12 岩波さんと萩原さん
母の日が近づき、私は約束通り岩波英二副店長と飲みに行くことにした。彼は尋ねてくる。
「この辺の飲み屋は、俺は結構行ったんだよな。どこか薫ちゃんのおすすめの飲み屋はある?」
「えーと……」
私は普段そんなに飲まないので、飲み屋に詳しいわけではない。しかしふと思い出して、家に帰ってから景歌に電話してみることにした。
「もしもし、景歌? ちょっと訊きたいことがあるんだけどいいかな?」
『いいわよ。何かしら?』
「あのね……」
岩波さんと飲みに行く約束を話す。景歌はバーに勤めているので、飲み屋についてはよく知っているだろう。
『なんだ、それなら【ムーンライト】にくればいいじゃない。カクテルをご馳走するわよ』
「景歌の働いているショットバー?」
『そうよ。峰岸航希がお休みの日なら薫も来やすいんじゃないかしら。日程を伝えるから、是非来てちょうだい』
次の日、岩波さんに話したら、興味津々な様子だった。
「俺、ビールばっかり飲んでいるから、カクテルもたまには飲みたいな。じゃあ、俺と薫ちゃんの都合がいい日に、そのショットバーに行こうか」
景歌から聞いた日程をもとに、岩波さんとショットバー【ムーンライト】に行くことにした。
♦ ♦ ♦
ショットバー【ムーンライト】は【パティスリーフカミ】から四駅行ったところにあった。駅に近いので、道に迷うことなくたどり着いた。
「いらっしゃいませ」
笑顔で景歌が迎えてくれる。こぢんまりとしたお店で、照明がオレンジがかっていて「バー」という雰囲気を醸し出していた。カウンター席とテーブル席があり、景歌が勧めてくれたので、カウンター席に岩波さんと並んで座った。
「バーって初めて来たけど、素敵な感じだね」
景歌はにっこり微笑む。きっちり結い上げた髪に、黒のベストと蝶ネクタイが似合っていた。
「あ、岩波さん紹介します。彼女、私の大学時代からの友達で、新条景歌っていいます。このお店でバーテンダーをやっています」
岩波さんは【ムーンライト】を眺めまわしていたが、私が景歌を紹介したことで自己紹介をした。
「ああ、こんばんは。俺は【パティスリーフカミ】の副店長で岩波英二っていいます。ええと……新条さん? でしたっけ。よろしく」
「そんなに改まらなくても大丈夫ですよ。薫から聞いていますけど、同い年らしいですし」
くすくすと笑いながら、景歌はオーダーを訊く。
「ご注文は何にしましょうか?」
「ええと……まずはマティーニで」
「私は任せるよ、景歌。美味しいカクテルお願いね」
景歌は頷いて、数種類の具材を取り出した。ミキシンググラスに氷と水を入れて冷やす。水を捨てたらジガーカップで分量を量り、ミキシンググラスに注ぎ、バースプーンで混ぜて、氷で冷やしていたカクテルグラスに入れてレモンピールで香りづけして終了。ミキシンググラス(混ぜるためのグラス)や、ジガーカップ(分量を量る器具)などの名称は作っている最中の景歌から聞いた。
「お待たせしました、岩波様。マティーニでございます」
カクテルグラスを差し出す景歌の手に、一瞬岩波さんが目を奪われているように感じた。景歌は気づいていないのか、私の分のカクテルを作り始める。
ドライ・ジンとウオッカ、クレーム・ド・カカオ・ブラウンをシェーカーに入れてシェイクする。シェーカーを振る滑らかな腕の動きは一定のリズムで、そのどれもが決まっていて、女の私でも見とれてしまった。
「薫、お待たせ。ルシアンよ」
「あ、ありがとう」
景歌の仕事ぶりを見るのは初めてで、鮮やかな手並みに感心してしまった。ルシアンを口に含むと甘くて、口当たりのいいカクテルで、何杯でも飲みたくなってしまう。そんな気持ちを察したのか、景歌は「もう作らない」と言った。
「ルシアンは飲み口の優しさに騙されて、何杯も飲んでしまうとダウンしてしまうわ。女性にとって要注意のカクテルよ」
「そうなの……」
もう少しルシアンを飲みたかったな、と思いつつ、アルコール度数の低いカクテルを作ってもらった。岩波さんはマティーニを飲んで、しきりに「美味しい」と連呼していた。
「こんなに美味いマティーニは初めて飲んだな」
「ありがとうございます」
そうして景歌は二杯目のカクテルを作り、岩波さんに差し出す。「レッドアイ」というカクテルだった。
