表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: 辻本真之
3/3

我は蟻間なり

 モーリスが目を覚ました時、既に分隊長の姿は無く、モーリスは口を滑らしたのかと不安になった。耳の奥を通過するノイズが針で頭を貫くように響き続けている。モーリスは酷く痛む左脚を庇いながら立ち上がり、荒らされた部屋を片付けた。割れたグラスが指を掠り、たちまち赤黒い血が滲み始めた。

 次の日、モーリスは樹高十五メートル程の櫟に登り、樹皮の割れ目に滲み出た蜜をそっと嘗めた。木の香りが混ざった蜜は程良く甘美であった。その泉には甲虫の雌が二匹と、四匹の金ぶんが揃って喉を潤している。あの小さな雄が体格の良い雄を木から投げ落していただの、あの雌が燕に喰われただのと、雑談をしながら食事をする彼らは、モーリスにとって自由を手にした者のように思えてならなかった。閉じた瞼にトニーとウィーリが映る。

 次の日、モーリスは長年苦楽を共にした仲間の顔を思い出さぬよう遅くまで懸命に働いた。部屋のドアを開けて明かりを灯し、橙色に光る電球を数秒目を細めて見つめる。寝床に就くと疲労で直ぐに夢の世界に潜り込めた。見た事があるような部屋に見た事のあるような仲間、それらを照らす水色の光。その夢が何を意味するのか解らなかったが、何処か懐かしかった。次の日も、モーリスは彼らの事を一時も考えないように生きた。誰とも会話をせず、沈黙の中で逃げ場を探していた。


*


ウィーリとトニーが生きていると言う噂がモーリスの耳に入ったのはそれから三ヶ月程が経ってからの事であった。領地の防衛をしていた働き蟻が巣を作る彼らを森の近くで見かけたと言うのだ。その噂はたちまちトビーロシアコロニーの重役を含む蟻達の間で広まった。当然多くの者はその事を良く思ってはおらず、自分達の国を裏切って他国の女王と共に新しい国を作ろうとしているトニーとウィーリを陰で罵った。

 2日後、重役達は緊急会議で決まった方針を掲示板に貼り出した。その内容は防衛軍と精鋭部隊でルリコロニーの生き残りを捕らえ、制圧するというものであった。その時モーリスは直感的にトニーとウィーリが殺されると思った。トニーが居なくなってから目まぐるしく変わる日常にモーリスは混乱していたが、その足は迷うことなく女王の部屋へと向かっていたのである。


*


扉の向こう側で微かな呻き声が鞭の音と共に切なく響いていた。構わずモーリスは扉をノックした。

 「誰よこんな時間に、入りなさい」

 エドナが苛々した様子で扉の向こうの存在に怒りを向けた。

 「失礼するよ、少し女王と話があるんだ」

 部屋に入り、一礼してから部屋を見渡した。左の隅に二匹の下女が震えながら佇んでいた。中央で一匹の下女がうつ伏せで倒れ込んでいる。体中に走るみみず腫れが日々の過酷さを物語っていた。モーリスは怯える下女達を目で部屋の外へ行くように指示した。彼女達がモーリスの横を通り過ぎる時、倒れ込んでいた下女が視線を向けてきたが、目を合わせず、不服そうに下女達を睨むエドナを見つめた。

 「モーリス、話ってあなたの友人の事かしら」

 モーリスの顔を見て幾分表情が緩んだエドナが何かを察したようにモーリスに尋ねた。

 「話が早くて助かるよ、ルリコロニーの領地を制圧するとは本当なのか?俺としてはルリコロニーの女王が生きているのならば、制圧せずに支援する方が周辺国の理解が得られると思うし、恩を売ると言う意味でも得策なんじゃないか。現に俺の友人達は女王と共に新たな巣を作る手伝いをしているらしいじゃないか」

 モーリスにはエドナを説得するだけの理由と熱意があった。昔のように苦しくとも幸せな日々とエドナの優しさに包まれながら働く日常が欲しかったのである。

 「本当に彼らは手伝いをしているだけだと思うの?彼らは私を裏切ってそのまま一生をそこで過ごすような気がするのだけれど。だってそうでしょう?新しい巣を作るならもっと人手が必要じゃない、どうして仲間を呼ばないのよ。それにいつ帰ってくるかも分からない子達をいつまでも待っている訳にはいかないわ。あの領地が手に入れば、もっと良い物が手に入るもの」

