白い水鳥、緑の木の葉
毛布の上で、トニーは胡座をかいて座っていた。中央には女王が机に向かってひたすら筆を滑らしていた。その奥には先程の下女二人が眠たそうな顔で、あるいは蝉の抜け殻のような無表情で、立っていた。蝋燭の火が入り口の隙間から入ってくる微弱な風によって揺らめき、薄暗い部屋の中で影だけが絶え間なく動いていた。どうして俺はここに居るんだ、と言う質問をしてから随分と時間が経っていた。
「出来たわ」
筆を置いて女王が呟いた。
「何を書いていたんだい?」
女王は丁寧に紙を畳んでからそれをトニーに手渡した。
「あなたが自分の国へ帰った時、逃げ出したなんて言ったらどんな目に遭うかわからないでしょ?」
手紙にはこう書いてあった。
「トビーロシアコロニーの女王エドナ様へ。私はルリコロニーの女王マリーと申します。この度筆を取らせていただいたのは、他でもない、あなたの愛する子供の事です。本日、うちの若い者達が国境を越えて入ってきたトニーを捕らえ、牢獄に入れてしまったのです。話を聞くと、ルリコロニーの領地にあった美しい花の花弁を摘んで貴方様へ贈りたかったと話してくれました。貴方の事をよほど敬愛しているのですね。その様な者を解放せずには居られないもので、この手紙を持たせて無事に送り届けます故、何卒彼を叱らないでやってください。ルリコロニー女王マリーより」
マリーは少し照れくさそうに微笑みながらトニーを見ていた。
「俺は花に興味は無いし、彼女に贈りたいとも思わない。けれどありがとう、純粋な振りをするのは得意な方なんだ。きっと彼女は許してくれるに違いないだろうな」
「今のあなたはとても純粋そうに見えるけれど、それも何かの振りなの?」
そう言ってマリーはクスクスと笑った。彼女は笑うと頬が上がり目が閉じてしまう。その笑顔はまさにマリーゴールドの花のようであるとトニーは思って、少し自分でも笑ってしまった。トニーは彼女の心遣いを無駄にしたくなかったのと、ここに留まりたいと思う気持ちが交錯していた。そして再び手紙の文字を読み直した。整った文字は彼女の心を映しているようであった。
*
「ここの連中は皆歌が好きなようだが、誰に教わったんだ?」
トニーは疑問に思っていたことマリーに聞いてみた。
「私が皆の小さい頃によく聞かせてたの、そしたら皆思い思いに音楽を生み出していったわ、本当は子供を寝かしつける時に歌う子守唄のようなものなのだけれど、本質が変わらなければ色んな形に変化させることが出来るの。相手や自分を鼓舞したり、楽しませたり慈しんだり、不思議と悲しい気持ちになったりする時もあるわ。言葉には出来ないけれど生きとし生けるものには必要なものなのよ、きっと」
*
トニーは少しマリーに近付いた。二人の下女がトニーを少し見てからわざとらしく咳払いをした。
「それならその子守唄を聴かせてくれないか?それを聴きながらもう一眠りするよ」
「駄目よ、もう日が登っているんだもの。もう帰った方がいいわ。エドナもきっと心配していると思うの」
マリーは自分の爪を見つめながら呟いた。細く艷やかな腕が屈折して美しく伸びていた。トニーはきっと心配している、と言う言葉が気に食わなかった。エドナは我が子が一人居なくなった所で何とも思わないだろう。親が子を心配するのは当然のように思えるが、この世には子供を捨てる親も少なからず存在するのだ。その事を知りながら多くの者は見ない振りをする。世界の純粋な部分だけを見ていたいのである。
トニーはここに残る口実を探した。日が昇っていても部屋の中は夜と同じ様に薄暗い。外の空気を吸ってくるよ、とマリーに告げ、部屋を出た。胸の中がこそばゆい、不意に心臓の鼓動が速くなるのを感じた。辺りが一瞬静かになり、地響きを伴った妙な音が巣穴の中に反響していた。トニーの頭の中に無数の可能性と選択肢が渦巻いた。興奮とも取れる悪寒がトニーの身体の内側から津波のように押し寄せた。