「レッドアイはビールベースだな。なんで俺がビール好きだとわかったんだ?」
「岩波様を見ていたら、こういうのがお好みかな、と思いまして」
「岩波さんもカクテルのことよく知っていますね。今度教えていただきたいです」
景歌はさすが、プロのバーテンダーである。景歌の観察眼に恐れ入った。カクテルに詳しい岩波さんも同様らしく、景歌を褒めている。
「すごいな、新条さんは。俺、またこのお店にくるよ」
「それはありがとうございます。またのご来店をお待ちしていますね」
岩波さんと景歌、私の三人で楽しく話して夜が更けていった。普段、岩波さんは頼れるお兄さんという印象が強いが、プライベートで話すと同い年として気が合うことがわかり、親近感を抱いた。
♦ ♦ ♦
日曜の早番で柿本由良ちゃんと仕事をしていたら、電話がかかってきた。私が電話応対をする。
「毎度ありがとうございます。【パティスリーフカミ】でございます」
『ああ、さっきケーキを買った萩原っていうんだけど』
「いつもありがとうございます、萩原様。どのようなご用件でしょうか?」
私が問うと、萩原透さんは言いにくそうに、それでも用件を伝えてくれた。
『あのさ、俺ティラミスシフォンケーキを頼んだんだよ。レシートにもティラミスシフォンケーキって書いてあるし。でも箱に入っていたのはティラミスケーキだったんだ。よく確かめなかった俺も悪いんだけど』
入れ間違いの電話に私は慌ててPOSレジを確かめた。レジ記録を遡ってみる。担当者が「柿本由良」で、商品は「ティラミスシフォンケーキ」になっていた。
「申し訳ありません、萩原様。今すぐにティラミスシフォンケーキを萩原様のお宅までお届けにまいりますが、ご都合はよろしいでしょうか?」
『それはいいけど……。わざわざ家までこなくてもいいのに』
「こちらのミスですので、すぐに正しい商品をお届けに伺います。誠に申し訳ございません」
萩原さんの住所を訊いて、私はティラミスシフォンケーキとお詫びの品である焼き菓子を持って、由良ちゃんに声をかけた。
「私、今から萩原様のお宅まで伺ってくるから、売店が混んだらカフェスペースか実演販売の人に応援頼んでね」
「そんな……。私のミスですから、私が萩原様の家までお届けに行きます」
「そういうわけにいかないの。こういうのは責任ある社員の仕事だからね」
複雑そうな表情の由良ちゃんを残して、私はお店を出る。タクシーを捕まえて、十分ほど乗り、萩原さんのお宅に着いた。とても大きな和風邸宅で、萩原さんのイメージとは違い、多少びっくりしてしまった。
呼び鈴を鳴らすと、萩原さんご自身が出てくれた。どうも待っていてくださったらしい。門をくぐりぬけて、引き戸の玄関を遠慮がちに開いた。
「お邪魔いたします。【パティスリーフカミ】の浅岡薫です。正しい商品をお持ちいたしました。お確かめくださいませ」
私はケーキ箱の蓋を開けて、ティラミスシフォンケーキをお見せする。和装の萩原さんはそれを見て頷いた。
「そう、それ。持ってきてもらっちゃってごめんね」
「いえ、こちらが入れ間違いをしたものですから。本当に申し訳ありません」
持参した、お詫びの焼き菓子も差し出すと、萩原さんは目を見開いた。
「そんなにもらえないよ。悪いじゃん」
「そういうわけにもいきません。どうぞお受け取りください」
焼き菓子をしぶしぶといった風情で、萩原さんは手にした。その代わり、私を奥の座敷に呼んだ。
「こんなに食べきれないから、薫ちゃんも一緒に食べていってよ。五分程度なら構わないでしょ?」
「え? それは……」
「いいじゃん。ね?」
強引に萩原さんに座敷へ連れて行かれて、焼き菓子を取り出して一個渡された。フィナンシェは私も好きだが、お客さんに差し上げたものを食べていいのか迷ってしまう。それでも彼が素早くお茶を出してくれたので、断る隙がなかった。萩原さんはマドレーヌを美味しそうに口に運んでいる。
「これ、美味しいね。今度買うよ」
「はあ……。ありがとうございます」
黒地に更紗柄の着物は、萩原さんのひとつにくくった銀髪に合っていて、普段とのギャップに新鮮さを覚える。いつもとは違う魅力を感じた。
五分ほどおしゃべりをしてから焼き菓子を食べ終え、私はもう一度謝りながら、萩原さんのお宅を後にした。