 「もし彼らがあなたに歯向かったら?」

 そこでエドナの瞳が鋭くモーリスを捉えた。

 「モーリス、あなたは私のやり方を知っている筈よ、歯向かう者は例外無く殺さなければならないの。いつだって生物は生き残る為に秩序と規則を守るし、罪を犯す。でも私はそれが悪い事だとは思わないわ」

 エドナは自らの主張を自分に言い聞かせるように言葉を飲み込みながら着実にそれらを吐き出した。彼女の心に迷いは無く冷酷であるとも取れたが、モーリスは、彼女の目の中心、幾つもの筋が中央に向かって伸びる虹彩によって狭められた底の見えない暗闇に目を凝らした。少しでも彼女の心の影を引き出したかった。

 「分かった、それなら俺はここを出て仲間と合流する、いつまでも気の合わない連中と働いてたんじゃ気が滅入っちまう。じゃあな、あんたには世話になったよ」

 そう言ってモーリスは踵を返し扉の取手に手を伸ばした瞬間に、背後で奇声とも取れる叫び声が破裂する。

 「あなたまで私を見捨てるのね」

 取手に触れようとした手の筋肉が瞬間的に収縮し、身体の動きが止まる。落雷が地響きを伴って大地を叩き付けた後に来る静けさが辺りを包む。不意に開いた扉にモーリスは後方へ体を仰け反らせた。駆け付けた警備の蟻がモーリスの腕を乱暴に掴み、引き上げる。牢獄に連れて行きなさい、エドナが呼吸を整えながら吐き捨てるように言った。


 孤独に耐えうる者などいるだろうか、モーリスは一度失いかけた友を想い、幾度となく涙を流した。口を塞ぐ事で不安の波は何度も心に押し寄せ、その度に心の軸を揺らすのである。モーリスは通り慣れた狭い通路を背中を押されながら歩いた。彼女は真実に辿り着けるだろうかと考えた。天井の蝋燭の火が揺らめきながらも暗闇を照らし出していた


*


 心臓の鼓動は落ち着いたが、誰も居なくなった部屋に取り残され、どこからとも無く怒りが腹の底から再び湧き上がってくる。身震いして大きく息を吸う。自発的では無いにしろ、エドナの毅然たる振る舞いで多くの者が離れていった。エドナは自分のやり方が間違っている事など分かっていたが、それを否定してしまえば自分を否定してしまうようで恐ろしかった。モーリスの表情が目に映る。彼は襤褸布を纏った少女を見るように、惨めでならないといった目をしていた。一つ一つ大切な物が欠けて世界は色を失いつつあった。何も考えず、悩む事も、迷う事も、選ぶ事さえ放棄した蝋人形のようにエドナは虚ろな目で世界をぼやかしてみる。


*


「そこの布で体を拭いてくれない?」

 エドナは額にある汗の粒を手で拭いながらまだ少年であったモーリスに頼んだ。はい、と言ってモーリスはお湯に浮かんだ布を手に取り、力一杯絞る。

 「大変でしょう、今日も兄弟が増えるのは喜ばしい事ですけど、もう少し母親の腹の中でゆっくりしても誰も文句は言いませんよ」

 モーリスはエドナの体を丁寧に拭う。美しく弧を描いた背中には透明な体毛が蝋燭の灯りに反射して薄い絹を着ているように見えた。

 「そうね、でもあなたの時も大変だったわよ、皆早くこの世に生まれたくて仕方が無いみたいね」

 モーリスは少し頭を掻いて頬を緩めた。エドナが頭を下げながら腰の辺りに力を込めては、また新しい命が産み落とされる。お付の老婆が卵を順に部屋の隅に並べていく、彼女は二人の会話を聞きながら微笑んでいるだけであった。