*
Moon drowned in the song
その歌を聴かせておくれよ。水色の川にふわりと落ちた緑の葉は僕を乗せて流れ行く。寝転ぶと両側に沢山の葉をつけた木が聳えていて、その隙間にも水色の川が流れている。
その歌を聴かせておくれよ。葉で出来た船は川の淀みに流れ着き、水面を覗いて動かなくなった白いハクチョウの脚の下を通り過ぎる。僕は必死に小枝のオールを漕いでようやく流れに乗ることが出来たのさ。
その歌を聴かせておくれよ。岸が遠くに見えた頃、海と空との境界線に溶け込む夕日を追いかけた。無情にも空は群青色へ移り変わって行く。僕は緩やかな流れにとうとう退屈してしまったので、一度だけ君が歌っていた歌を思い出しながら口ずさんだ。分からない所はハミングで繋ぐことにした。
その歌を聴かせておくれよ。静かな夜に一度だけ。波の音に耳を傾けながら黄金の月に浮かぶ陰影を見つめた。僕を導く潮風は理由もなく僕を未知なる世界へ誘う。
*
トニーは息を切らしながら出口へ続く細い道を辿る。天井を這うようにして吊るされた蝋燭の火が所々消えかかっていた。左に逸れる道から少女が顔を出して外の様子を窺っている。
「部屋に戻っておくんだ、何かあるといけない。さあ、早く」
トニーは不安を目で語る少女の背中を押して部屋へ戻した。今頃はマリーも異変に気づいているだろうとトニーは確信した。通路を行くと通常の部屋の二十倍はある空間に出た。やや縦長の広間は天井も高く、土の柱が部屋を縦に四分割するようにずらりと均等に並んでいた。
そこには三百匹を超える体躯の大きな男達が昨日まで呑気に歌っていた様子からは想像出来ない程の真剣な眼差しで整列していた。入り口に佇んでいたトニーは漂う張り詰めた空気に息を呑んだ。正面の一番奥に一匹の蟻が台の上で直立不動のまま整列した男達を睨んでいた。トニーは男達の間をすり抜け、中央付近まで移動した。ぼやけていた台上の男の顔が鮮明になった。眉間に強く寄せられた皺と歯を食いしばって角張った顎は彼の心の中で対峙する何かに抗っている事を示唆していた。そこまで見えた後にその男がイーサンである事にトニーはようやく気が付いた。出会って間もないが、そのような表情をする男には到底見えなかったのである。暫くしてイーサンと目が合った、そして彼はトニーを見るなり、その固くなった表情の中で薄ら笑いを作ってみせたのだ。そしてトニーはこれから起こることがただ事では無い事を確信せざるを得なかった。
一匹の小柄な蟻が出口へ続く穴から息を切らして滑り込んできて、すぐにイーサンの耳元で何かを囁いた。次の瞬間、イーサンの声が淡々と、だが確実にそこにいた全員の耳を捉えていた。
*
俺達は人間のガキにすら勝つ事が出来ない。奴等が俺達を殺す時、好奇の目をしていると思うか?俺の仲間は一本ずつ脚を千切られ、最後に胴体を真っ二つだ。それでも奴等は笑顔を浮かべていやがった。俺は身体が凍り付いて涙なんか出やしない、奴等は狡猾で残酷だ。奴等にとって暇潰し程度のもんなんだって単に思っただけだ。だがなぁ、あいにく俺達は悪魔の暇に付き合ってやるほど心が広くない。奴等に負ければ今度はマリーが死ぬ。だが俺達が死んでもマリーさえ生き残れば俺達の勇敢な弟達がまた何度だって立ち上がってくれるんだ。マリーが俺達を弔う時、俺達は勝利する。覚悟を決めろ。お前達のその顎がただの飾りでないのなら存分に見せてやれ。
そこで男達は一斉に咆哮した。巣が壊れるのでは無いかと思うほどに大きく、その音は鳴動し続けた。その後イーサンは台を降り、次に別の男が作戦を足早に説明し始めた。
十分程前、外で作業していた蟻達が人間の集団を発見する。そして人間の子供がルリコロニーの以前使っていた巣に水を流し込んでいるのを発見したのであった。
