握り返してしまう。
「そうだね……。私たち、頑張ったね」
「頑張りましたね。あと一日です」
明日のクリスマスが終わったら、しばらく忙しさから解放される。クリスマスが終わったら──私は拓也くんに返事をしなければならない。まだ、ゲームの中のタクヤくんが忘れられない私としては、なんと答えていいか迷ってしまう。
「どうしました?」
拓也くんの黒々とした二重の瞳が私の目を覗き込む。私は顔を背けて彼と目が合わないようにした。
「……今は仕事中だから。クリスマスが終わったら、色々話そうね」
「そうですね……」
拓也くんとタクヤくんが私の中で重なる。でも私が惹かれているのは──。
私は頭を振って気持ちを切り替え、明日のクリスマスのことのみを考えるようにした。