 「この世界には辛い事の方が多いのに、どうして生物は生きようとするのかしらね」

 モーリスはきょとんとした表情でエドナの顔を覗き込んだ。くだらない質問をしたとエドナは後悔したが、それは喉元からうっかりと出てしまった本心であった。きっとこの老婆ならば何か答えてくれるかも知れないと心が緩んでしまったのかも知れない。卵を拭いてあげましょうか、エドナは沈黙を破る為に話題を変えた。その時、老婆と目が合った、相手を掴んで離さない不思議な力の宿る瞳である。目尻の皺は優しさと厳しさを備えたまま深く、あるべき場所に居座っていた。

 「世界と折り合いをつける為、では駄目でしょうか。こんなにも焦ってこの世に生まれてきたのに、初めて空気を吸う瞬間の烈々たる衝動の中で私達は全てを忘れてしまったんです。また一からやり直すしかありませんよ。どんなに辛い事があっても腹が減ったら飯を食うし、蝶になって空を舞ってみたいと思っても土を掘ることしか出来ないただの蟻なんだと思い知らされる、明確なお手本など無いのに、橙色に輝く空と海の境界を見つめた時には心が震えて涙が出ます。生きるという本能、蟻だという事実、美しい物を美しいと思える感覚に折り合いを付けるんです。どうしてだろうかって思う事は正直沢山ありますよ、答えなんて無いんです。でも追いかていればある意味違った形で納得することもありますから。生とは不思議なものです。分からないと不安になるのに、世界には分からない事の方が多いのですから」

 そう言って老婆はただ微笑んでいるだけであった。


*


世界と折り合いをつける、その言葉がエドナの耳から離れなかった。しかし、いつからか老婆の言葉の上に悪意を孕んだ正義が塗り固められてしまったのである。あの老婆が死んだ時の大切な友を亡くした悲しみはあれほどに切なかったと言うのに、いつしか自分の理想の為なら仲間が死ぬのは仕方ない事だとエドナは思うようになった。エドナは自分の愚かさに嫌気が差し、掌を額に当て溜息をついた。

 何かを得るためには何かを捨てなければならない。三年前、他のコロニーを侵略した際、狼狽えたエドナに対して幹部の一匹が囁くようにそう告げたのである。情を捨て、すべき事を全うしなければ、守るべき物は守れないのであると。規律の無い国ではいつ滅ぼされるのか分からない。それからエドナは働き蟻に危険な仕事をさせた、歯向かう者には罰を与え、規律を維持した。全てこの国を繁栄させる為には犠牲は必要なのだと決め付けていたのだ。それ以来この巣の中には険悪な雰囲気が漂い始め、幹部の暴走をエドナは黙認するようになった。幹部達は働き蟻を奴隷のように扱い、逃げ出さぬように見せしめに数十匹の蟻を殺し、働かせるためだけに恐怖を持たせて利益だけを求めたのだ。家畜と化した働き蟻達の表情は次第に疲労とストレスで煌めきを失ってしまった。エドナも活力を無くした蟻に暴力を振るうようになる。事実、トビーロシアコロニーは広大な領地を占領し、食糧危機に見舞われる事も無くなったが、働き蟻達の心にある豊かさを奪ってしまったのである。

 エドナは何かを得るために捨てた何かを今更になって拾う事に躊躇した。女王として存在する使命を履き違えた事に対する後悔だけが頭の中で渦巻く。エドナには特定の信仰はなかったが、苦難が立ちはだかった時にのみ神頼みをする人間のように今は神に償いの許しを請うた。


*


エドナは女王部屋の正反対に位置する牢屋の前で立ち止まった。うたた寝をしていた警備の働き蟻は、近付いてきた女王の姿に目を見開き慌てて姿勢を正す。皆一様に固まったまま目を付けられまいと必死で視線を正面に向けたまま、あるいはその空間を調和する置物のように動かなくなってしまった。牢屋は通路の両側にそれぞれ十部屋あった。それぞれの部屋には軽い罪を犯した者が三匹ずつ投獄されていて、壁を頑丈な石で固められていた。ひんやりとした空気が漂い、辺りは静まり返っていた。奥へ進むと正面に一つだけ大きな牢屋があり、中は薄暗かった。木で出来た格子に手を突いて中を覗くエドナの存在に誰も気付く様子はなく、ただ俯いていた。ふと一匹の蟻が顔をあげてエドナと目が合ったが、その蟻の虚ろな目線はエドナを通り越したその奥にあり、直ぐにまた俯いてしまった。女王さん、と後方から呼ばれエドナは振り向いた。モーリスは投獄された者とは思えないような穏やかな表情で、何か御用かい?と尋ねた。エドナは看守に牢屋の鍵を開けさせ、無言でモーリスを連れて牢屋を後にした。周りの者はその一部始終を神妙な表情で見ていただけであった。