大隊長が小隊長を集め、小隊長が分隊長へ作戦の内容を伝言していく。トニーは自分よりもまだ若い分隊長が話す内容を側で聞いていた。この広間の至るところに末広がりの穴を掘り、深層階への水の影響を和らげ、下へ繋がる通路を働き蟻達の肉体で塞ぐと言うものであった。男達はすぐに作業に取り掛かった、いつ水を注ぎこまれるのか分からない状況下でも皆の顔には何かが吹っ切れたような清々しささえ感じ取れた。
トニーは突然肩を叩かれ、振り向くとイーサンがいた。
「やぁイーサン連隊長、君がそんなに偉い軍人だったなんて驚いたぜ」
トニーは無理に笑って見せたが自分の頬が引きつっているのを自覚していた。
「こんな状況じゃそんな称号はなんの役にも立たないさ。そんな事よりもトニー、お前に頼みたい事があるんだ」
イーサンの真っ直ぐな瞳は今まで見てきた働き蟻の中で最も頼もしく、トニーの瞳を離さなかった。イーサンの背後では既に完成しつつある水流誘導穴の周りで男達が意見を交わしている。高い天井から降り注ぐ灯りは広間全体を赤茶色く映し出していた。
「分かってる、俺はここで君達と生きる選択をしたんだ。今更逃げようなんて思っちゃいないさ、覚悟は出来てる」
トニーはイーサンの瞳を見返した。
「マリーを守ってやって欲しいんだ」
トニーは意表を付かれて目を見開いた。
「俺は不自由なく生きてきた。仕事なんてこの国の為だと思ったらそこまで辛くはなかった。夜の澄んだ空気に包まれながら仲間と歌った事や、マリーと酒を飲みながら語り合った事。泣きやまない赤ん坊の世話を必死にした事。もう未練はない、俺は死んででもマリーを助けられるなら本望だ。だが今の状況は俺の大切なもんを全て奪ってしまうかも知れねぇ。だからお前は女王を連れてもっと広い世界で海や高い山、色んな生き物に出会うんだ、世界はお前の知らない事ばかりなんだよ。もう時間がない、後で悩む時間なんていくらでもある、だが迷うんじゃない。迷ってる時間があるなら今すぐマリーのところへ行って出口を掘るんだ。分かったな」
そしてトニーの肩をそっと押した。
「そうだな。誓うよ、マリーは俺が死ぬ事になっても守ってやるさ」
イーサンは豪快に笑ってトニーに手を振った。その目には、僅かに潤んで蝋燭の灯りに照らされる真っ直ぐな瞳があった。
既に多くの蟻達が地下に繋がる穴に整列し、互いの腕を組んでバリケードを作っていた。それが幾重にも重なり今にも通路に栓をしようとしている。トニーは男達をすり抜けて地下へ走った。
*
トニーは走った。後方では男達の歌声が響いている、薄暗い通路をひたすら走った。そのうち歌が遠ざかっていく。トニーはこの世界に自分だけが一人無言で走り続けているような錯覚を覚えた。目の前に続く蝋燭の灯りが永遠に続いていて、走ってきた道のりはすぐに崩れてゆき、闇へ消えてゆく。トニーは走らざるを得なかった。灯りの直線を見ていた筈が、いつの間にか目の前に映るのはモーリスとウィーリの微笑む顔であった。トニーは小さい頃から不安で心が押し潰され、涙で視界が歪む時、いつも同じ絵画のような光景が現れるのだ。背景は淡紅色で温かみのあるその絵を見る時、少しだけ心が軽くなるのである。
*
湯気の立ち昇る水が地を這うようにして流れてきたのは、マリーのいる部屋の前に着いた時であった。トニーは目を閉じてイーサンの事を考えた。そこには豪快に笑うイーサンの絵があった。
扉の向こうにいたマリーは俯いて座っているだけである。二人の下女はどうしていいのかわからずただ呆然と立ち尽くしているのであった。
「イーサン達が上で水を塞いでいるから早いうちにここから脱出するんだ、早くこっちに来てくれ」
マリーは俯いたまま動かない。トニーはマリーの肩に手を回して優しく抱きしめる。
「君が辛いのは分かるけど、今は一刻も早くここから出ないといけないんだ。分かるだろ?」
マリーは手を振りほどいてトニーを鋭く睨みつける。
「そんな簡単に言わないで。あなたは何もわかっていないわ。こんなの嫌よ、私も死にたい」
