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23 峰岸航希の来訪

 ハロウィンも終わった十一月一日。【パティスリーフカミ】に何故か峰岸航希が来た。私に会いたいというので、休憩室に入ってもらう。


「何か用? 仕事中なんだけど」

「すぐ済む用件だから。その……悪い。お前に渡した慰謝料返してくれないか?」

「……は?」


 何を言っているのだろうと、私は呆気にとられるしかなかった。勝手に婚約破棄をしておいて、今頃になって慰謝料を返せとは……。


「まさか……私とやり直したいとかじゃないよね」


 言外にそれは嫌だと匂わせながらも、一応訊いてみる。航希は項垂れたまま否定した。


「それは……違うんだ。単純に金がなくなったんだ」

「お金がなくなった?」


 航希と付き合っていた頃は、彼はせっせと貯金に励んでいた。彼は確かにショッピングが好きだが、それにしても慰謝料を返せという了見がわからない。


「なんで、そんなにお金がないの?」

「わけは……言えない……」

「そう。それなら、私も返せないよ。私のこと馬鹿にしているの? 早く帰って」


 追い立てると、それでも彼は食い下がった。


「あの慰謝料の五分の一でも構わない。どうしても金が必要なんだ」

「……景歌から、付き合っている女の子にブランドの服をあげたって聞いたけど。その彼女さんに泣きつきなさい」


 冷たく突き放すと、航希はお店を振り返りながら出ていった。休憩室の扉が開いて、杉浦拓也くんが私を見つめる。黒々とした瞳は澄んでいて、航希とはまるで別物である。


「俺、ここにいたから聞こえちゃいましたけど……すみません」

「ああ、いいよ。どうせあんな男がお金を返せって言ってきただけだもの。気にしないで」


 久しぶりに航希と会ったせいだろうか。私の心の中は穏やかではなかった。


 ♦ ♦ ♦


 景歌とカフェ【ヤルヴィエン】で会っておしゃべりをしていた。さすがにこの時期、オープンテラスは寒いので、店内のテーブル席に座っている。

 二人で注文した紅茶はオータムナル。店員さんの説明によると、ダージリンの中でも今が一番美味しいらしい。

 紅茶を飲みながら、景歌は淡々と話し始めた。


「杉浦くんから聞いたわ。峰岸が慰謝料を返せって言ってきたらしいじゃない」

「もう知っているの。拓也くんなら誰にも話さないと思ったけど」


 景歌は難しい顔をする。拓也くんが景歌に話したのは、ただ話したかっただけではなさそうである。


「あの、ね。私も確証があるわけじゃないんだけど……峰岸は【ムーンライト】で怪しげな感じなのよ」

「怪しげ?」

「なんていうか……はっきり言うと、【ムーンライト】の売り上げを誤魔化している気がするわ」

「誤魔化してって、それって……まさか、横領!?」


 思いも寄らない単語に私は椅子から立ち上がってしまった。店員さんやお客さんがちらちらと見てくる。私は恥ずかしくなって、そっと椅子に腰かけた。


「だから私も確証があるわけじゃないわ。だけど、どうしても彼は売上伝票を抜いている様子なのよ」

「……売上伝票を、抜く?」


 耳慣れない言葉に、私は景歌の説明を待つ。彼女は小さい声で話し始めた。


「薫のお店はPOSレジだから関係ないけど、売上伝票を抜くっていうのはね、つまりその伝票を自分で持って、会計のお金も自分の懐に入れちゃうわけよ」

「……レシートが発生しないってこと?」

「物わかりがいいわね。そうよ、レジを打たないの。もしお客さんがレシートを欲しいって言ったら、自分で用意した領収書に書くだけ」


 手口の巧妙さに唖然としてしまう。航希は──レジを打たないで、お会計のお金を自分のものにしてしまったわけだ。


「ただ証拠がないのよ。売上伝票の枚数が少ないなって思うんだけど、それを峰岸が持っているかがわからないしね」

「横領の証拠がない?」

「そうなの。峰岸の金遣いは荒いわ。買い物をしまくったり、ギャンブルに手を出したり。それで横領したお金だけじゃ足りなくなっちゃったんじゃないかしら」


 航希に一回だけ競輪場に連れて行ってもらったことがある。競輪場の広さの説明や、賭け方など異様に詳しかった。三連単(一着から三着までの順位を当てる賭け方)狙いなら……外れる可能性は高い。


「航希が横領して……それが本当だとしたらどうなるの?」

「そうね。額にもよるけど……最悪、裁判所に起訴されるわね」


 私は唇を噛みしめた。航希は横領しているかもしれないということ。私にとって嫌な思い出しかない男。職場まで慰謝料を返せと迫ってきた男。私は考えた。


 ──航希を裁判所送りにしてやりたい。自分の罪を償わせたい。


「景歌。私に考えがあるんだけど、聞いてくれる?」

「え? いいわよ」


 私は自分の考えを話した。航希は妙なところで真面目さがある。もし売上伝票を抜いたとしても、自分で管理しているに違いない。自分がいくら抜いていくら使ったかを計算している男。それが航希だ。


「……だから私は航希のアパートを探してみる。景歌は職場を探してちょうだい」

「そんな……。峰岸にばれたらどうするの?」

「ばれないように十分気をつけるから」


 渋る景歌を説き伏せて、私は航希のアパートの中を探すことにした。


 ♦ ♦ ♦


 航希のアパートの合鍵は、幸運なことに机の引き出しの奥深くにあった。鍵を変えていないことを祈りつつ、アパートへ向かう。道を歩いていたら、声をかけられたので、私はびくっとなってしまった。


「浅岡さん……」


 上着のポケットに手を入れて電柱の陰にいたのは拓也くんだった。彼は複雑そうな表情で私を見ている。


「あの男の家に行くんですよね。新条さんから聞きました」

「……悪い?」

「悪いですよ。女性一人で行って、危ない目にあったらどうするんですか?」


 拓也くんは私を電柱の陰に引っ張り込んだ。屈んで耳打ちをする。


「俺も行きます。浅岡さんだけには任せられません」

「でも……拓也くん、関係ないのに」

「関係あります」


 そのまま私の額にそっと口づけられた。私は驚いて額を押さえる。


「俺がなんのために柿本由良と話をつけたかわかっていますか?」

「……」


 いくら鈍い私でも、拓也くんの本意に気づいてしまった。しかし今は恋愛に浸っている余裕はない。景歌がこの時間なら、航希が家にいないことを教えてくれたのだから。


「ごめん、今すぐには返事できないよ。とりあえず航希の家に行かないと」

「そうですね。それが先決です」


 私は拓也くんとともに、航希のアパートまで走り出した。


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