巣の最深部にある一室は他の部屋に比べて狭く、客室のようにも見えるこの空間だけはここ数ヶ月間使われている様子がなかった。故に彼女はここを話合いの場に選んだのだろう。牢屋から連れ出された解放感からか瞼が重くのしかかってくる。室内の中心にある一人掛けのソファに腰掛け、エドナにも座るように目で促してみる。彼女は躊躇いながらもソファの土埃を払ってから腰を沈めては何も言わずに俯いてしまった。一息ついてから何かを喋ろうとしたがそれを唾と一緒に飲み込んだ。どのようにすれば彼女に女王蟻としての道筋を見出してもらえるのか考えた。暫く静かな時間だけが流れる。部屋には密度のある空気が立ち込めていて、夏であるにも関わらず涼やかな冷気が土壁から滲み出していた。天井に取り付けられたムスカリの花びらのような洋風のランプシェードから漏れる柔らかな灯りは全体を暖かく照らし出す。入り口の反対側の壁に掛けられた絵画の中では、一人の女が草原の中心で佇み、彼女の白いワンピースを翻す風は女の存在すら曖昧なものにしてしまう程に激しく、また優しくもあった。作者の手カメラに映る彼女は、この絵が描かれる頃には既に時の流れに飲み込まれてしまったのだろうか、絵の中に流れる閉鎖的な時間は一方的な過去への執着のようにもとれた。

 エドナを一瞥した時、彼女は静かに涙を流していた。初めて見る彼女の弱さに僕は胸を締め付けられるような感覚に陥った。どうしても彼女を憎めなかったのは、そう、彼女の側に居て見付けた彼女の中心にある良心、いや、もっと深くて重い、親から貰う温もりにも似た心の軸のようなモノ。それを忘れる時、心ある生き物はきっと生きながらに腐敗し、色味を失ってしまう。それを僕に教えてくれたのは他でもない、彼女である。そして、その綺麗な一滴の孤独に僕はまた口を噤んでしまうのだ。

 「けじめを付けないといけないわ」

 消えてしまいそうな声で、だが僕にはっきりと聞こえる声量で彼女は確かにそう発した。瞬間的に僕は彼女が何をしようとしているのかを理解して目を見開く。彼女は侵した罪を全て背負いこの巣から消えるか自らの命を断つつもりだ。女王であるエドナが居なくなれば何千もの働き蟻が路頭に迷い、コロニーが数年後に消滅するのは明白だった。中には無念のあまり自害する者も出てくるだろう。それだけはあってはならない、ここで僕が動き出さなければ昔のような平穏な日常を取り戻すことは不可能なのだ。何でもいい、想像力を総動員して希望を見出すしか道は残されていなかった。

 「俺は自分の事俺だなんて女王に向かって偉そうな口叩いているが、本来なら有り得ないだろ?よそのコロニーでそんな事してみろ、その場で首を食いちぎられるだろうよ」 僕は出来るだけ冗談ぽく顎をカチカチ鳴らしながら手で首元を掻き切る真似をした。

 「だけど俺はそこまで命知らずの馬鹿でも怖いもの知らずの能無しでもない、小せぇ時から俺はあんたが誰よりも愛情深い事を知ってる。それに漬け込んで甘えてるだけなんだ。情けねぇけど、そうやって生きてきたに過ぎないんだって事。俺が今のあんたみたいに挫けそうになった時、げんこつ打って怒ってくれたから今もこうして地に足付けて踏ん張って生きてる。俺の言う事に何も言わずただ黙って頷いてくれた日も、あんたがいなけりゃこんなにも遣る瀬無い気持ちになることなんか無いだろう?俺も手伝うからさ、生きるって苦しい事だけじゃないんだって、卑屈になるなって、怒ってやってくれねぇか」

 気付くと僕の頬にも温かい涙が絶えず伝っていた。目の縁から溢れた涙を直ぐに拭き取り鼻を啜った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