2 杉浦拓也くんの慰め
椅子に座って私は泣き続けていた。航希の後ろ姿が脳裏に焼きついてしまって、涙がとまらない。台詞が蘇ってくる。
──薫、別れてくれないか。
──お前とは終わりとしか思えないんだ。
──悪い。許してくれ、薫。……じゃあ、な。
もう二度と会えないのだろうかと、俯いて両手で顔を覆う。手が涙で濡れても、それを気にすることなく、周りを憚らずにしゃくりあげていた。
いつまでそうしていただろう。不意に後ろから腕を触られて私は驚いた。顔を上げて振り返ると、勤務先のアルバイトの杉浦拓也くんがきまり悪げに私の腕を柔らかく撫で、ハンカチを差し出してきた。
「その……浅岡さん。見たり聞いたりするつもりはなかったんですけど、俺、ここに座っていまして。つい、一部始終を……」
「拓也くん……」
彼のハンカチを恐る恐る受け取って、目元を拭う。拓也くんは私の腕を撫でたままである。温もりが心地よくて、腕を委ねてしまった。
「なんていうか、その、気にしないほうがいいですよ。気にするだけ時間の無駄だと俺は思いますね」
浮気した挙げ句、婚約破棄なんてろくでもない男です、と荒々しく吐き捨てた拓也くんは、とても優しい。彼は非常に背が高い。前に百八十二センチあると聞いたことがある。近くに感じる頼りがいのある温かな身体に、私の心は慰められた。
しばらく拓也くんの側にいると、彼の茶色がかった髪が顔に当たった。ストレートの髪は滑らかな感触で、ずっとそのままでいたくなる。
ようやく私が落ち着いた頃、拓也くんは身体を離して目を覗きこんできた。彼のくっきりとした二重の黒い瞳を見つめ返すと、吸い込まれそうな感覚に陥った。
「泣きやみましたね。浅岡さんは笑っているほうがいいですよ」
ぽん、と軽く私の頭を叩いて拓也くんは立ち上がった。
「何かありましたら、遠慮なく言ってください。西狩獲麟と割り切ったらいいんじゃないでしょうか」
「……せいしゅ、かくりん……?」
聞きなれない言葉を、私は鸚鵡返しに言う。
「物事の終わりという意味です。切り替えて、次に行ってください」
にやりと彼は悪戯っぽく笑って喫茶店を出ていった。私も身体の震えがおさまったので立ち上がり、テーブルに伏せられた伝票をひっくり返す。──航希は慰謝料を払ったくせに、ここのお勘定は私任せだった。苛立たしい気持ちになりながら、拓也くんの言った四文字熟語を思い出す。
『西狩獲麟』
物事の終わり、か。難しい熟語を彼は知っているのだと感心する。
航希とは、もう終わり。拓也くんの助言通りにしようと考えたが、それでも私の中に未練が残った。
マンションに帰ると、机の上に飾ってある航希と二人での旅行の写真が目に飛び込んできて、私はまた泣きぬれてしまった。
♦ ♦ ♦
翌日の金曜日、赤く腫れた目を化粧で誤魔化し出勤すると、依子さんと会った途端手を握られた。
「つらい目にあったんだってね、薫ちゃん。気持ちはわかるつもりだから、なんでも相談してね」
「……は?」
私は依子さんの言動にびっくりする。つらい目にあったって……と戸惑い、そして婚約破棄のことを指しているのかと当たりをつけた。どうして知っているのだろうと疑問がよぎる。
「あの……?」
「言わなくていいから、失恋のことは忘れなさいね。私は薫ちゃんの味方だよ」
だから、なんで婚約破棄のことを知っているのだろう。まさか……と疑惑が込み上げる。
「……拓也くんから聞いたんですか? 婚約破棄のこと」
「え?」
依子さんは突拍子もないことを聞いたような顔をしている。様子を窺うに、拓也くんは話していないのだろう。彼はそういう思いやりのない行動はしないはずだ。でなければ、あの場で私を慰めたりなどしない。
「聞いたのは……麻人くんからだけど。麻人くんは、昨日の遅番で柿本由良ちゃんから聞いたって言っていたね」
「由良ちゃん……?」
何故、彼女の名前が出てくるかわからなかった。しかし、その日は次々に仕事仲間に同情されたり、慰められたりした。特に副店長の岩波英二さんは優しい顔に情に満ちた微笑を浮かべて、親身に励ましてくれた。
「薫ちゃん、今度ぱーっと飲みにいこうか。映画を観ても気分が晴れるぞ」
「は、あ……。ありがとう、ございます」
謎に包まれた一日が過ぎていく。夕方になり、由良ちゃんが出勤してきた。彼女は大学二年生で主に平日の遅番、土日の早番勤務のシフトを希望している。私は婚約破棄を職場で暴露され、苛立つ気持ちを押し殺しながら、由良ちゃんに尋ねた。
「由良ちゃん、聞きたいことがあるんだけど」
「はい、なんでしょう?」
彼女はお人形さんのように可愛い、あどけない顔を私に向けた。金褐色のセミロングの髪が揺れる。由良ちゃんは深見麻人店長や岩波英二副店長に注意されても、派手な髪の色を変えない。
「……私が婚約破棄されたこと、どうして知っているの?」
由良ちゃんは一瞬きょとんとして、そして笑い声を上げた。なんとなく嫌な感じの笑い方に不快さが増す。彼女は笑いをおさめて、私に対して挑戦的に思える態度で腕を組んだ。
「私、見たんです。昨日、喫茶店で浅岡さんと彼氏さんが揉めていたのを。そのあと、杉浦先輩が浅岡さんを慰めていたのを」
「え……は?」
想像もしていなかった答えに驚く。昨日航希が指定した喫茶店は、このお店に近いから職場の人間がいてもおかしくはないが、それにしても彼女が言いふらしたことは不可解である。由良ちゃんも拓也くんと同じで、そういうことをする人柄ではない。
「杉浦先輩に慰めてもらってよかったですね。先輩は誰にでも優しいですからね」
私は黙り込んだ。彼女は御門大学の二年生で、四年生の杉浦拓也くんの後輩である。私の推測が正しければ……由良ちゃんは拓也くんに憧れているのではないか。だから、昨日拓也くんに慰めてもらった私が羨ましいのだろう。羨ましい、というか妬ましさの感情も入っている気がする。私の考えが合っていれば、きっと彼女は私を傷つけるために職場のみんなに伝えたのだ。婚約破棄で傷ついた心を、より抉るために。
私は由良ちゃんが怖くなって、一歩後ろに下がった。
「もう、いい……。仕事さえちゃんとやってくれれば」
「それはもちろんです」
彼女は笑みをたたえて、そう言い切った。私は引き継ぎをそそくさとすませ、逃げるようにマンションに帰った。