19 カオル
翌日の朝日が出る前に、私はプライベートビーチを散歩した。誰の足跡もついていない砂浜を歩くと、それだけで気分が明るくなる。
「浅岡店長」
名前を呼ばれて、驚いて振り返った。私一人だと思っていたのに──タクヤくんが後ろに立っていた。
「その……コテージから浅岡店長が出ていくのを見かけまして」
「なんだ、来なくてもよかったのに」
朝日が昇って私たちを照らす。青い波間が光り輝き、水飛沫が跳ねて私に僅かにかかった。
「ああ、浅岡店長。俺のシャツでよかったら着てください」
「大丈夫だよ。少しかかっただけだから」
「いいから着てください。風邪をひいたら大変です」
彼の迫力におされて、私は開襟シャツを受け取った。タクヤくんは上半身に紺のランニングシャツを着ている。薄いシャツの生地から、彼の鍛え上げられた肉体が見えて、眩しくて仕方ない。
私が濡れたブラウスを脱いで、タクヤくんの開襟シャツを着ると、彼は満足げに頷いた。
「なんか……自分のシャツを着てもらいたい男性の願望がわかる気がします」
「え?」
「なんでもありません。一緒に散歩、しましょう?」
彼と既に熱を帯び始めている砂浜を歩く。タクヤくんの開襟シャツは大きくて、まるでワンピースを着ているようだった。
「ユラちゃんは?」
「さあ? まだ眠っているんじゃないですか。昨夜もなんだか意味不明な話をしていましたしね」
「意味不明……」
あんなにしなだれかかっていたのに意味不明呼ばわりとは……私はすごくおかしくなって笑い転げてしまった。
「どうしたんです? 浅岡店長」
「それはこっちの質問だよ。ユラちゃんのことどう思っているの?」
「柿江……? 仕事仲間、ですね」
その答えに私はますます笑ってしまった。
「じゃあ、私は?」
笑いながら尋ねると、突然タクヤくんは真面目な顔になった。
「……昨夜柿江から言われたんですけど、『下の名前で呼んでもいいか』って。もちろん断りましたけど……。もし、浅岡店長が俺に同じこと言われたらどう思いますか?」
「名前?」
「そうです。名前呼びです」
私は少し考え込んだ。別に名前で呼ばれるのは──ユラちゃんはともかく、タクヤくんに呼ばれたら嬉しいかもしれない。私は顔に微笑みを浮かべた。
「お店とか、誰かが聞いている場所じゃ駄目だけど……今だけならいいよ」
すると彼は多少からかう風情で私の名を呼んだ。
「……カオルちゃん」
「!」
まさか「ちゃん」づけとは……! タクヤくんは面白そうな顔をしている。
「カオルちゃんっていい響きですね。また呼んでもいいですか?」
多分、私の顔は耳まで赤くなっているに違いない。だけど「カオルちゃん」か。タクヤくんにそう呼ばれるのはなんとなく楽しかった。
「……誰も聞いていないところで、呼んでね」
「はい、カオルちゃん。──カオルちゃん──カオル」
不意の呼び捨てにびっくりして顔を上げると、タクヤくんは耳元で私の名前を呼んだ。心臓が思い切り高鳴る。
「カオル……カオル」
「タクヤくん……」
身体が熱いのは沖縄の気温のせいではなく、紛れもなくタクヤくんが私の名前を呼ぶからである。「カオル」。タクヤくんの声で呼ばれると、なんと甘美な響きだろう。うっとりとしていたが、白い砂浜に人影が見えたので、私たちは身体を離してコテージまで歩いた。
沖縄では、レンタカーで色々回った。運転はタクヤくん。趣味がドライブというだけあって、とても上手だった。
名所を回って名物の沖縄蕎麦や、ゴーヤチャンプル、ちんすこうなどを食べ歩いた。しかし結局はプライベートビーチに戻ってきてしまうのは、ここの景色が一番綺麗だからである。私たちは水着に着替え、水遊びをしたり泳いだりした。
夕闇が辺りを包んできたので、私たちはコテージに入った。入浴を済ませると、タクヤくんが遠慮がちにドアをノックしてきた。
「はい、どうぞ」
「すみません、夜遅くに」
タクヤくんは、昨日ユラちゃんがしなだれかかってきたのは、彼も予想外であったと話した。「誤解しないでくださいね」と言って部屋から去っていった。
──私は不思議に思う。どうしてタクヤくんは、私にそんな話をしてきたのだろう。彼の帰り際、ピンクの花びらが舞っていたのは気のせいだろうか。
とりあえず、明日は帰るので早く眠ることにした。
♦ ♦ ♦
私たち三人は二見ヨリコさんと黒岩エイジさんに泡盛をお土産に渡した。二人とも喜んでくれたので、お土産選びが間違っていなかったことに胸を撫で下ろす。
前々から私と、黒岩さんと、タクヤくんで話し合っていたクリスマス予約のことを本店に伝える。希望が通って十月からクリスマスデコレーションの予約を開始することにした。十月の予約は二割引き、十一月の予約は一割引きである。
タクヤくんの助言通りにしたのに、彼の好感度は上がらない。十二時になると、萩尾トオルさんがきて、ショーケースを眺めた。
「うーん。八月はゼリーやババロアが主だね。好きなんだけど、毎日だと飽きちゃうな」
「はあ……申し訳ありません」
少しばかり曖昧に返事をしたら、萩尾さんは私の顔を見た。
「カオルちゃん、なんか元気がないよ。どうかした?」
「いいえ……。すみません」
萩尾さんは恐らく私を気遣ったのだろう、私的な誘いをしてきた。
「カオルちゃん、明日の夜空いている? 気分転換に俺とクラブに行かない?」
「え? クラブですか?」
驚いて聞き返すと、萩尾さんはにっこり笑った。
「俺、時々クラブで踊っているんだ。見ているだけでも気が紛れるから、ね。行こう。約束だよ」
萩尾さんは、メモにさらさらと文字を書いて私に渡す。繁華街の駅の名前と時間だった。
「駅で待ち合わせして行こう。来なかったら、俺ももうこのお店に来ないからね」
私は仕方なくメモをポケットにしまった。常連客を逃してはいけない。それに、萩尾さんはとてもいい人なので、明日は行くことに決めた。