マリーは泣きながらそう訴えた。トニーは軽率な事を言ってしまったと後悔したが、もう彼女を宥める時間がない。
「すまない、そんなつもりは無かったんだよ。何もしなくて良いから安全なところへ行こう、でないと彼らが報われない」
トニーは部屋の隅を掘り始めた。天井に染みついた水の跡が見えたが、それが何を意味しているのか理解するのにさほど時間は掛からなかった。
奥に進むに連れ酸素が薄くなるのと蓄積された疲労がトニーの体力を真綿で首を絞めるように蝕んでゆく。一匹がやっとの事で通れる穴を上に向かって掘りながら、または狭い世界から抜け出そうとするように暗闇の中で足掻いた。トニーは呼吸が荒くなり、身体の末端が痺れてゆくのを感じた。それでも休むこと無く目の前の土を削り続けた。
下女達は、トニーが掘った土を部屋の外へ運び、水が侵入するのを防いだ。マリーは俯いて肩で息をしていたが、時々トニーを垣間見た。トニーはその眼に映る世界は悲しみと不安で色褪せていて、その中に希望を見いだせないでいると察した。
トニーは自分を鼓舞するように歌を歌ってみる、それはイーサンが歌っていものであった。イーサンは昔、マリーに許しを貰って旅へ出たと話していた。トニーは笑みを浮かべた、その情景を思い浮かべながらまだ見ぬ世界に期待を膨らませて。
*
分隊長は眉間に皺を寄せ、腕組みをしながらモーリスを睨みつけている。その手にはやはり鞭を携えていた。滅茶苦茶に荒らされた小さな部屋は、拷問をするには好都合であった。
「お前の同居人は次々と消えていくんだが、何か知っているんだろう?早く吐かないと死ぬまで続くんだぞ」
そう言って分隊長は鞭をモーリスの顔目掛けて振り下ろした。しかしモーリスは黙っていた。今にも零れ落ちそうな仲間に対する不義の言葉が自己嫌悪への入り口に繋がっている事を知っていたからである。モーリスはただ痛みに耐えながら必死に口を閉ざしていた。口は災いの元であるようにモーリスは部屋の外ではあまり多くを語らなかった。朦朧とする意識の中で懐かしい日々の思い出がモーリスの瞼の裏側でふと蘇る。
「食料庫にある死がいを見たか?飛蝗の脚を運び入れるときに、腰が抜けて倒れ込んじまったよ」
モーリスは何処か定まらない一点を見詰めながら正面に座るトニーとウィーリに尋ねた。
「雀蜂のお頭だろ?あれは旨いんだぜ、なかなかお目にかかれない代物だから今回は女王のもんだろうけどな」
トニーは口を開けながら大きくないテーブルに肘を付いて目を細めながら笑っている。
「確かに不気味だね、近付くと今にも動き出すんじゃないかと思って気が気じゃないよ」
「あれだけ恐ろしい昆虫も死んだらただの食料だ、呆気ないもんだよな」
そこで少しの間が空き、モーリスはトニーの開いた口元にいつの間にか涎が溢れそうになっているのに気が付いた。
「死んだら何処へ行くんだろうね。皆はあの世なんて言うけれど、誰も見た事なんかないんだろう?」
モーリスもウィーリと同じような事を、仲間の死を弔う時に考えた事があったが未だに答えは出せていなかった。
「死んじまったらそれで終わりだろ、意識なんて消えちまって、考える事なんか出来なくなって消滅するんだ。墓を作ってもそれは生きている奴にしか意味なんて無いんだろ」
モーリスは水を啜りながらそう答えたが、説得力を欠いていることを自覚していた。
死んだ後に魂が消滅するならば、生は何処から来るのだろうか。この世に生きる意味など無いのならば、生が存在する意義など無いのではないか。命あるものが、見えない誰かの計画に知らぬ間に加担していて生かされている様な気がした。それが神の存在であれば、生きる意味を見出だせない生涯に何をしろと言うのだろうか。答えなど無い様に思えて、モーリスは考える事を止める。
生の意味を考える時、命あるものは皆狼狽えるのだ。そしてこの世の理を知る神は口を開くことは無いのである。