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14 拓也くんの温かい手

 今日は【パティスリーフカミ】でも母の日である。前年売り上げが売店のみで六十万円だったので、深見麻人店長は七十万円分発注した。

 いつもは八時出勤だがイベントではもっと出勤時間が早くなる。今日は七時出勤で、更衣室で依子さんと一緒に急いで着替えていた。


「どのくらい売れるでしょうね」

「麻人くんが工場発注分で足りなかったら、実演でも母の日商品を作るって言っていたね」


 手を入念に洗ってから、マスクと手袋をつけて品出しを始める。ショートケーキやモンブラン、チョコレートケーキにカーネーションのピックが刺さっていた。いつもよりはるかに多い商品数に手間取っていると、杉浦拓也くんがカフェスペースからきて手伝ってくれた。


「このチョコレートケーキ美味しそうですね」

「そうだね。いつもより気合い入れて作っている感じがするよ」


 無事に開店時刻の九時までに陳列や清掃が終わり、接客に専念する。とはいっても、混むのは夕方頃からである。ゲームの中で上杉タクヤくんが指摘していた通りに、男性客は当日になって母の日を意識するから、当然といえば当然だった。

 少し時間があったので、ガラスを磨いていた拓也くんに話しかける。


「拓也くんは、お休みの日とかに何して遊んでいるの?」


 彼は一瞬戸惑った顔をしてから、それでも私の質問に答えてくれた。


「お休みの日ですか……。ドライブが好きなので、海とか見に行っていますね」

「……ドライブ?」


 私は驚いた。ゲームの中のタクヤくんと同じだったからである。──現実世界と乙女ゲーム世界は、どういう関係にあるのだろうか。


「浅岡さんは?」


 拓也くんに問い返され、私は困ってしまった。私もゲームと同じことを言う。


「音楽鑑賞、かな……」


 乙女ゲームと正直に答えてもよかったけれど、なんとなく拓也くんには知られたくなかった。拓也くんは、いつもの皮肉っぽい笑みを浮かべる。


「何か隠していませんか?」

「ううん。本当に音楽を聴くのは好きだよ。曲にもよるけど」

「……へえ」


 それこそ何か隠していそうな拓也くんは、意味深に頷いてからガラス磨きを再び始めた。

 午後になると予想通りお客さんが多く訪れる。十二時に萩原透さんが現れた。


「こんにちは。そうか、今日は母の日か」

「いらっしゃいませ、萩原様。よろしければ母の日の特別商品はいかがですか?」

「そうだね~。うちの母に買っていこうかな。そのデコレーションケーキちょうだい。五号のやつ」


 まさかの母の日デコレーションのご注文に私は固まった。いらっしゃいました、五号で七千円の商品を購入するお客さんが! 私は壊さないように、慎重に母の日デコレーションケーキをケースから取り出した。


「こちらでよろしいでしょうか?」

「うん、可愛いね。カーネーションのデコレーションケーキで母の日らしくて」

「ありがとうございます。少々お待ちくださいませ」


 私は丁寧に包んでお会計を済ませ、ケーキを萩原さんに手渡した。


「お気をつけてお持ち帰りくださいませ」


 私が深くお辞儀すると、彼は銀の長髪を触った。


「もちろん気をつけて帰るよ。……最近母が髪を切れってうるさくてね、ご機嫌取りのつもりだから」


 多分、萩原さんのおうちはお金持ちなのだと推測する。でなければ、あんな大きいお宅には住んでいないだろう。お金持ちにはそれなりの苦労がありそうだと、私は思った。

 段々と来客数が増え、忙しさに拍車がかかる。お客様さんに母の日用のプレートを頼まれ、チョコペンで文字を書こうとしたのだが、「優子さん」というお名前で「優」の文字の画数が多くてうまく書けなかった。側にいた拓也くんに泣きつく。


「ごめん、拓也くん! このプレート書ける!?」

「……相変わらず、浅岡さんは不器用ですね」


 呆れながらも、拓也くんは上手に「優子さん」と書いてくれた。あまりの上手さに私は心底感激する。


「ありがとう! こんなに綺麗に書けるなんて尊敬するよ」

「大袈裟ですね……」


 そう言いながらも、どことなく拓也くんの頬が赤く染まっている気がする。照れているのかと思うと、年下らしくて可愛いなあと微笑ましくなってしまった。

 夕方から夜にかけては整理番号をお配りするほど混雑した。私はレジで声を張り上げる。


「三十八番の番号札でお待ちのお客様! お会計をさせていただきます」

「お品物はこちらでよろしいでしょうか?」


 拓也くんと連携しながら接客をする。昨年のクリスマスは比較にならないほど混み合ったので、ミスをせず接客をすることができた。──ゲーム内で『母の日』を体験していたのも大きいかもしれない。あのときは店長として、色々なことに気を配らなければいけなかった。今のように、平社員として接客だけをしているわけにいかなかったから、あの責任重大さを思えば心が軽い。


「なんだか浅岡さん、余裕で仕事をしていませんか?」

「え、え、そんなこと、ないよ?」


 楽しそうに接客している姿を、拓也くんは不思議に思ったらしい。でも実際楽しい。接客はもともと好きだし、それが拓也くんとの接客なら尚更──。


「……あれ?」

「どうかしましたか?」


 拓也くんがケース下で私の目を見つめてきた。くっきりとした二重の双眸。その瞳を見ていると、私は心臓が高鳴り──。

 邪念を振り払うように、私は首を振った。今は仕事中である。余計なことを考えてはいけない。


「なんでもない。もうすぐ閉店だから頑張ろう!」

「……そうですか」


 拓也くんは心配そうに黒い瞳で私を見ていた。


 二十一時の閉店時刻を過ぎてもお客さんがいらっしゃったが、二十一時半までには閉店することができた。実演からも、母の日のピックが刺さったシュークリームが運ばれてきて、それも好評だった。深見店長と岩波英二さんが売り上げ計算をするのを、私たちは片付けながら様子を窺っていた。手応えは十分であった。目標売り上げを超えているだろう。


「やった! 今日の売店売り上げは八十万円だ!」


 深見店長の叫び声に、全員で歓喜する。私は思わず横にいた拓也くんの手をぎゅうっと握ってしまった。拓也くんは特に抵抗する素振りも見せずに、私の手を握り返してくれる。


「浅岡さんは、手を握られるのが好きなんですか? なんて頼むんでしたっけ?」

「……意地悪」

「あはは! ちゃんと言ってください」


 彼は私の顔を覗き込む。黒々とした瞳は、私の何もかもを吸い取ってしまいそうに思えてそれが怖いのだが、吸い取って欲しいという感情も私の中でせめぎ合う。私は目を逸らした。


「……手を、握って。お願い」

「はい。わかっていますよ」


 拓也くんの大きな温かい手は、私の手を離さず、まるで私の心も離してくれないような錯覚を感じた。


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